idematsu-qのブログ

屋根のない学校をつくろう

どうなる・どうする

 

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 本日は映画「燃えよ剣」を観てきました。全編を通して、主役・土方歳三を演じる岡田准一と殺陣の格好よさが際立っていました。その中で奇妙に耳に残ったやりとりがあります。

 病床の沖田総司が見舞いに来た土方に「どうなるんでしょうか」と尋ねます。激動する時代、新撰組の行方に関する問いだったように記憶しています。これに対して土方は答えます。

 「『どうなる』は、婦女子の言葉だ」。男子たるもの、「どうする」と問うべきだと。

 「婦女子の言葉」は全くいただけないけれど、言いたいことはわかります。「どうなる」には主体性がない。時代は自然に発生するものではなく、自分たちで作るものなのだ、という強い自負と意欲があふれていました。

 

 学生はしばしば「どうなる」を口にします。世界の変化やその中での日本の地位といった大きな「どうなる」もあるけれど、それと同じぐらいの頻度で出てくるのは自分の将来への「どうなる」。その一言が出てくるたびに、質問します。あなたの将来なのに、自分では何もできないの、誰かが作ってくれるのかと。すると学生は必ずと言っていいほど、こう返してきます。「だって、自分には何の権限もないし、力もないから」。では、マララさんはどうかな、ただの女の子だったね、となおも問い続けます。「自分に何の力があるのかな」と学生が言いはじめたらしめたもの。投票できるよね、たかが1票、されど1票。あなたには力があるんだよ。ここまで重ねると、学生もやっと「そうかなあ」と自分の持つ力を改めて考える学生も出てきます。

 

 本日は投票日でした。10月31日20時現在、自民党が単独で過半数を取れるかどうかはギリギリと報道されていました(NHKニュースから)。国会議員10期も務めたベテランが、野党統一候補に敗れた選挙区もあったようです。1票が何かを動かそうとしているのでしょうか。「どうなる」が「どうする」に変わっていく兆しなのかもしれません。(マツミナ) 

いい加減に生きる?

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自分の思考を振り返り、考え込む学生。こういう姿を見るとほっとする(マツミナ)

 

 早く寝なきゃと思っているにもかかわらず、つい映画を見てしまうことがあります。昨夜は「すばらしき世界」を見てしまいました。

 人を殺した男(役所広司)が、13年の刑期を終えて出所するところから物語は始まります。養護施設で育ち、14歳で少年院に入って以来、大半を刑務所で過ごしてきたけれど、今度こそはまっとうに生きていこうと努力を始めます。そうした姿に、身元引受人だけでなく、近所のスーパー経営者らも手を差し伸べるようになります。とはいえ、いったん脱落した人に社会は寛容ではありません。これでもか、というぐらい、男は打ちのめされていきます。

 苦労の末、高齢者の介護施設にパートとして雇われることになりました。支援する人々が開いたささやかな祝いの席で、こんな助言がされていました。

 「(あなたは)人間がまっすぐすぎる」

 「私たちってもっといい加減に生きてんの」

 「(理不尽が)向かってきても、耳を塞ぐ」

 「切り捨てていかなくてはいけない」…。

 目の前で困っている人を放っておけない、そのために厄介事を背負いこむことになってしまった男に対して、身元引受人たちは「もっといい加減になれ」と諭すのです。このいい加減は「良い加減」ではないでしょう。異質な者を排除して、ようやく社会は危うい均衡を保っている。そこで生きていくために「まっすぐすぎ」では自分の身を守れないのだ、と伝えようとしていたのです。

 

 明日は衆議院議員選挙です。読売新聞朝刊(10月30日付)には、有権者としての心構えを書いたコラムが掲載されていました。末尾にこう書かれていました。「政治の世界ではベストの選択など望んでも無理です。ベターも簡単ではありません。『よりまし』『より悪くない』ぐらいの醒めた目で見た方がいいと思うのです」。コラムのタイトルで「公約に厳しい目を」と大上段に構えていただけに、拍子抜けしました。

 

 いい加減に生きていないと均衡を守れない社会、「よりまし」程度で投票するよう推奨される選挙…。

 「すばらしき世界」では、たびたび空が映し出されていました。すばらしき世界はいつかきっと実現できる、そのために私たちはもっと考えなくてはいけない。そんなふうに受け止めました。明日、必ず選挙に行きます。(マツミナ)

ボケが始まったかな?

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カメさんの日光浴 ボクも混ぜて(イデちゃん)

 

  来年の手帳を買いました。

 30年ほど前から同じ形式の手帳を使ってきたのですが、昨年末、同じものだと思って買った手帳の形式が違っていました。12月末のことで、お目当てのものを発注しても届くのは年明けになるというので、間違って買った手帳を使うことにしました。そこで今年は早めに購入したのです。

 

 これまで使っていた手帳は見開き2ページにひと月分の予定を記入する事ができ、左から月曜日を頭に日曜日まで1週間ごとの横組みになっています。中は1週間単位の予定表で月曜日から始まります。

 ところが、間違って買った今年の手帳は月予定の欄の形式が異なり、日付が上から下へ縦に並んでいて週ごとの区切りがありません。そして週の予定表は日曜日から始まっていました。

 

 現役の頃は予定表に記入する事項が大量にあり、会議の開始時刻や面会のダブルブッキング等に注意を払ったものでしたが、退職してからは予定が何も書かれない日が多くなり、週のほとんどが空白のままのことも珍しくありません。ですから、予定が錯綜して時間や日付を間違えたり忘れたりすることはないはずなのですが、たまに勘違いしていたり間違って記憶していたりして慌てることがありました。

 

 最初は「ボケが始まったかな」と心配しましたが、原因は手帳の形式の違いにあるように思えてきました。これまで何十年も月曜日から1週間が始まる生活サイクルに馴染んできました。「月・火・木・金・土・日」のサイクルと「日・月・火・木・金・土」のサイクルの違いです。ずっと感じていたストレスは長年馴染んだ月曜日スタートの仕事サイクルと日曜日から始まるカレンダーのサイクルとのズレが原因だったような気がします。どうやら記憶は生活のサイクルと連動しているようです。(イデちゃん)

 

  

追う・追われる

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扇雲の要には、何があるのか(マツミナ)


 「質問力を磨く(Class Q)」の学生が書いたリフレクションシートを読んでいると、誠実さに胸を打たれることがしばしばあります。

 ある学生は、学園祭のバンド練習で課題に取り組む時間がなくなったことに困っていました。学園祭が終わったら何とか時間ができる、と考えていたのに、いざ終わってみると、気が抜けてやはり課題に手がつかない。そんな時に、ふと同じ教室の仲間の課題を見て、青ざめます。

 

 「◯◯さんは、ミナ先生から『情報カードを30枚以上書いてきなさい』と言われて、100枚書いてきた。きっと仕事ができる人とはこういう人なのだろう。やった方が力がつく、と思ったことは、必ずやり遂げるのだろう。だから私は◯◯さんに追いつけない。今までに何回も追いつこうとして挑戦をしてきたが、勝てたことなど1回もなかった…」(男子学生)

 

 当の◯◯さんはこう書いています。

 「ミナ先生から『30枚以上』と言われた時、ノートには『50枚以上』と書いた。次に先生が『50枚以上』と言われたとき、絶対に100枚以上書くと決めた。言われたことをやっているだけでは、成長は高が知れている。私は追う側なのだ」

 

 そうした切磋琢磨は、他の学生にも影響を及ぼします。2人の課題を見て、自分の課題を書き直す学生も出てきます。

 他者と比較することは劣等感につながるし、他者による評価で傷つくこともしばしば。でも「親ガチャ」に救いを求めることもなく、自分や仲間に向き合う学生の姿に、こちらも背筋が伸びるような思いがします。(マツミナ)

親を見りゃ ボクの将来 知れたもの

 

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鳥たちへのプレゼント(イデちゃん)

 

 「親ガチャ・ガチャガチャ」(マツミナ 2021.10.26)を読んで「親を見りゃ ボクの将来 知れたもの」という中学生が詠んだ川柳を思い出しました。

 昭和46年か47年頃のことです。それまで右肩上がりで続いていた高度経済成長に翳りが出始めていたとはいえ、45年に開催された大阪の万国博覧会の盛況ぶりや毎年ベースアップが続く公務員の給料表を見る限り、やがてやって来る低成長時代を想像するには至りませんでした。日本経済が右肩下がりになっていくことを実感したのは昭和48年のオイルショック以降のことです。

 

 そんな時代に育った中学生が作った川柳です。「もっと勉強していい成績を取らないといい学校に行けないよ」と叱咤する親に対して、「うるさいなあ、所詮オイラはあなたの子どもだよ、頭の悪いのは親譲りだ」とでも言いたかったのでしょう。子どもの呟きからは親を恨むというよりは、むしろユーモアが感じられます。

この頃はまだ「勉強して、いい学校に行く」ことは多くの子ども達に共通した希望であり、我が子に対する親の期待でもありました。また、子どもも「親を見りゃボクの将来知れたもの」などと悪態をつきながらも、期待に応えようとがんばった時代だったように思います。

 

 近年、各種の調査から、子どもの学力と家庭の経済力が関連しているということが明らかになってきています。最近の東大生は約60%が世帯年収950万円以上だそうです。小さい頃から教育にお金を費やすことができる家庭の子とそうでない子との間に教育格差が生まれ、大学進学や就業に関しても影響を及ぼし、社会的な階層の固定化が進んでいるという指摘もあります。それでも不満が顕在化しないのは「人生への期待水準が下がり、その落差が狭まったため不満が減って」(土井教授)、「期待」より「諦め」の方が大きくなったということなのでしょうか。

 

 息子たちが小さかった頃、近所のスーパーマーケットの店先に「ガチャ」が何台も置かれていて、買い物に行く度にねだられました。お目当ての中身が入っていないと「おねがい、もう一回」とせがまれ、「しょうがないなあ」と何度も甘い顔をしたことを覚えています。目当ての賞品を手に入れるために何度も投資を繰り返す子どもの「ガチャ」と違って、「親ガチャ」はやり直すことができません。

 イギリスには裕福な家庭に生まれた子どもを指して「銀の匙をくわえて生まれてきた」ということわざがあります。韓国では生まれながらの境遇を「金の匙、木の匙、土の匙」と表現すると聞きました。日本も既に似たような状況になりつつあります。「親ガチャ」なんて誰が言い出したのでしょうか。本当に嫌な言葉です。

 「娑婆を見りゃ 俺の将来 知れたもの」と若者に詠わせないようにしなくては。(イデちゃん)

 

親ガチャ・ガチャガチャ

 

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「あきらめ」という花言葉もあるそうです(マツミナ)

 

 恥ずかしながら「親ガチャ」なる言葉を知ったのはつい先日のことです。家人から「韓国で親ガチャが話題になっているみたいだね」と話をふられたことがきっかけでした。聞き慣れない語感に首を傾げてしまいました。オヤガチャ? 文字すら思い浮かびませんでした。

 どんな親のもとに生まれてきたかで人生が決まる、そんな人生観を示す言葉だそうです。ガチャガチャ――スーパーや家電量販店などの一隅にあるカプセル入りオモチャの販売機。何が出てくるかわかりません。

 そういう意味であれば、「韓国で親ガチャ」が話題になるのはうなずけます。映画「半地下」でも描かれていたあの社会を思い出し、妙に納得しました。いい親のもとに生まれたら、豪邸に暮らして、広大な庭でパーティーを開けます。そうでない親のもとに生まれると、大雨の時に半地下の家は大洪水となり、避難所生活を余儀なくされます。

 

 この言葉は当然、日本の若者の間にも浸透しているようです。

 本日の読売新聞朝刊(10月26日付朝刊)で、土井隆義筑波大学教授がこんな解説をしていました。若者は他者による評価にさらされ不安で仕方がない。そんな中で最も安定した基盤は自分が生まれ持ったもの。「変わらない基盤で安心したいという気持ちが、親ガチャに当たれば自信を持てるし、外れれば仕方がないという諦めとして広がっています」と分析しています。

 経済格差が広がっているのに、生活への満足度が高くなっているその根底には、親ガチャ心理が働いていたようです。親ガチャで人生が決まるのですから、「人生への期待水準が下がり、その落差が狭まったため不満が減っている」(土井教授)というわけです。

 生活への満足度が高ければ、社会の現状への疑問も湧いてはこないでしょう。何があっても、親ガチャの問題、時の運。どこか他人事です。ひょっとしたら、学生からなかなか質問が出てこないのは、この他人事だという感覚があるからでしょうか。(マツミナ)

選挙に行きます

 

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コリドラス」と思っていたら「クラウン・ローチ」でした。(イデちゃん)

 

 夕方暗くなっても選挙カーが走り回っています。今回の衆議院選挙は期間中に日曜日が一日しかないそうで、昨日はあちこちで「よろしくお願いします」と車の窓から乗り出して手を振る候補者に出会いました。

 選挙をテーマにしたテレビ番組で、街頭インタビューで投票に行くかと尋ねられた若者が答えていました。

「自分の1票で政治が変わるとは思えないから、投票に行ってもしょうがない」

「誰に投票したらいいか分からないから行かない」

「野党は批判ばかりで頼りにならない」

 

 「今時の若いものは…」と小言の一つも言いたくなるところでが、彼らの言い分もわかるような気がします。地方選挙に比べて国政選挙は候補者を身近に知る機会があまりありません。選挙ポスターの顔写真でしか見たことがない人に車の中から「よろしくお願いします」と言われたってピンとこないでしょう。

 

 私もこれまで選挙区の候補者に会ったことも話したこともありませんでした。ポストに入っていた選挙ビラに書かれた経歴や実績を読んでも、日頃の生活のなかで実感できるものはほとんどありません。

 市長や市議会議員の選挙と国政選挙の違いはリアリティの差のように思います。だから、「自分の1票で政治が変わるとは思えないから、投票に行ってもしょうがない」と思ったり「誰に投票したらいいか分からない」と思ったりするのもわかるような気がします。

 

 最近はAIを駆使して様々な角度から投票行動を分析し、当選の可能性を細かく予想することができるようになりました。戦う前から勝負がついているような選挙では投票に行く気もなくなるという声も聞かれます。期日前投票の聞き取りや出口調査などで当落の予想をしていますが、開票1%で当選確実の印がつく選挙なんて興醒めの極みです。

 

 ぐずぐずと繰り言を書き連ねてきましたが、それでもやはり選挙には行かなければ話が始まりません。1票がなければ2票に繋がらないのですから。日曜日、選挙に行きます。行きましょう。(イデちゃん)

だまされ続けるのは、ごめんです

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甘いひととき(マツミナ)

 

 「♪どうせ私をだますなら だまし続けてほしかった」という歌謡曲「女心の唄」の一節を読みながら、そうかあ?と首を傾げてしまいました。付き合っている彼がいるのを黙って結婚するゲイの夫はそもそも身勝手です。私なら、そんな人間にだまされ続けるのは、ごめんこうむります。

 

 この一節から同時に思い出したのは、言語学者寿岳章子さんと学生チームが行った「歌の調査」です。日本で大衆が口にする歌謡曲や演歌などで「女たちはいかに描かれているだろうか」と気になったからだといいます(「日本語と女」岩波新書)。時は、国際婦人年とされた1975年でした。

 調査対象となったのは実に844曲。そこで浮かび上がったのが、「主体性を失った女性」たちの姿でした。頻出する言葉を列挙すると、「待つ」「甘える」「愛される」。さらに、そうした女性がいかに行動するかに注目すると、「そばにいる」「真心をつくす」「泣く(しのび泣く、むせび泣く、すすり泣く、泣きじゃくる)」「惚れる」…でした。

 寿岳さんによると、予想通りの結果だったそうです。「もろもろのうたの中で女は愛と恋の世界に生き、ほとんど男にくっついて、しかも一歩退いた位置をとりたがる」と述べています。

 

 「だまし続けてほしかった」も、その延長で出てきたのでしょう。では、だます人が政治家だったら、官僚だったら、同じことを言えるでしょうか。主体性の喪失は、古びた歌の世界だけにしたいもの。衆院選の投票日まであと1週間です。(マツミナ)

 

 

 

人生を案内するのは難しい

 

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シルエットロマン(イデちゃん)

 

 「彼がいることを隠して結婚生活を続けるゲイ(男性同性愛者)の夫」からの相談ですか(2021年10月12日付読売新聞「人生案内」)。

 「彼といる時だけが私らしくいられる時間。彼と別れるのは家庭を捨てるのと同じくらい、私にとってつらいこと」だけど、「さすがにこのままではいけない、どうしたらいいのか方向性を示してほしい」と相談されても困っちゃいますね。道徳や正義の物差しで測れば到底容認できる話ではないでしょうし、さりとて「ゲイであることを隠さずに暮らせる社会」にすべきだと力んでみても、問題がすぐに解決するわけでもないし。

 

「ウソつき、私をずっとだましていたんです、ゲイであることは関係ない」。全く同感です。隠さざるを得ない社会だからゲイであること黙っていたというのは夫の身勝手です。

「お互い苦しむ関係を増やさないようにする社会体制」であってほしいとは思っても「夫とは離婚する」。そりゃそうでしょう。夫に自分以外に愛する人がいて別れられないなら、自分が夫と別れる他ないでしょう。

「結婚生活を維持しながら、彼とも関係を続けられる」ようにしたいなどと考えるのは虫が良すぎます。

「そもそも妻に隠し事をしているのは不誠実だ。妻に打ち明けよう」というのも夫の身勝手です。妻だってそんな告白を聞かされたら困惑するでしょう。「そうですか、あなたも辛かったのね」なんて言えるわけがありません。正直と誠実は同じではありません。では、どうすればいいのでしょう。

 昭和40年頃、バーブ佐竹という歌手が歌って大ヒットした曲「女心の唄」という歌謡曲(死語かな)があります。その歌詞の一節に「どうせ私をだますなら だまし続けてほしかった」(作詞北山由希夫)というくだりがあったのを思い出しました。 

 とはいえ、自称人生経験豊富な後期高齢者のおじさんも頭を抱えてしまいました。人生を案内するのは難しいです。(イデちゃん)

「人生案内」で広げた思考


 

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朝日に輝く蜘蛛の糸(マツミナ)

 

 彼がいることを隠して結婚生活を続けるゲイ(男性同性愛者)の夫と、それを知らない妻と子ども。本日(10月22日)の「質問力を磨く(Class Q)」では、学生たちはそれぞれこの三人になりきり、考えました。その思考のプロセスは、模造紙に情報カードを貼り付ける形でまとめました。

 教材に使ったのは、10月12日付の読売新聞「人生案内」に掲載された読者の相談です。読者は30代の男性会社員で、裕福な家庭の一人っ子として育ち、両親の望み通りに就職、結婚し、子どももいます。結婚は、社会的な対面を保つためで、相手は上司から紹介された女性。妻と知り合う前からの彼とは今も付き合っています。「彼といる時だけが私らしくいられる時間。彼と別れるのは家庭を捨てるのと同じくらい、私にとってつらいこと」と書いていました。さすがにこのままではいけない、どうしたらいいのか方向性を示してほしい、という相談でした。

 学生にとって最も理解しやすかったのは「妻」だったようです。「妻になりきった」学生は、怒りと悲しみの言葉を書き連ねます。「ウソつき、私をずっとだましていたんです、ゲイであることは関係ない」とある学生は目を三角にして話していました。「人の人生を狂わせるようなことをしている。損賠賠償と月10万円の養育費を支払ってほしい」と償わせるための具体策を出している学生もいました。

 「お互い苦しむ関係を増やさないようにする社会体制を整えよ」という主張をする男子学生もいました。ゲイであることを隠さずに暮らせる社会にするとしながらも「夫とは離婚する」。

 子どもの視点も、学生たちは素直に心情を吐露していました。「両親と今後も一緒に暮らせる方法を考える」と思考命題を立てた学生は、性的少数者に対する社会の理解をどのように向上させたらいいのかを考えながらも、妻である母への配慮も見せています。「社会がいくら認めても、母が認めていなければ意味がない」「母にどのように受け止めているのか聞いてみよう」と健気な決意を書く学生もいました。

 学生が最も苦戦したのは、相談者本人の立場でした。「結婚生活を維持しながら、彼とも関係を続けられるよう理解を得よ」と思考命題を立てた学生ですら、最終的には「そもそも妻に隠し事をしているのは不誠実だ。妻に打ち明けよう」と結論づけていました。

 大きな教室に張り出されたたくさんの模造紙を見ながら、1人の学生は「明日は我が身。身につまされた」と話していました。1枚の小さな記事が、学生たちにリアルな生活を考えるきっかけになったようです。(マツミナ)

焦ったくても教えない その2

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ホトトギス 花言葉は「秘めた意志」(イデちゃん)

 

 「今日は生活科の授業の一環として校外に出て、公園にある様々なものの柄をとった。フロッタージュという技法だそうだ。(略)作業している姿を見ると、人によって柄を取る範囲の大きさや柄に対して使う色、塗り方が違かった(ママ)。これを見て塗り方の指導はしていないのだと気づくことができた担任の先生になぜ指導しないのか後から聞いたら、生活科の授業と考えているため子供達のやりたいようにやらせ、子供たち同士で様々な方法があることに気づいて欲しいという意図があるからだそうだ」

 

 「考える先生」プロジェクトに9月から参加し、毎週小学校に通っているMさんのリフレクションシートです。Mさんは「人によって柄を取る範囲の大きさや柄に対して使う色、塗り方が違」うことに疑問を持ち、担任に「なぜ指導しないのか」聞いています。そして、担任から生活科の授業の特質を説明してもらい納得したようです。

 

 同じような場面でのT君の対応はどうでしょうか。中学校で1年生の校外学習の事前指導を目にしたときのシートを見てみましょう。

 「先生が話していても私語が止まらない場面があった。学校外に生徒を出すのだから静かにさせ、話を聞かせるというのは教員として当たり前のことであろう。しかし、それに対して注意した先生は一人しかいなかった。私は後ろで事前指導を見ていたが、何故、他の先生は誰も注意しないのだろうと終始疑問に思っていた

  中学校の校長先生に「すぐ答えを教えないでT君自身に考えさせていただきたい」とお願いしていましたから、なぜ注意しないのか先生たちからの説明はありませんでした。

 T君は次の週のシートに「生徒を理解するためにはどの立場から何をすればよいのか?(略)まだはっきりしていないことが多い。今後も考え続けていきたい」と書いています。

 

   Thinking is very far from knowing 「考えることは、ただ知ることと雲泥の差がある」という諺があります。「考える先生」プロジェクトで、学生が学校に通っているのは「ただ知る」ためだけではありません。「なぜ指導しないのか」と尋ねる学生に理由を教えるのは簡単です。「焦ったくても教えない」のは説明を聞いて「わかったつもり」になるのではなく、なぜ「子供たち同士で様々な方法があることに気づかせたい」のか考えてほしいのです。

 Mさんの学びは始まったばかりです。「知る」ことから「考える」ことへ向かって学び続けてほしいと願っています。(イデちゃん)

同調圧力のなかで未来は拓けるか

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自動販売機の中の不思議な世界(マツミナ)

 

 先日、ノーベル生理学・医学賞を受賞した本庶佑さんの講演を聞きました。「生命科学が未来を拓く」という勇ましいタイトルの講演は危機感にあふれていました。危機感の中心にあるのは、人材育成です。「日本の最大の課題」とまで言い切っていました。

 グローバル化、多極化が進む世界で、望まれるのは国際性、柔軟性を持ち、失敗を恐れない挑戦的な人だと本庶さんは強調します。ところが「日本の教育がそうした人材の育成を阻んでいる」。ご自身の体験もあるのでしょうか。小学校から高校までの教育では「調和第一主義」がはびこっているとみているようです。幼稚園に入る時はたくさんの「なぜ」を連発している子どもが、小学校を出る頃には「シーンとしている子ども」になっていると言うのです。同調圧力が強く、出る杭を打つ学校で、子どもたちは人目を気にし、目立つこと、失敗することを恐れる。挑戦的な人が育つ可能性は低くなります。さらに学校の先生たちは「得意を見出す」よりも、「欠点の修正」に目がいきがちです。先生たちがよかれと思ってしていることでも、子どもが気概を失うのは当然の帰結なのかもしれません。

 生命科学はわからないことの方が圧倒的に多く、いろいろなことを粘り強く試していくことが必要なのだそうです。そうしたアイデア型の研究で、同調圧力で萎縮した子どもが勝負をしていくのは難しいかもしれません。

 

 そういえば、ノーベル物理学賞を受賞した眞鍋淑郎さんは「日本に帰らない理由」として「日本が調和を重んじていること」をあげていました。同調圧力を痛感していたのでしょうか。真鍋さんは日本に帰らないという選択をしたけれど、本庶さんはなぜ日本に拠点を置いているのか。しかも、人材育成のための基金も日本でつくっています。講演会を主催する作新学院理事長の畑恵さんが、その点を尋ねていました。

 本庶さんの答えはこうです。

 「僕は周りからどんなに煙たがられても、気にしない」

 周囲から「ごちゃごちゃ言われていた」ようですが、自分の好きなことに熱中し、同調圧力をはねかえしていたそうです。

 

 調和の重荷に耐えかねて出ていくか、「気にしない」と腹を括って我が道をまっしぐらに行くか。それとも同調圧力の中で「シーンとして」生きていくか。生命科学の進歩で長生きのチャンス自体は増えたけれど、日本の子どもたちの未来は拓けたのでしょうか。(マツミナ)

焦ったくても教えない

 

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秋深まる コキア色づく(イデちゃん)


 「考える先生を育てるプロジェクト」のこれからの課題を整理しながら、どうしたら「自分で課題を発見し、自分で考える学生」を育てることができるか考えています。

知人からの「今の学生に教えない、自分で考えろというのはキツくないかな」という問い掛けをミナさんは「ひょっとしたら『キツい』のは学生ではなく、周りの『私たち』かも。焦ったくて見ていられない、待っていられないからキツいのではないでしょうか」(2021.10.11「『考える』は目的か、手段か」)と受け止めています。確かにキツくシンドイ取り組みではありますが、なんとか活路を見出したいと思います。

 手掛かりは学校参観をしているT君とMさんのリフレクションシートです。子供たちの学校での生活の様子を見て何を感じ、どんなことを考え、校長先生や教員達とどのようなやり取りをしているのか知ることができます。その中にこれからの取り組みのヒントになるものがあるはずです。

 

 まず「改めて『考える』を考える」(2021.10.12)で引用したT君のリフレクションシートを読み直しました。

 「S校長先生との対話の中で『考える先生って何?』と問われた時すぐにこたえられなかった。『じゃあ、考えない先生って何?』と問われた時、何も言えなかった。自分の中にぼんやりとしている『考える先生』が何かわからないまま『考える先生』を目指していることに気付かされた。(略)ふわふわした雲のようなものを今までずっと掴もうとしていたのだ。『考える』ということ自体を自ら考えなくてはならない」

 

 初めてみる生徒たちの様子や自分が中学生の頃との違いに驚いていたT君が「ふわふわした雲のようなもの」を掴むために考えなくてはならないと思うようになったのは大きな変化です。おそらくT君はそのために次に何をしたらいいのか悩んでいるはずです。

 さて、どうしましょうか。「『考える』ということ自体を自ら考えなくてはならない」とシートに書いたT君に、参考になる本を紹介して読むよう勧めることはできますが、そこから先はT君が考えなくてはいけません。あれこれと答えらしきことを教えたくなるのは、教えることを生業とする「先生」にありがちな習性で、ここは我慢のしどころです。T君がわかったような気になっただけでは、自分で考えたことにはなりません。

 焦ったくてキツくても待たなくてはなりません。課題は私たちの側にもあります。

 

 次回は「待っていられなくて教えてしまう」ことの問題について考えることにします。(イデちゃん)

 

失敗こそが学び

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弧の部分の二重曲線、見えますか(マツミナ)

 

   いま、「糸かけ曼荼羅」という手芸にはまっています。木板に釘を打ちつけ、その釘に糸をかけ、曼荼羅模様を創りあげていくものです。板の材質や色、木目、釘の色や配置、糸の素材や色、かけ方によって変わるため、どんな作品になるか、完成するまでわかりません。無心に糸をかけていく過程は、自分と向き合っている静かな時間でもあります。そんな面白さにひきつけられて、月に1回通う教室を楽しみにしています。

 先日、自分なりの糸のかけ方と色の組み合わせを思いつき、挑戦しました。結果は失敗でした。なんだか違和感のある二重曲線が、糸の中に出現していたのです。この写真でおわかりになりますか。作品を見た先生から指摘を受けました。「反時計回りに糸をかけましたね」。確かに先生からは「この部分は時計回りで」と教えられていました。反時計回りでも同じではないか、と勝手に解釈して進めていたのです。

 「人の話をよく聞きなさい」とは、私が授業中に言うセリフだったはずです。ああ、恥ずかしい。慌てて糸を切り、作品を作り直そうとして、またはたと思い出しました。「失敗こそが学びの始まり」。これも学生にしょっちゅう伝えている言葉でした。

 上智帝京大学で開いている授業「質問力を磨く(Class Q)」では、学生に社説の視写を課しています。社説を書き写すだけです。ただ、その時に大事なルールがあります。間違えても消しゴムを使わないで二本線を引いて、その横に正しく書き直すことです。間違えたという事実よりも、なぜ間違えたか、そこを考えてもらうためです。

 学生はその中で、自分の文章の癖や学習の仕方、生活リズムを見直していきます。例えば、ある学生は「自分だったらこう書く」というふだんの文章の癖が出てしょっちゅう間違えていることに気づきました。自分の文章と社説の文章を見比べて、どちらが読みやすいかも考えたようです。苦手な字に気づいた学生もいました。

 書き始めてどのぐらいの時間から誤字・脱字などのミスが頻発してくるかを見る中で、自分が集中できる時間と時間帯を考えた学生もいました。その学生の場合は、40分を超えると誤字・脱字が増えること、夜に視写をするとミスが多いことがわかり、朝起きて視写をする、45分以内にいったん終えるという生活リズムと学習の仕方を学びました。「ここで間違えたのは、食べていたお菓子が妙においしかったから」という学生もいました。食べながら目の前の学習に集中するのは、至難の業です。

 「失敗こそが学び」。この作品を大切にします。(マツミナ)

コンピュータは子どもの社会を変えると予想したものの

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キバナコスモスもそろそろ終わりかな(イデちゃん)

 

 「小中学校に学習用のパソコンやタブレット端末を1人1台配布する政府のGIGAスクール構想を巡り、東京都内の少なくとも6区市で、端末を使って悪口を書き込むなどのいじめがあったことが、本紙が東京23区と多摩地域5市(八王子、立川、府中、調布、小平)の教育委員会に実施したアンケートで分かった。他人へのなりすましも4区市であった」

 東京新聞がトップ記事で扱っていました(2021.10.17東京新聞)。私は30数年前、授業にコンピュータを活用する研究・実践に取り組んでいました。当時は学校で児童・生徒が一人一台のパソコンを使って学習することは、文科省教育委員会から研究開発を委託されたり、大学や企業等と連携して研究を行なったりしない限り、ほとんど不可能でした。

 それがGIGAスクール構想の推進で、全国の公立小学校の96.1%が全学年または一部学年で端末の利活用を開始しています。当時を知る者としては、「隔世の感あり」ですが、もたらされた結果に大きな戸惑いを感じています。

 

 次の小文は日本の学校教育にコンピュータが導入され始めた頃に書いたものです。

 「子どもたちは1日の大半を学校で過ごす。その中で、学習や遊びを通して様々な人間関係を作っていく。(略)それは子どもの内面的な発達が大きく関係しており、大人たちの目に見えるもの以上に様々な要素が絡まり合って集団が出来上がっている」

 その小文の中では続けて児童が書いた作文を紹介しました。

 「ロールプレイングゲームをやる時どんな人とやると面白いかというと、想像力のある人とするといい。(略)『涙の倉庫番』のようなパズルゲームは頭を使わないとできない。(略)しんちょうな人でないとダメだ。(略)でもそういう性格の人は好きなタイプではない」

 それを受けて、私の考えを展開しました。

 「子どもは覚めた目で級友を見ている。そして、自分の考え方や行動原理に合った人間関係を作り上げていく。子どもたちには彼ら特有の組織原理や行動原理、あるいは意思決定の過程があり、それらがどのような構造になっているかを見ていくと大変興味深い事柄に出会うことがある。(略)人間の心理や行動の特性を十分に考慮して作られた問題解決型のゲームソフトは、問題を把握する能力や問題解決のための論理的な思考が要求される。子どもたちがこうしたゲームを通して、これらの能力を向上させていくとすれば、これからの子どもの社会は今までとかなり異なった構造になっていくことが予想される。

 コンピュータは子どもにとってすでに身近な存在となっている。子どもの社会がコンピュータによって今後どのように変わっていくのかということについて、大きな関心を持たざるを得ない。(「子ども社会のエコロジー」1988.3 東京都立教育研究所「学校におけるパーソナルコンピュータ利用の研究」)―

 30数年前に「これからの子どもの社会は今までとかなり異なった構造になっていく」と予想したものの、この現実との乖離に戸惑っています。(イデちゃん)