idematsu-qのブログ

屋根のない学校をつくろう

「引きこもり」からの就職

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学生と企業との懇談会(11月12日、帝京大学で)

 帝京と上智大学で展開している授業「質問力を磨く(ClassQ)」は、中小企業家同友会に加盟している企業の協力をいただいています。授業に参加するだけでなく、学生のインターンシップやインタビューも引き受けてくれます。数日前も、8社の経営者や人事責任者らが学生との懇談会に参加しました。やりとりの中で、設計会社の経営者がこんな話をしてくれました。

 

 「今年7月、採用面接に来た人の履歴書を見たら、大学を中退して2年間のブランクがあったんですよ。何してたの?と尋ねたら、家に引きこもっていたって言うんだよね」

――家に引きこもって、何していたんでしょうね。

 「ゲームなんかをして暮らしていたみたいですよ

――で、社長はどう対応したのですか。

 「採用しましたよ。うちは学歴不問だし」

――えっ、採用したんですか? なぜですか。

 「真新しいスーツを着ていたんだよね。きっとこの日のために親御さんが買ったんだろうなって思ったらさ、そのまま帰せないじゃないの」

 なんとかなる、なんとかしよう、と瞬時に腹が決まったそうです。

――で、仕事ぶりはどうですか。

 「頑張ってるよ。うちはちゃんと仕事を教えるから、できるようになるんだよ」

 先日も沖縄に出張して、現地の人とやりとりをしながらプロジェクトを進めているようです。それでも自己評価が低く、そうした自分の頑張りすら認められないことが気になっているとか。だからこそ、外との接触の機会を減らさないことに重点を置いているそうです。

 「コロナでリモートワークしている社員もいるんですよ。『僕も出てこなくていいですか』というので、あなたはだめ、出ておいでと言っているんだ」

 さすがです。

 

 2人に1人が大学に進む時代、その大学ですら続けられない若者に、世間は決してやさしくはありません。まして日本は新卒一括採用が主流です。いったんコースを外れてしまったら、正規雇用のステージにはなかなか上がれないことがデータで示されています(「大学等中退者の就労と意識に関する調査」2015年、労働政策研究・研修機構)。

 それでも人生をやり直せる場が、まだあります。(マツミナ)

 

  

もう一つの「一生もの」

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夜明け前(イデちゃん)

 

 瀬戸内寂聴さんが亡くなりました。99歳でした。新聞は「恋に生き、女性の生き方に向き合い、慈愛を説いた九十九年だった」(2021年11月12日付東京新聞)と報じていました。作品やお話などから知る以上に、波瀾万丈の人生だったことでしょう。天寿を全うし、本物の仏様になられた寂聴さんに合掌。

 

 11月も半ばになり、今年も残り少なくなりました。この時期になるとポツポツと届く葉書があります。「喪中につき新年のご挨拶を失礼させていただきます」というお知らせです。

 父が亡くなりました、


母を送りましたという挨拶の後に加えられた生前の様子を伝える文面から、送り主の悲しさや寂しさが伝わってきます。それでも「天寿を全うし…」等と書かれていると穏やかに読むことができますが、亡くなった方がまだ若い方だったり自分の歳と近かったりすると、思うことも多く心が波立ちます。

 

 先日、教え子から母親が亡くなった知らせを受け取りました。葉書を読みながら、その子の担任をしていた40数年前のことを思い出しました。

 「母が留守になる時はいつも置き手紙があります。今日はおばあちゃんが入院したので病院に行ってきますと書いてありました。母は9時頃、疲れたような顔で帰ってきました。ぼくとお兄ちゃんは勉強して待っていました」

 「K君へ。お帰りなさい。おばあちゃんが入院したので病院へ行ってきます。宿題をやって、るすばんをたのみます。コイの解剖はどうでしたか」

 K君の日記と、お母さんが置いて行った手紙です。当時、毎週発行していた学級だよりに載せたものが残っていました。その日の朝、理科の学習でコイの解剖をすることをK君から聞いていたのでしょう。「コイの解剖どうでしたか」という短い文からお母さんの優しい眼差しが目に浮かびます。

 

 彼も50歳を過ぎたはずです。手元に置き手紙は残っていないかもしれません。お悔やみの手紙に添えて、お母さんの思い出を届けようと思っています。

 

 こんな付き合いも「一生もの」と言えるかも知れませんね。(イデちゃん)

一生もの

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秋の陽のなかで(マツミナ)

 

 母の形見の足踏みミシンの調子が悪くなりました。ガタガタと異音がします。そこで、自宅から2駅向こうで開業しているミシン屋さんに修理をお願いしました。あちこちにガタが来ているから、修理費用がかさんでも、すべて直してもらおうと覚悟していました。ミシン屋さんは某ミシンメーカーを定年まで勤めた専門家という触れ込みだったので、楽しみにしていました。

 ところがミシン屋さんは一目見るなり、「これは修理ができません」とキッパリ。「この部品は、もうメーカーでも置いていないです」と言うのです。

 

 ミシンはBROTHER製です。昭和30年ごろに買ったと母は話していました。厚手の生地もスイスイ縫えることはもとより、販売員の一言が決め手になったそうです。 

 

 「これは一生もののミシンですよ」

 

 清水の舞台から飛び降りる覚悟でないと買えない価格だったそうです。丁寧に使っていました。私たち3人の娘の服は、ほとんどこのミシンで縫われていました。母が他界するまで真面目に働いていたのですから、確かに母にとっての一生ものです。その後も不具合はありながらも働くミシンに気を良くして、うっかり「私の一生もの」と思い込んでいたようです。

 いまどきの家電製品の場合、メーカーが補修部品を保有している期間は冷蔵庫やエアーコンディショナーが最長で、9年とされています(一般社団法人日本電機工業会Hpより)。「一生もの」なんて言葉は、もはや死語かもしれません。

 

 結局、ミシン屋さんはあちこちに油をさして帰って行きました。修理代も出張代も受け取りませんでした。

 ガタは来ているけれど、使えないわけでもない。だましだまし、小物でも縫うことにします。「一生もの」という言葉をかたわらに置いて。(マツミナ)

ビッグボス新庄に期待しています

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多摩湖から富士山を望む(イデちゃん)

 

 「監督と呼ばないで『ビッグボス』と呼んで!」

 プロ野球日本ハムファイターズ新庄剛志新監督の言動が話題になっています。記者会見での発言に驚いた人も多かったことでしょう。派手な服装で登場し、のっけから「優勝なんて狙いません」などと言い放つ新監督に、会見に同席した経営陣も心中穏やかではなかったことと拝察いたします。

 

 しかし、発言の端々からしっかり計算された意図や抱負を感じることができました。

 「僕でいいのかなという思いの半面、僕しかいないなって」ちゃんと自覚しているし、「何気ない日常の積み重ねの上に優勝が見えてくる。その時は…」と優勝を狙う意欲も見せています。何よりも「日本ハムも変えていくし、プロ野球も変えていくという気持ちで帰ってきた」という台詞こそ、新庄新監督の真骨頂を表しています。

 

 若手の選手たちが練習している秋季キャンプに、ユニフォームではなく赤や黒のジャージを着て現れたビッグボス新庄監督の振る舞いに、眉をひそめた人もいることでしょう。野球界の大先輩たちの中には、苦々しく思っている人もいるかも知れません。マスコミも「傾奇者」の登場に喝采を上げていますが、結果次第では来年の今頃「ビッグボス」叩きが新聞やテレビを賑わしているかも知れません。

 

 ビッグボスの対極にいるのが中日ドラゴンズの立浪新監督です。こちらは就任会見で「髪型も含めてキチっとした姿でスタートする」と語っていました。選手たちは秋季練習のグラウンドには短髪に黒髪、ヒゲも剃り、身だしなみを整えて集合したそうです。穿った見方をすれば、二人の新監督は日本社会に残っている支配的な価値観と、これからの時代に求められる新しい価値観を具現しているのかもしれません。

 

 「勝てば官軍」と言います。傾奇者が勝ったら日本の支配的な価値観を転換させるキッカケになるかもしれません。ビッグボス新庄、応援しています。(イデちゃん)

学生は選挙で学ぶ

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選挙結果は苦くても、ケーキは甘い(マツミナ)

 

 終わってみると、なんだかなあという結果を迎えた選挙でした。全体的な構図は変わらず、バラマキと批判されていた18歳以下への10万円給付も合意されてしまったようです。何も変わらなかった選挙ではありましたが、学生の学びにはなりました。

 

 本日の授業「質問力を磨く(Class Q)」で、学生たちが選挙で重視した観点を発表しました。ある学生は「持続可能性」をテーマにしていました。具体的には「財源の確保の仕方」と「脱炭素社会への意欲」をチェック項目に挙げていました。耳に心地よい公約を掲げる一方で、消費税を下げる・撤廃すると訴えていた政党や候補者は「信用できない」からNG。「脱炭素」は、「何年以内に何%削減」を掲げているかどうか、掲げている場合はどのぐらいか、という数値を比較して決めたそうです。

 別の学生は、自分の選挙区内の候補者の「不祥事」を調べ上げていました。その結果、学生は不祥事を起こしている候補者がなぜか当選してきた事実に気づいたそうです。不祥事をカバーするほどの業績があるわけでもないから、ますます理解ができなかったそうです。「有権者はなぜ不祥事を起こすような候補者に投票するのでしょうか」。真顔で聞いてくる学生と一緒になって首を傾げました。

 不祥事については、別の学生も調べていました。その学生も同じ問題意識を持ったようで、「候補者の不祥事を一覧できるプラットフォームを作ったらどうか」というアイデアも出していました。47都道府県全てをカバーするプラットフォームを学生たちが構築したら、ビジネスになるかも。注目を集めて、投票率アップにつながるかもしれません。選挙は、予想以上に学生が学ぶ機会になりました。(マツミナ)

 

 

赤石山脈を貫いて弾丸列車が通る

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赤石山脈と並行する伊那山脈を望む(イデちゃん)

 

 リニア中央新幹線の長野県豊丘村のトンネル工区で11月8日、土砂が崩れる事故が起きました。1027日には岐阜県中津川市の工事現場でも崩落事故があったばかりです。どちらの事故も爆破作業中に発生したもので、安全が確認できるまで工事を中断し、原因を調査するとのことです。

 

リニア中央新幹線南アルプス赤石山脈)を貫通して岐阜県に抜けるルートを取ることになっていますが、糸魚川静岡構造線断層帯をトンネルで貫通しなくてはなりません。計画段階から断層帯にトンネルを掘ることの危険性が指摘され、工事の難しさが予想されていました。2回の崩落事故はそうした指摘の予兆なのでしょうか。連続するトンネル工事の事故は気になります。

 

 赤石山脈を貫いて弾丸列車が通る」という話を聞いたのは小学生の頃でした。母校の小学校は天竜川の河岸段丘の先端にあり、校庭からは南北に連なる赤石山脈の峰々を眺望することができました。「あの山の下にトンネルを掘って、東京から一直線につながる線路ができる」という父の話はあまりにも壮大過ぎて、容易に理解できませんでした。北から南へ仙丈、塩見、荒川、赤石、聖と続く山塊は高く大きく、その山々の下にトンネルを掘るなどと言うことは想像を絶していたからです。

 

 それから70年近い年月が過ぎ、とても無理と思っていたことが次々と現実化されて、本当に南アルプスを貫き「リニア新幹線」という「弾丸列車」がやってくることになりました。でも、リニア新幹線はほとんどがトンネルで、長野県での停車駅も地下に造られるということですから、校庭の端に立って想像した「南アルプスを突き抜け、眼下を爆走する弾丸列車」の勇姿を見ることはできません。

 

「東京から40分」――リニア新幹線のキャッチコピーです。70年前はローカル線と夜行列車を乗り継いで8時間以上かかっていた東京まで40分で行けるようになります。そうなったらどんな生活が始まるのでしょうか。想像するには歳を取り過ぎたようです。(イデちゃん)

電話に出られない新入社員

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実りの秋(マツミナ)


 先日、ある企業に電話をしました。その企業の部長に用事があったためです。

 呼び出し音が鳴り続け、ひょっとしたら今日は臨時休業か?と思い始めた頃、やっと誰か出てくれました。

 

 「はい…」

 

 蚊の鳴くような声で、社名も言いません。間違えたかと思いつつも社名を確認すると、「はい、そうです」とまたささやくような声で。こちらの名前を伝え、◯◯部長はいらっしゃいますかと尋ねると、支社に出かけていて不在だということを、これまた小さな声でボソボソと話します。支社の電話番号を尋ねて、やりとりは終わりました。その電話番号が誤っていたため、企業のホームページで調べ直すというおまけもついていました。

 

 「いやあ、申し訳ありません。不快な思いをさせて」

 やっと話せた○○部長によると、電話に出たのは研修中の新入社員でした。同社では数年前から電話を取れない新入社員が問題になっていたため、研修も兼ねて新入社員が交代で電話に出ることになっていたそうです。電話番号を誤ったのは、知らない人と話す緊張感もあったのかもしれません。

 オフィスにかかってきた電話を取れないという話は、よく耳にします。自分のスマホであれば、かけてきた相手が知っている人かどうか、ある程度わかります。何より、自分に用があってかけてくるわけだから、電話を取る必要性があります。これに対して、オフィスで鳴る電話の向こうにいる相手は、誰かわかりません。しかも、自分あてではないかもしれないから、電話を取る必要性もさほどありません。こうなれば、電話をとるまでの時間が長くかかっても不思議ではないし、蚊の鳴くような声で恐る恐る出てくる理由もわからないではありません。

 

 経団連が会員企業を対象に新卒採用にあたって最も重視したことを尋ねたところ、「コミュニケーション能力」が82.4%で1位でした。1997年の調査開始以来、不動のトップです。続く主体性(64.3%)、チャレンジ精神(48.9%)を大きく引き離していました(2018年度調査、複数回答)。

 コミュニケーション能力を重視し続ける企業側と、電話に出られない新入社員が問題化している現状は、何を意味しているのでしょうか。(マツミナ)

粋な千代田区教委にお願い!

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絹雲湧く戸隠山(イデちゃん)

 

 先日、新聞にこんな記事が載っていました。

終戦直後の学制移行期のはざまで中学校を卒業できなかった人を対象とした東京都千代田区通信制中学校が、入学対象をより若い世代に広げ来年度の募集を始めている。生徒激減で存続の危機にひんする中『貴重な学ぶ場を残してほしい』という在校生や支援団体などからの要望を踏まえ、区教委は東日本唯一の通信制中学校の存続を図ることを決めた」(2021年11月6日付東京新聞

 

 通信制中学校を知っている人は少ないかもしれません。東京と大阪に1校ずつあるだけですから。通信制高校は勤労青少年が高校教育を受けることができるようにという目的で設置されましたが、通信制中学校は「旧制度の義務教育修了者(尋常小学校卒業又は国民学校初等科修了者)に新制度の中学校の学習を通信によって学んでもらうための教育機関」(都教委HP「公立中学校の通信教育課程」)として設置されたものです。

 

 東京都に1校ある千代田区立神田一橋中学校通信教育課程の平成4年度生徒募集案内によれば、出願資格は次のAまたはBのいずれかに該当するものとなっています。

A 次のすべての条件に該当する者 

① 昭和21年3月31日以前の尋常小学校卒業者及び 国民学校初等科修了者

② 高等学校に入学する資格のない者 

B 次のすべての条件に該当する者 

① 諸事情により中学校で十分に学べなかった者

② 令和4年4月1日現在、満65歳以上の者

③ 都内に在住または在勤している者 

④ 出願者Aに準ずる者

 

 Aの部分がこれまでの条件で、平成4年度生徒募集からBが新たに加えられました。入学資格を尋常小学校卒業や国民学校初等科の修了者に限っていたため対象者の高齢化が進み、沿革史を見ると、最近は入学者がいない年もあり存続が危ぶまれていました。新たに「諸事情により中学校で十分に学べなかった65歳以上の人」も出願できるようにしたことにより、生徒減で「お役御免」になりそうだった「貴重な学びの場」を失わずに済みそうです。条件Aをそのまま生かして、Bを加えて間口を広げた千代田区教委の粋な計いを喜んだ人も多いことでしょう。

 戦後の混乱期に学びの機会を失った人たちは少なくなりましたが、今日、さまざまな事情で学びを継続することが困難になり、学校から離れていく児童・生徒は増え続けています。そこで千代田区教委に無理を承知でお願いしたいことがあります。次は「諸事情により中学校で十分に学べなかった者」の年齢要件である「満65歳以上の者」という1行を削除していただけませんか。救済される人がたくさんいるはずです。ぜひお願いします。(イデちゃん)

なりきって考える

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秋空に朝顔が映える(マツミナ)

 

 「質問力を磨く(Class Q)」の重要な要素に、「自分以外の誰かになりきる」があります。小難しくいうと「視点転換」。同じ社会事象でも、自分の目と自分以外の誰かの目では見え方が違うことを考えてもらいたいのです。この「なりきる」に春学期からこだわっている学生がいます。

 授業中だけでなく後にも、しょっちゅう質問に来ています。

 「なぜなりきる必要があるのか」

 「なりきると◯◯の立場で考えるは同じか、違うか」

 「なりきるためには『誰か』を調べなければならない。その時は『誰か』の視点で調べるのか、なりきる前の自分か」

 「『自分以外の誰か』にも先入観や偏見があるはずだ。それらも考慮した方がいいのか」…。

 真剣そのものの表情から安直な答えを求めていないことがわかるので、先日はハンナ・アレントの「責任と判断」(ちくま学芸文庫)の一読を勧めました。

 同書には、1957年のリトルロック事件について書いた一文が収められています。公民権運動を背景に、アメリカの南部でも黒人と白人とがともに学べる学校を設け始めました。事件はその一つの高校で起きました。統合された高校から帰宅途中の黒人少女が、白人暴徒に脅しやいじめを受けたのです。この事件を報じる新聞の写真は、俯きがちに歩く少女の姿をとらえていました。その両脇を、スーツ姿の男性がガードしています。この写真からアレントは考察を始めます。

 「自分が黒人の娘の母親だったらどうするか」

 この問いを考えた後、もう一つの問いが浮かびます。

 「自分が南部の白人の母親だったらどうするか」

 

 わずか40ページにアレントの思考が凝縮されています。この「なりきる」から学生は何を受けとめるでしょうか。「なりきる」は「考える先生」プロジェクトの「役割」にも通じます。自分以外の誰かになりきった時、学校はどんな姿を見せてくれるのでしょうか。(マツミナ)

 

単純な問いほど答えは難しい

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山の温泉は秋のど真ん中(イデちゃん)

 

 「自分の役割を自分でつくり、学校の日常に参加することによって、傍観者から当事者になるってどういうこと?」

 いつもの批判的読者の友人からメールが来ました。

 「学校の日常に参加するっていうけど、授業をしたり生徒指導をしたりするってことなの?」「当事者になるって言われても、学校が困るんじゃないの?」

 

 たくさんの「?」が頭の中を駆け巡ったようです。学校のことを少しは知っている人なら当然の疑問です。「考える先生」プロジェクトは「曖昧かつ緩やかな枠組み」の中で進めるとはいうものの、学校は大袈裟にいえばその対極にあるようなところです。法律や条例・規則等に従う義務があるのはもちろん、校長や副校長、学年・学級、学級担任や教科担任、教育課程や指導計画等、まだまだいろいろな仕組みや約束事があります。だから「曖昧かつ緩やかな枠組み」などと呑気なことを言っていられるような代物ではないことも確かです。「学校ってそんなことできるところなの」と思うのも不思議なことではありません。

 

 そんな見方からすれば「中学校が担っているミッション、組織全体、生徒、先生、保護者、地域との関係を考えたうえで、役割を見つけ出し、さらに自ら実践するのです」(「自分で役割をつくる」2021/11/02マツミナ)という記述に驚かされたのかも知れません。いまさら「そもそも学校にはどんな『役割』があるのか」「それが生徒や先生の日常をどう支えているのか」「必要なのに全くない役割は何か」などと、わかりきったことを持ち出してどうするのと思ったようです。

 でも、さすが批判子、「よく考えてみれば、学校経営改革とか指導法の改善とか難しい用語を使って説明したつもりになっていただけで、改めて問われると結構難しい問いかけだなあ」と思ったそうです。

 

 その通りです。単純な問いほど答えは難しいのです。学生の思いがけない質問が、わかっていたつもりのことや日常の中に埋没して見えなくなってしまったことを掘り返し、考え直すきっかけになるかも知れません。

また一つ楽しみが増えました。(イデちゃん)

単純な問いほど答えは難しい

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山の温泉は秋のど真ん中(イデちゃん)

 

 「自分の役割を自分でつくり、学校の日常に参加することによって、傍観者から当事者になるってどういうこと?」

 いつもの批判的読者の友人からメールが来ました。

 「学校の日常に参加するっていうけど、授業をしたり生徒指導をしたりするってことなの?」「当事者になるって言われても、学校が困るんじゃないの?」

 

 たくさんの「?」が頭の中を駆け巡ったようです。学校のことを少しは知っている人なら当然の疑問です。「考える先生」プロジェクトは「曖昧かつ緩やかな枠組み」の中で進めるとはいうものの、学校は大袈裟にいえばその対極にあるようなところです。法律や条例・規則等に従う義務があるのはもちろん、校長や副校長、学年・学級、学級担任や教科担任、教育課程や指導計画等、まだまだいろいろな仕組みや約束事があります。だから「曖昧かつ緩やかな枠組み」などと呑気なことを言っていられるような代物ではないことも確かです。「学校ってそんなことできるところなの」と思うのも不思議なことではありません。

 

 そんな見方からすれば「中学校が担っているミッション、組織全体、生徒、先生、保護者、地域との関係を考えたうえで、役割を見つけ出し、さらに自ら実践するのです」(「自分で役割をつくる」2021/11/02マツミナ)という記述に驚かされたのかも知れません。いまさら「そもそも学校にはどんな『役割』があるのか」「それが生徒や先生の日常をどう支えているのか」「必要なのに全くない役割は何か」などと、わかりきったことを持ち出してどうするのと思ったようです。

 でも、さすが批判子、「よく考えてみれば、学校経営改革とか指導法の改善とか難しい用語を使って説明したつもりになっていただけで、改めて問われると結構難しい問いかけだなあ」と思ったそうです。

 

 その通りです。単純な問いほど答えは難しいのです。学生の思いがけない質問が、わかっていたつもりのことや日常の中に埋没して見えなくなってしまったことを掘り返し、考え直すきっかけになるかも知れません。

また一つ楽しみが増えました。(イデちゃん)

当事者として見る風景

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すっかり葉を落とした木の横で、桜が花を咲かせていた(マツミナ)

 

 傍観者から当事者になると、見えてくる風景が変わります。あきらめ一色の境地に色彩が戻り、やってやろうじゃん、という意欲が湧いてくるようです。

 今回の衆議院議員選挙と国民審査で、その思いを新たにしました。

 

 まずは選挙です。私は東京8区の有権者です。「大物政治家」が落選した話題の選挙区の一つです。選挙結果を見て、杉並区民が自民党石原伸晃・元幹事長を選ばなかったことに驚きました。リベラル寄りの住民が少なくない地域とされているので、石原氏が10回も当選していたことの方が奇妙だったはずです。それも長く続くうちに「こんなものだろう」と違和感がなくなっていたのでしょうか。

 

 もう一つは、国民審査。「罷免したい」を意味する「×」の高かった4人は、いずれも夫婦別姓の合憲性が争われた裁判で「合憲」とする多数意見に加わっていた判事でした。

 

①深山卓也(67)=裁判官出身 4490554票(7.85%)

②林道晴(64)=裁判官出身  4415123票(7.72%) 

③岡村和美(63)=行政官出身 4169205票(7.29%)

④長嶺安政(67)=行政官出身 4157731票(7.27%)

 「×」がついた票数。カッコ内は有効票に占める率

 

 国民審査は、初回の審査を経て、定年の70歳まで10年ごとに受けることになっています。ということは、この4人は今回の審査が最初で最後ということになります。それでも、400万人以上の有権者が「ノー」を突き付けたことがはっきりしました。

 全体を見れば、自民党単独過半数を占め、最高裁判事は全員罷免されることはありませんでた。一人一人の声は小さくても、何かを動かす力にはなるのですね。

 

 友人からこんなメッセージが来ました。

 「夫婦別姓に対してはっきりと『違憲』とした判事以外は、すべて『×』をつけた」

 今の制度が当事者にどれほどの負担を強いているのかわからない人に、判事の資格はない。当事者意識が欠けた傍観者のままでいたら、風景どころか何も見えないのかもしれません。

 明日は選挙後としては初の授業です。学生たちが何を観点に投票したか、その結果を見て何を得たのか得なかったのか、聞いてみましょう。(マツミナ)

 

 

 

傍観者から当事者へ

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春を待つ(イデちゃん)

 

 「見る・問う→自分で役割をつくる→教育実習――この大きな流れの中で、学生は『自分自身を教員として育て続けるカリキュラム』をつくれるような力を獲得する、そして絶えずカリキュラムを修正しながら実践していくことができる。それが『考える先生』育成プログラムの狙いです」(「自分で役割を作る」2021.11.2マツミナ)

 

 見えてきましたね、なんて言ったら「言い出しっぺが何を無責任なことを」と言われるかも知れません。言い訳をするつもりはありませんが、もともとこのプロジェクトは「曖昧かつ緩やかな枠組み」(「自分を育てるカリキュラムを作る」2021.11.1イデ)の中で始められたもので、最初から「踏み固められた道」(「自分で役割を作る」マツミナ)」があった訳ではありません。

 基本的な考え方はありました。学生が自分で課題を設定し、解決に向けて自ら学び、自身の成長や変化を自分で確認する」「支える側の役割は教えることではなく、学生が学校で大人や子供たちとの関わりを通してどのように変容していくか、そのメタモルフォーゼの過程を見とること」学生自身が自分の変容を確かめ認めていく取り組みを支援する」といった心づもりは持っていました。

 とはいえ、具体的かつ詳細な計画表があったわけではありませんから「学生本人の自由意志に任せ、参観し、気づき、変容していくことは理想であるが、週1回程度の見学を、意図も計画もなしに続けても年度末に変容を期待することは難しい」「養成プログラムのプロトタイプの構築を目指すなら、学生の時間的な効率と効果を考慮し、ある程度の枠組みを設定する必要がある」(S校長)という指摘はこのプロジェクトのこれからを考える上で大切な視点になりました。 

 

 「見る」から「問う」へ、そして「自分で役割をつくる」取り組みへのステップアップは、自分の立ち位置を「参観者」「傍観者」から「参加者」「当事者」へとステージ転換させ、新たな関係の中で「自分自身を教員として育て続けるカリキュラム」を「修正しながら実践していくこと」ができるようにすることが狙いです。

 

 

こうしたプログラムを展開することによって「送り出す大学と受け入れ先の学校が、手取り足取りで導いてくれる」教育実習から、「自分自身を教員として育て続けるカリキュラム」を実践・検証する教育実習へと変えて行きたいという「魂胆」も潜めてあります。  

 「曖昧かつ緩やかな枠組み」の強みは、「学生と一緒に成長していくことができることです」なんて言ったら「自画自賛にも程がある」と笑われるかな。(イデちゃん)

自分で役割をつくる

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カボチャはどんな料理法でもおいしい(マツミナ)


 「考える先生」育成プログラムのたたき台づくりは、まだまだ麓にいる段階です。イデちゃんが昨日報告してくれたように、踏み固められた道があるわけではないから、はたから見ると無謀かもしれません。でも、当の学生も一緒に話し合う中で、大まかな道すじは見えてきました。

 

 今年4月から学生は中学校に毎週通い、生徒や先生たちの日常を「見る(観察する)」に徹してきました。11月からはそこで抱いた問いのうち一つだけを先生にぶつけることができます。この質問は次の段階へのかけはしです。

 来年春には、登り道が始まります。学生は観察・質問を踏まえて、自分の「役割」を自分でつくり、学校の日常に参加します。

 そもそも学校にはどんな「役割」があるのでしょうか。例えば、ボランティアとか、地域サポーターとか? それが生徒や先生の日常をどう支えているのでしょうか。それは十分でしょうか。逆に必要なのに全くない役割は何でしょうか。あったらいいな、こんな役割なんてものがあるでしょうか。中学校が担っているミッション、組織全体、生徒、先生、保護者、地域との関係を考えたうえで、役割を見つけ出し、さらに自ら実践するのです。

 

 役割は、制度に組み込まれると「職種」になります。企業ならば、営業や広報、人事などが挙げられます。設立当初から職種があって人が配置されている場合もあるけれど、必要があって誰かが役割を担い、やがて制度化されたという企業もあります。「質問力を磨く(Class Q)」の学生たちは、職種をテーマに企業を取材する中で、その話を聞いているはずです。

 でも、聞くのと自分で探してつくるのは大違い。これまでの経験をどこまで自分の血肉にしているかが問われるところです。ないものを探す――クリティカルシンキングの力を試されることになります。

 

 「自分で役割をつくる」の後は、学生は教育実習に参加することになります。これはできあがったプログラムなので、送り出す大学と受け入れ先の学校が、手取り足取りで導いてくれます。実習に行った学生たちに感想を聞くと、ほぼ例外なく「楽しかった」というのは、「お客さま」でいられるからでしょうか。自分で道をつくりながら歩いてきた学生が、できあがったプログラムに身を置くことで何をどう考えるのでしょう。

 

 見る・問う→自分で役割をつくる→教育実習――この大きな流れの中で、学生は「自分自身を教員として育て続けるカリキュラム」をつくれるような力を獲得する、そして絶えずカリキュラムを修正しながら実践していくことができる。

 それが「考える先生」育成プログラムの狙いです。(マツミナ)

自分を育てるカリキュラムを作る

 

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秋深まる(イデちゃん)

 

 「考える先生」を育てるプロジェクトのこれからの課題について、T君が見学に通う中学校のS校長、マツミナさん、そしてT君を交えて話し合いました。

 

 4月から始まったこのプロジェクトはこれまでに例のない試みです。

・週1回、中学校に行って生徒の登校時間から下校時間まで、学校で行われる教育活動の様子を自由に見学する(見るだけ)

・見学する対象や方法は学生の希望を尊重する(自由に見てよし)

・学生ボランティアのような役割は課さない(手伝い要員として使わない)

・教職員は直接指導しない。1日の見学後、S校長が学生から今日した事の内容や感想、疑問等についてヒアリングをする。

 こうした曖昧かつ緩やかな枠組みの中で、学校で見たり聞いたりしたことを基にT君自身が自分で問題や課題を見つけ、S校長とのやりとりを通して考えを深めていくことを期待していました。かっちりとした計画があるわけではないので、はたで見ていたらかなり無謀で無責任な取り組みのように見えたかもしれません。

 踏み込んだ指導をしたわけではありませんが、私はT君の変容に手応えを感じています。リフレクションシートに書かれた内容から、自問自答しながら考えを深めようとする芽生えを見ることができるからです。とはいうものの「学生に教えない、自分で考えろというのはキツくないか」「考えさせるような働き掛けや方向付けをしてやる必要があるのではないか」という指摘もありました。

 

 T君を一番身近に見てきたS校長からは問題意識が提示されました。

 「これまでの取り組みを通して、教師を目指す学生としての変化や成長を感じるまでには至っていない」

 「学生本人の自由意志に任せ、参観し、気づき、変容していくことは理想であるが、週1回程度の見学を、意図も計画もなしに続けても年度末に変容を期待することは難しい」

「養成プログラムのプロトタイプの構築を目指すなら、学生の時間的な効率と効果を考慮し、ある程度の枠組みを設定する必要がある」

 

 話し合いの結果、今月からは「見るだけ」でなく、「質問」もできるようにしました。授業や生徒への対応を見て疑問に思ったことを教員にぶつけられるようにしたのです。調べればわかる程度の「閉じた質問」ではなく、「開いた質問」を1回1問だけ、やりとりは10分以内という条件付きです。教員との対話を通してT君にどんな変容が見られるか楽しみです。その先には「理想の教師像」を自分で描き、具現化するために何をしたらいいか考えなくてはいけません。自分を育てるカリキュラムを作るT君が見えてくることを期待しています。(イデちゃん)