idematsu-qのブログ

屋根のない学校をつくろう

一斉指導に便利な「手を挙げて」

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静かな水面の風景を、小さな鳥が波紋で崩す(マツミナ)

 

ミナさんの言う通り、確かに先生はよく生徒たちに手を挙げさせますね。学習場面ばかりではありません。朝の学活では「忘れ物した人」「咳の出る人」「朝ごはん食べてこなかった人」にも手を挙げさせる。給食の時間には「残した人」「おかわりする人」……。学習の理解度や、状況、結果を簡単に掌握できる便利な方法なのです。

でも、リフレクションシートに「新しい経験をしたかったけれど、手が挙げられなかった」「指名してくれてありがとうございます」などと書いた学生がいたように、事実や本音に基づいた反応であるとは限りません。「手を挙げて」の一言によって先生と生徒、あるいは生徒同士の間に、様々な事情と思惑が交差する空気が生み出されるのです。

以前、杉並区の中学校で、生徒がタブレットで自分の意見を入力し、モニターに表示された全員のコメントを見ながら、考えをまとめる道徳の授業を参観しました。高校では、端末として自分のスマホを使っていました。中学生や高校生ともなると周囲を意識してわかっていても手を挙げないとか、同調圧力から自分の意見を言わないことも珍しくありません。しかし、どちらの授業も手持ちの端末から活発に意見が入力され、先生が「手を挙げて」と催促しなければならない場面は見られませんでした。「手を挙げて答える」時に生まれる「様々な事情と思惑が交差する空気」を読む必要がないからでしょうね。

 

挙手は生徒への問い掛け(発問)とセットになっていて、多くの生徒を相手にする一斉指導では便利な観察手段です。学習評価にも使えます。先生にとって挙手は授業を進めていくうえで「なくてはならないもの」です。ですから先生は挙手がないと「誰かいませんか」と促します。それでも挙手をする者がいないと「Aさん、どうですか」と指名し、無理やり?発言を求めます。そこでAさんが望ましい発言をしてくれればいいのですが、「わかりません」と言われたらもうアウトです。先生は沈黙に耐えられず、「これはこうですね、わかりましたか」と自分で自分の発問に答えて先に進むしかありません。

個別指導に挙手は要りません。A Iによる個別最適化された学習が行われるようになれば、先生の大好きな挙手による観察・評価は無用です。「わかった人は手を挙げて」は教室から消える日が来るでしょう。(イデちゃん)