idematsu-qのブログ

屋根のない学校をつくろう

新生活を前にした母と子の風景

 

 「入学前教育」のチラシの話を読んで思い出しました。昨年12月、暮れも押し迫ったある日の出来事です。私はお茶の水にある病院で診察を済ませ、時間があったので駅近くの文房具店に行くことにしました。隣のビルの前でプラカードを持った女性が来訪者を案内していました。来る時もいたけれど大して気にも留めず通り過ぎていました。改めてプラカードの文字を読むと「小1対策直前ゼミ」と書いてありました。

 「へーっ」と思って見ていると、母親と子どもが次々と会場のビルの中に入っていきます。いろいろな親子の組み合わせですが、母親の表情には共通しているものがありました。どなたも無表情。というより、「わけ知りの、したり顔」といった感じです。たとえばサッカー場や野球場で出会う親子だったら、応援するチームへの期待感とか試合前の昂揚感のようなものを感じるのですが、それとは何か違う種類のもので、一様にさめた感じなのです。

 少し遅れて来た親子がいました。入り口でモタモタしている子供に「ほらー、何やってんの。早くしなさいよ、遅れるわよ」という母親の声もさめていました。

 

 作家幸田文が夫と別れて、娘の玉を連れて実家に帰るときのことを後に玉が書いています。(『小石川の家』)

 母と共に祖父の家に住まうことになる娘に文がいう。

「いい、おじい様の云う事をちゃんと聞くのよ」

「返事はハイと一言で」

 文が父露伴に厳しく躾けられたことは有名です。膳の出し方から晩酌の燗の温度まで事細かに教え込まれました。そんな文がこれから始まる露伴との生活の厳しさを思い、娘に言って聞かせた言葉を玉はよく覚えていて、子どもながらに覚悟を固めたそうです。

 

 親子の間に適度な緊張関係がなくなったような気がします。子供に対して過大な期待や強制・強要をする一方で、無関心、放任・放棄といった極端な関係が目立ちます。「小1対策直前ゼミ」が何をするのか、そして、そこに集まってくる親子のこれからの生活も想像に難くありません。少なくとも文と玉が決意した新しい生活への緊張とは異なる緊張を強いられる毎日であることが予想されます。

 今、この子たちに必要なことは、4月から始まる新しい生活への期待と快い緊張です。収まる気配のないコロナ禍の中にあっても、「1年生になった~ら、友だち100人できるかな」という心弾む子供の期待を大きく膨らませる入学前であって欲しいと強く願っています。(イデちゃん)