idematsu-qのブログ

屋根のない学校をつくろう

「読む」とは、言葉を通して考えること

 

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節分の空 春近し 梅の枝(撮影・イデちゃん)


 この春大学を卒業し、社会人となる学生から手紙が届きました。コロナ禍で思うに任せない就活だったようです。それでも「先生が私の背中を押して下さったおかげで、希望の仕事ができる自分になることができました。あの時ガジュマルの木の下で、失敗しても前に進む努力をすることの大切さを教えてくれた先生に心から感謝しています」と内定をもらった喜びが綴られていました。

 中学生を引率して南の島に行った時のことです。船中、これから始まる体験への期待で生徒たちの声が弾んでいました。そんな中で一人の生徒の寂しそうな表情が気になったので尋ねると「第一志望の高校に受からなかった」と悲しそうに答えました。出発直前の不合格通知に、心躍るはずの体験旅行が傷心の旅になってしまったのです。

 島に滞在する間、時折、寂しそうに海を見ている姿に傷の大きさを感じました。離島の日、港の近くの公園の大きなガジュマルの木の下で一緒に弁当を食べながら、これからのことを聞きました。戻ったら第二志望校の試験があること、大学に行って国際的な仕事に就きたいこと。でも第一志望校に落ちたから夢は叶いそうもないと嘆く生徒に「人生の勝ち負けは高校で決まるものではない。私なんか大学出る時ですら自分の生き方が定まっていなかった」と自慢にもならない話をすると「へーっ」とした顔で見返されました。あれから7年、時折届く近況には元気に頑張っていることが書かれており、成長が楽しみでした。

 手紙の結びに、「どうぞ今後ともご指導ご鞭撻をいただきますよう、よろしくお願いいたします」とありました。学生の時にはおそらく縁のなかった表現に、春から始まる新しい生活へ緊張と初々しい決意が感じられ、久しぶりに清々しい気持ちになりました。がんばれ、新人。

 

 私は、LINEやツイッターなど、スマホの画面は「読む」のではなく、「見て」いるのではないかと思うことがあります。書いてもいません。記号を入力しているだけです。ですから「既読」の通知は「読んだ」ということではなく「見た」という記号が自動的に入力されただけです。「既読スルー」はその典型で、書かれた内容を理解したかどうかより「見た」というレスポンスの方が重視されるわけです。

 とにかく、膨大な量の情報が次々と提供され、時間をおかずに更新される状況の中で、いちいち文章を読んでいたのでは置いていかれます。読まずに見るだけで「読んだつもり」「わかったつもり」になるだけでいいのです。どうせ、すぐ古くなってしまう話ですから。

 最近の本にはそんな風潮を見越したようなものが増えてきたような気がします。ネット上に飛び交ういい加減な記述(検証も実証もされていない俗説や自説)をそのまま転載したと思われるような本が店頭に並び、結構売れているようです。読んでいるのでなく、見ているだけなら内容の良し悪しが問題にならないのは当然かもしれませんね。

 「読む」ということは「言葉を通して考えること」です。「見る」から「読む」への転換を。

  ClassQを進めるべし。(イデちゃん)