idematsu-qのブログ

屋根のない学校をつくろう

「いい歳こいて、みっともない」と言われないために

f:id:Question-lab:20210210180411j:plain

春を待つ二人の語らいは…。「早くコロナが終わるといいね」かな。(撮影・イデちゃん)

「女性がいる理事会は時間がかかる」などと暴言を吐いたオジサンの記者会見は、暴言以上に無神経で想像力に欠けるものでした。これでは収まりがつかないなと誰もが思ったことでしょう。ところが「暴言は許せないが、これまでの功績に国民は感謝すべし」とか「たった一言の失言も許せないというのは寛容さに欠ける」とか、助け舟を出す人が現れました。こうやって議論の核心が功績の大きさや受け止める側の不寛容さにすり替えられ、問題の焦点が曖昧にされていくのでしょうね。

「老人をいじめるな、許すという行為は日本人の美徳だ」などと、独りよがりな日本人論を持ち出す人も出てきましたよ。「惻隠」だの「宥恕」だのと難しい用語を引っ張り出して、夜郎自大な精神論が幅を利かすようになるのは、ごめんです。

大きな頭の5歳児に「ぼーっと生きてんじゃねーよ」と大人が叱り飛ばされるT V番組が人気です。私たちも「大人の姿を当たり前と思わない、想像力たくましい次世代」(マツミナ)に「いい歳こいて、みっともねーよ」って言われないようにしなくては。

 

学生の頃の友人に面白い奴がいました。小説家志望の彼は芥川賞を取ると宣言し、作家修業と称して、風景や人の動作、音や色などを自分の言葉に置き換えてノートに書き留めていました。煙草の煙を「紫煙」のような使い古された言葉ではなく、「不透明な息」とかなんとか、彼なりに格好つけて表現していたのを覚えています。

彼に言わせれば「こういう言葉の蓄積」を何千何万と持っている小説家がいるそうで、その作家は「二度と同じ表現を使わない」ということでした。

大学を卒業して数年後、彼の家を訪ねました。昔話に花が咲いた後、「これ見てくれ」と押し入れに積まれた原稿用紙を見せられました。書き溜めた小説の束です。「芥川賞をとった後の第二作、三作も用意してある」とのこと。あれから何十年も経ち、彼は芥川賞とも文壇とも無縁のまま旅立ちました。あの膨大な未発表原稿や言葉を書き留めたノートを持っていったでしょうか。

 

以前、「読む」とは言葉を通して考えること、「見る」とは違うと書きましたが、私は書くことも同じだと考えます。「書く」とは言葉を通して考えることです。ミナさんは「自分のつまずきを言語化しておく必要がある」と言っています。言葉で書き留めておくということですね。

書くことによって、頭の中にある未分化で整理のつかないイメージに形を与えることができます。文字に置き換えることによって、自分の考えを「可視化」することができます。そうすれば後で読み返して修正することができるし、人に伝えることもできます。未完の作家で終わった友人が続けた修業は「イメージの可視化」トレーニングだったのです。

 

「頭の中の言葉をどんどん書き出して、床やテーブルの上に広げていく」ことによって、言葉と言葉が繋がり、新しい発想が生まれる。小さな情報カードが「知の連鎖」を作り出されるのですね。まさに「魔法のカード」です。(イデちゃん)