idematsu-qのブログ

屋根のない学校をつくろう

コスパの悪い話

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空の青、松の緑と梅の白(イデちゃん)

 コスパですか。実学優先もここまできましたか。それでは気が遠くなるほどコスパの悪い話をしましょう。

 「小学校の頃(昭和30年頃)、国語で『アルプスの少女』の学習をした時のことです。どうしてもわからないことがありました。それはハイジのおじいさんたちが作っていた『チーズ」です。今でこそポピュラーな食べ物となり、簡単に手に入りますが、当時、地方ではそれほど一般化していなくて、クラスの子供たちも誰一人として食べたことがありませんでした。先生は苦心してあれこれと説明してくださるのですが、なかなか理解できません。『バターのように牛乳から作るのだけれど、バターとは違う…』結局、よくわからないまま、一人一人が勝手に想像するほかありませんでした。

 半年ほどして、先生が東京に旅行したおりに『チーズ』を買って帰り、私たち全員に少しずつ切って食べさせてくれました。初めて口にするチーズは臭いが強く、酸っぱいような味がして、お世辞にもおいしいと言えるものではありませんでした。しかし、その一片のチーズが、理解できないままに残されていたイメージを具体化し、『アルプスの少女』をいっそう身近に感じさせてくれたことは言うまでもありません。学習後、時間を経過してから追体験することによって、学習時にさかのぼり改めて全体を理解することは珍しいことではありません。ですから授業でも実物や体験にあまりこだわらず、『いつか』見聞できることを想定して組み立てることが大切だと思います。」(「子供が生き生きと活動する授業」日本標準社1983年)

 

 これは私が書いたものです。これには続編があって、ここに登場する小学校の時の担任の先生が、退職後に出版した著書の中で当時のことをこのように記しています。当時のクラスが30数年後に集まった同級会での話です。

 

 「丘の村では、まだ、チーズは高価なもので子供たちには縁遠い食品であった。職員旅行で上京した折に求めてきたチーズを均等に45等分する私の手許に、子供たちの眼は一斉に鋭く集中した。

 『先生。石鹸食うかい』と箱から出されたチーズを訝しげに見入るじっと一人の子供の眼。小さく、そして等しく切っていく慎重な手の運びをじっと見つめる子供達の眼。

私にとっても、この教室の映像は鮮明で消えていない。

 『変な味だったなあ』『今だから言うが、私はほき(吐き)だした』『小指の先くらいの一切れだったかな』『割り箸の先くらいの細さだったよ』『口に入れたらすぐなくなってしまった』

 40歳近い今も、その味わいを懐かしむ教え子たちだった。」(安西道子「子供が見えてくる」信濃教育会出版部1987年)

 

 改めて読み返してみると、その当時私たちは「わかったつもり」にはなったけれど、味も匂いも実感として腑に落ちたのは大人になってからだったのですね。

 京都大学の宮野公樹さんがこのように言ってます。「大学とは、何よりも『学問』をする場所です。(中略)学問とは食うこと、つまり生きることとは何かを考えることであり、大学とは食うことを心配しないでその問いを持つことができ、果ての果てまで考え、対話するところです」(東京新聞 2021年1月11日)。コスパの対極にある姿ですね。でも、この感覚は今の若者にはわからないかもしれません。生まれた時から「コスパコスパ」の社会で生きてきたのですから。

 で、学生は何と答えたのですか。(イデちゃん)