idematsu-qのブログ

屋根のない学校をつくろう

奪われた時間

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 八丈島では、卒業式に黄八丈を着るのですか。すてきですね。長い時の流れの中に、新たな一歩を踏み出す。門出にふさわしい装いです。今、私たちが失いかけているのは、その感覚ではないでしょうか。目に映るのは「今」しかないようにも感じます。

 

 先日、国立大学法人化(2004年)当時の国立大学長と話す機会がありました。日本の研究力のピークは2000年までだったとふりかえっていました。確かに「科学技術指標2020」(科学技術・学術政策研究所)を見ると、論文数、Top10%・1%補正論文数のいずれもその地位を低下させています=表=。元学長は、その理由をこう分析していました。

 「日本の学術研究は昔からお金がなかった。長い時間をかけて、少しずつ蓄積し、その中なら花を咲かせてきた。時間で稼いできたんだ。それが日本の学術の実態です」

 しかも、その「時間」の長さは、学問によって違うのだそうです。大学という一つの組織の中に、スパンの異なる学問を抱える部局が混在しているのです。法人化でその権限が強化されたとはいえ、学長が一律にそんな学内を管理することができるのでしょうか。

 「ガバナンスをいじれば奇跡が起こる――なんていうのは全くの嘘だね」

 こうもおっしゃっていました。

 

 改革に次ぐ改革で、大学からは時間がなくなりました。成果が出ないから、ますます焦燥感に駆られ、次の改革が打ち出されます。時間がなくなった大学から小中高校に送り出される先生もまた、考える時間を失ったままです。先生たちが向き合う子どもたちもまた…。

 

 「pisang zapra(ピサンザプラ)」 マレー語で「バナナを食べるときの所要時間」を示す名詞なのだそうです*。一体、どんなときにこの言葉を使うのでしょう。

 こんな感じでしょうか。

 「ちょっと待ってて」

 「どのぐらい」

 「ピサンザプラ」

 人によって、バナナの大きさによって、食べる時間は異なります。そんな事情を飲み込んだ、大雑把な時間感覚にあこがれすら感じます。(マツミナ)

 

 

*『翻訳できない世界のことば』(エラ・フランシス・サンダース、創元社刊)