idematsu-qのブログ

屋根のない学校をつくろう

「教員の資質能力」

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みんな大きくなってね(マツミナ)

 「考える先生」を目指す学生は、本日も中学校に行ってきました。今日は1年生のクラスに張り付いて観察し、たくさんの質問をしていたようです。校長先生が丁寧に記録してくださいました。校長先生のご厚意に感謝です。

 

 「英語など教室での授業は私服。なのに体操服を指定にしているのはなぜか」

 「生徒数はクラス30人くらい。なぜ(こんなに)少人数なのか」

 「昼休みに生徒同士の関わり合いを見ていた。1年はグループ同士の交流があったが、2、3年生はグループ間の交流がない。なぜだろうか」

 「1年生の教室で、男子列と女子列に分けているのはなぜか」

 

 こうした生徒の様子は、自身の体験とのギャップが起点です。かつての自分を思い出しながら、その違いを口にしていたのですね。

 ところが、先生の立ち居振る舞いや授業となると、一転して「考える先生」を目指す学生としての視点に切り替わるようです。

 「生徒が意欲的に取り組む授業ができる先生に共通していることとして、問いかけがうまい。机間指導を頻繁にしている。生徒との距離感が近い」などの気づきを口にしていたようです。

 学生のリフレクションシートにもこうした気づきが書かれていました。

 気になるのは、学生が「教員の資質能力」という言葉を使っていたことです。「生徒の心を掴めること」をその一例にあげていました。

 前にも書いた通り、資質は「生まれつきの性質や才能」。これに対して能力は「特定の仕事を成し遂げることができるかどうかという観点から見た、その人の総合的な力」(いずれも新明解国語辞典)。教員の問題に関する文科省の文書には、「資質能力」がよく出てきます。今年3月の萩生田文部科学大臣の諮問にも、「教師の資質能力の向上により,質の高い教職員集団を実現する」などの文言が出ていました(「令和の日本型学校教育」を担う教師の養成・採用・研修等の在り方について)。

 

 この「資質能力」について、かつての中央教育審議会長がぼやいていたことを思い出しました。

 「教員の資質能力という表現はおかしい、直してください、と何度も文科省側に伝えている。でも文科省は直さない。本気で日本の教育をよくしようと考えているのか…」

 

 乱暴な表現では理念が伝わらないし、そもそも誠意すら疑われます。学生がどこでこの言葉を覚えたのかはわかりませんが、無批判に使うべきではありません。リフレクションシートにはその旨を書き込んで返しました。

 考える先生は、言葉遣いも丁寧であってほしいものです。(マツミナ)