idematsu-qのブログ

屋根のない学校をつくろう

「はい論破!」

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藤の実にさす梅雨の晴れ間の木洩れ陽

 熱海市で起きた土石流の映像を見て、そのエネルギーの大きさに驚きました。2日に「大雨もどうやら収まったようで安心」などと書いてしまった自分の浅はかさを反省しました。それにしてもSNSの威力はすごいですね。家を押し倒し巻き込んで、狭隘な川筋を猛スピードで駆け下る土石流の様子が、時間をおかずに世界中に拡散されるわけですから。一方で、あの瞬間には何人もの人の生死が関わっていたことを考えると、安全な場所で「凄い」と驚いて見ている自分がいたことも恐ろしいことだと思いました。

 

 小学生の頃学んだ故郷の偉人の一人に「吉田屋中村惣兵衛」という人がいます。私は小さい頃に父から「惣兵衛さん」(ソウベイさん)が作った堤防の話を聞いたことがありました。学校の授業で「1750年頃、石工の惣兵衛さんは飯田の殿様に頼まれて、度々洪水を起こし『暴れ天龍』と言われていた天竜川に堤防を作り、水害から田畑を守った」と教わりました。

惣兵衛さんが作った堤防は大きな石が何重にも積み上げられ、見るからに頑丈そうなもので「惣兵衛堤防」と呼ばれていました。堤防の上には古い桜の木が何本もあり春はお花見に人が集まりました。子供たちは堤防の下の流れが淵のようになっている場所で泳いだり、砂が堆積した砂州では「三角ベース」をしたりして遊びました。

 

 その「惣兵衛堤防」が、昭和36年6月に伊那谷を襲った梅雨前線豪雨(36災害)で決壊しました。当時、私は中学生3年生でした。何日も雨が降り続き、増水した天竜川の流れが堤防を乗り越える様子を少し離れた高台から父と一緒に見ていました。溢水が始まってしばらくすると堤防の内側から崩れ始め、瞬く間に、大きな石を積み上げた「惣兵衛堤防」が崩れて行きました。

 堤防に守られていた水田に濁流が流れ込み、丈が伸び始めた稲田を飲み込んでいきました。圧倒的な水の勢いに、見守っていた消防団の人たちはなす術もなく、奔流が広い水田地帯に荒々しく流れ込んでいく光景を今でもはっきり覚えています。

熱海市の土石流をTVで見ながら60年前の出来事を思い出しました。被害に遭われた方々に心よりお見舞いを申し上げます。

 

 閑話休題。先日、暇つぶしにインターネット・サーフィンをしていて「大学ゼミの討論で「はい論破!」を繰り返す痛い学生たちが増殖中」(YAHOO! JAPANニュース)という記事を見つけました。それによると「『はい論破!』『嘘つくのやめてもらえます? エビデンスないですよね?』『それってあなたの感想ですよね?』など」と相手をやり込め「建設的なディスカッションができなくなる」ということです。他にも「大学のゼミでは先輩の院生が知識をひけらかして学部生を論破してマウントを取る」といった記述もありました。

 

 「議論と『相手を否定する』を混同しているのです。その結果、議論を恐れ、逃げるようになっている学生が少なからずいます」というミナさんの指摘を思い出しました。その延長線上にあるのでしょうか。いずれにしても、議論の風景はいつからこんなに変わってしまったのでしょうか。(イデちゃん)