idematsu-qのブログ

屋根のない学校をつくろう

齢に従わない

 

f:id:Question-lab:20210925210441j:plain

甥の作品展に行ってきました行ってきました(イデちゃん)

 

 今日から後期高齢者の仲間入りです。何かにつけて話題になる「団塊の世代」は1947年から1949年に生まれた世代を指していますが、私のような1946年生まれの年代は「団塊の世代の走り」とでもいったらいいのかもしれません。小学校では自分たちのすぐ上の学年は人数が少なく、下の学年から急に多くなりました。大学入試の時「現役で合格しないと次の年は受験者が増えて大変だよ」言われながら果たせず、一浪の末に大人数の後輩たちと競う羽目になりました。 

 

 以来、ずっと「団塊の世代」に付き合って来ましたが、その世代がいよいよ後期高齢者に差し掛かって来たわけです。団塊の世代の本隊が後期高齢者になる2025年ごろには年金や保健等に関わる現役世代の負担が一層大きくなることが予想され、深刻な課題となっていることはご承知の通りです。

 

 先日、若い友人と話していて深沢七郎の「楢山節考」に話題が及びました。人の命が大切なことは言うまでもないけれど、大切にし過ぎるってことはないのだろうか。そんなに大切にしてくれなくてもいいよ、なんて言える人はいるのだろうか等、聞きようによっては不遜で不見識な話ですが、命の軽重とか延命治療の是非とかといった難しい話ではなく「もう十分生きたから、これ以上は遠慮しとくよ」っていうのはありですかねえ、といった他愛もないやりとりから「楢山節考」の話になったのです。

楢山節考」は、70歳になると楢山へ捨て置かれるという村の掟を悄然と迎えようとしている老婆と、その息子の心の葛藤を描いた小説です。「大切にし過ぎるってことはありなのでしょうか」という若者の問いに答えを持たなかった私は、代わりにこの小説を読むことを勧めたのですが、それは「あり」だったでしょうか。

 

 今日から後期高齢者という立場を特に意識して生活する気はありませんが、運転免許の更新や健康保険制度のように社会制度や世の中の仕組みのが、「齢」に従って生きるようにと迫ってくるようで、余りいい気分ではありません。

もっとも、大量の老人の面倒を見なければならない若い世代の方がもっといい気分ではないかもしれませんが。(イデちゃん)