idematsu-qのブログ

屋根のない学校をつくろう

「いい先生」のモデルは自分でつくる

 

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雲海に沈む夕陽 立山天狗平(イデちゃん)

 

 「後半戦に入った考える先生プロジェクトの課題」を読んだ知人から、S校長と同じような点を危惧する指摘がきました。彼はもっと直截で「今の学生に教えない、自分で考えろというのはキツくないかな。T君だって色々考えていると思うよ。放し飼いにしておかないでそれを引き出し、せめて方向付けくらいしてやってもいいのではないか」と書いていました。

 

 私が「教えないで欲しい」とお願いした理由は、このプロジェクトは「考える教師」とはどのような教師なのか自分で考え、モデルを自分自身で作ることを目指しているからです。中教審教育委員会が既に示している教師像を示して、学生をそれに近づけるために指導したり教えたりしようとは思っていません。ですから「教えないで、なぜそういう疑問をもったのか尋ねてほしい。そして、二人のやりとりを繰り返すことを通して、T君自身に考えさせていただきたい」とお願いしたのです。

 

 実際、T君のリフレクションシートからは、彼が自問自答しながら考えを深めようとする芽生えを見ることができます。1年生の校外学習の事前指導の際の先生の対応をこのように捉えています。

 「先生が話していても私語が止まらない場面があった。学校外に生徒を出すのだから静かにさせ、話を聞かせるというのは教員として当たり前のことであろう。しかし、それに対して注意した先生は一人しかいなかった。私は後ろで事前指導を見ていたが、何故、他の先生は誰も注意しないのだろうと終始疑問に思っていた。生徒たちからすれば怒らない先生は『優しい先生』と認識しているかもしれない。もし先生の方が『怒らない=優しい』と解釈しているならば、それは『優しい』ではなく『甘やかし』だろう。今回の事前指導以外にも授業中にどんなにうるさくても注意しない先生がいた。生徒たちからは『優しくて良い先生』と認識されているらしいが、傍観者の私からすればそれは全く『良い』先生ではない。然るべき場面で然るべき指導を怠れば生徒たちからは甘く見られる。先生の威厳が失われるでしょう。改めて生徒にとっての「良い」先生と、それ以外の人にとっての「良い」先生は全く異なる姿をしているんだなと感じた」(6月3日)

 

 T君は「生徒たちからすれば怒らない先生は『優しい先生』と認識しているかもしれない」が先生には威厳が必要だと考えているようです。そう考えた根拠は多分、自分の中学生の時の体験からでしょう。私たちは「先生の威厳」が「厳しい指導」だけで保たれているわけではないことを知っています。でも、それを教えようとは思いません。教えてもらってわかったつもりになっても困るからです。

 「私の考える『良い』教師像の一要素に生徒理解がある。生徒を理解するためにはどの立場から何をすればよいのか?どこまで理解してあげればよいのか?まだはっきりしていないことが多い。今後も考え続けていきたい」(6月10日)

 そうです。T君、良い先生のモデルは自分で作るのです。(イデちゃん)