焦ったくても教えない その2
「今日は生活科の授業の一環として校外に出て、公園にある様々なものの柄をとった。フロッタージュという技法だそうだ。(略)作業している姿を見ると、人によって柄を取る範囲の大きさや柄に対して使う色、塗り方が違かった(ママ)。これを見て塗り方の指導はしていないのだと気づくことができた。担任の先生になぜ指導しないのか後から聞いたら、生活科の授業と考えているため子供達のやりたいようにやらせ、子供たち同士で様々な方法があることに気づいて欲しいという意図があるからだそうだ」
「考える先生」プロジェクトに9月から参加し、毎週小学校に通っているMさんのリフレクションシートです。Mさんは「人によって柄を取る範囲の大きさや柄に対して使う色、塗り方が違」うことに疑問を持ち、担任に「なぜ指導しないのか」聞いています。そして、担任から生活科の授業の特質を説明してもらい納得したようです。
同じような場面でのT君の対応はどうでしょうか。中学校で1年生の校外学習の事前指導を目にしたときのシートを見てみましょう。
「先生が話していても私語が止まらない場面があった。学校外に生徒を出すのだから静かにさせ、話を聞かせるというのは教員として当たり前のことであろう。しかし、それに対して注意した先生は一人しかいなかった。私は後ろで事前指導を見ていたが、何故、他の先生は誰も注意しないのだろうと終始疑問に思っていた」
中学校の校長先生に「すぐ答えを教えないでT君自身に考えさせていただきたい」とお願いしていましたから、なぜ注意しないのか先生たちからの説明はありませんでした。
T君は次の週のシートに「生徒を理解するためにはどの立場から何をすればよいのか?(略)まだはっきりしていないことが多い。今後も考え続けていきたい」と書いています。
Thinking is very far from knowing 「考えることは、ただ知ることと雲泥の差がある」という諺があります。「考える先生」プロジェクトで、学生が学校に通っているのは「ただ知る」ためだけではありません。「なぜ指導しないのか」と尋ねる学生に理由を教えるのは簡単です。「焦ったくても教えない」のは説明を聞いて「わかったつもり」になるのではなく、なぜ「子供たち同士で様々な方法があることに気づかせたい」のか考えてほしいのです。
Mさんの学びは始まったばかりです。「知る」ことから「考える」ことへ向かって学び続けてほしいと願っています。(イデちゃん)