もう一つの「一生もの」
瀬戸内寂聴さんが亡くなりました。99歳でした。新聞は「恋に生き、女性の生き方に向き合い、慈愛を説いた九十九年だった」(2021年11月12日付東京新聞)と報じていました。作品やお話などから知る以上に、波瀾万丈の人生だったことでしょう。天寿を全うし、本物の仏様になられた寂聴さんに合掌。
11月も半ばになり、今年も残り少なくなりました。この時期になるとポツポツと届く葉書があります。「喪中につき新年のご挨拶を失礼させていただきます」というお知らせです。
父が亡くなりました、
母を送りましたという挨拶の後に加えられた生前の様子を伝える文面から、送り主の悲しさや寂しさが伝わってきます。それでも「天寿を全うし…」等と書かれていると穏やかに読むことができますが、亡くなった方がまだ若い方だったり自分の歳と近かったりすると、思うことも多く心が波立ちます。
先日、教え子から母親が亡くなった知らせを受け取りました。葉書を読みながら、その子の担任をしていた40数年前のことを思い出しました。
「母が留守になる時はいつも置き手紙があります。今日はおばあちゃんが入院したので病院に行ってきますと書いてありました。母は9時頃、疲れたような顔で帰ってきました。ぼくとお兄ちゃんは勉強して待っていました」
「K君へ。お帰りなさい。おばあちゃんが入院したので病院へ行ってきます。宿題をやって、るすばんをたのみます。コイの解剖はどうでしたか」
K君の日記と、お母さんが置いて行った手紙です。当時、毎週発行していた学級だよりに載せたものが残っていました。その日の朝、理科の学習でコイの解剖をすることをK君から聞いていたのでしょう。「コイの解剖どうでしたか」という短い文からお母さんの優しい眼差しが目に浮かびます。
彼も50歳を過ぎたはずです。手元に置き手紙は残っていないかもしれません。お悔やみの手紙に添えて、お母さんの思い出を届けようと思っています。
こんな付き合いも「一生もの」と言えるかも知れませんね。(イデちゃん)