idematsu-qのブログ

屋根のない学校をつくろう

主語がない日本語

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輪島の海(マツミナ)

 

 イデちゃんがゴミと戦っていた間、こちらは学生の「日本語」と格闘していました。上智帝京大学で開講する「質問力を磨く(Class Q)」で、留学生と帰国女子の日本語に驚かされました。

 

 Class Qでは、自分以外の誰かになりきって新聞を読み、そこで抱いた疑問を質問として言語化します。先日は「日本の火力発電所で働く20代の日本人」になりきって、COP26(第26回気候変動枠組条約締約国会議)関連の記事を読み、そこで浮かび上がった質問を発表してもらいました。難しい課題です。留学生のいるチームはこんな質問を作りました。

 

 自分の発電所の未来を切り開く

 1  異動も考慮に入れてこの会社で働き続けるには

 2  この会社で働いてくれる人を増やすには

 3  新技術の導入をさせるには

 

 内容そのものよりも、主語がどこにも見当たらないことに驚きました。話し言葉をそのまま書いているだけで、しかも語尾をぼかしているので、それぞれの質問の焦点も絞れていません。三つの質問が一つのストーリーとしてつながっていないため、結局何を知りたいのかもわかりません。

 そこで、主語は誰なのか、なぜ主語を省いているのかと質問しました。

 それに対して、留学生はこう答えてきました。

 

 「日本語学校で『日本語を上手にしゃべるには、主語をなくしなさい』と教わりました」

 

 その理由は説明されていない、と補足していました。

 

 帰国女子は、別の観点から主語を省くことを「覚えた」と話していました。帰国して間もないころ、英語の感覚で「私は~と思います」「私は~です」と常に主語を入れて話していたら、「自己主張が強すぎる」と言われてしまったそうです。以来、主語のない文章で話し、書くようになったとふりかえっていました。

 

 主語がなければ「日本語を上手にしゃべることができる」と認定される。さらに「自己主張が強すぎる人」という評価も避けられる。主語がないから文意が不明で、責任も問われない、ということになるのでしょうか。主語がない日本語は、日本のどんな状態を象徴しているのでしょうか。

 「主語を明確にして、発言者として責任を持ちなさい」と言うことが学生たちの未来にとっていいことなのかどうか、頭を抱えています。(マツミナ)