idematsu-qのブログ

屋根のない学校をつくろう

だまされ続けるのは、ごめんです

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甘いひととき(マツミナ)

 

 「♪どうせ私をだますなら だまし続けてほしかった」という歌謡曲「女心の唄」の一節を読みながら、そうかあ?と首を傾げてしまいました。付き合っている彼がいるのを黙って結婚するゲイの夫はそもそも身勝手です。私なら、そんな人間にだまされ続けるのは、ごめんこうむります。

 

 この一節から同時に思い出したのは、言語学者寿岳章子さんと学生チームが行った「歌の調査」です。日本で大衆が口にする歌謡曲や演歌などで「女たちはいかに描かれているだろうか」と気になったからだといいます(「日本語と女」岩波新書)。時は、国際婦人年とされた1975年でした。

 調査対象となったのは実に844曲。そこで浮かび上がったのが、「主体性を失った女性」たちの姿でした。頻出する言葉を列挙すると、「待つ」「甘える」「愛される」。さらに、そうした女性がいかに行動するかに注目すると、「そばにいる」「真心をつくす」「泣く(しのび泣く、むせび泣く、すすり泣く、泣きじゃくる)」「惚れる」…でした。

 寿岳さんによると、予想通りの結果だったそうです。「もろもろのうたの中で女は愛と恋の世界に生き、ほとんど男にくっついて、しかも一歩退いた位置をとりたがる」と述べています。

 

 「だまし続けてほしかった」も、その延長で出てきたのでしょう。では、だます人が政治家だったら、官僚だったら、同じことを言えるでしょうか。主体性の喪失は、古びた歌の世界だけにしたいもの。衆院選の投票日まであと1週間です。(マツミナ)

 

 

 

人生を案内するのは難しい

 

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シルエットロマン(イデちゃん)

 

 「彼がいることを隠して結婚生活を続けるゲイ(男性同性愛者)の夫」からの相談ですか(2021年10月12日付読売新聞「人生案内」)。

 「彼といる時だけが私らしくいられる時間。彼と別れるのは家庭を捨てるのと同じくらい、私にとってつらいこと」だけど、「さすがにこのままではいけない、どうしたらいいのか方向性を示してほしい」と相談されても困っちゃいますね。道徳や正義の物差しで測れば到底容認できる話ではないでしょうし、さりとて「ゲイであることを隠さずに暮らせる社会」にすべきだと力んでみても、問題がすぐに解決するわけでもないし。

 

「ウソつき、私をずっとだましていたんです、ゲイであることは関係ない」。全く同感です。隠さざるを得ない社会だからゲイであること黙っていたというのは夫の身勝手です。

「お互い苦しむ関係を増やさないようにする社会体制」であってほしいとは思っても「夫とは離婚する」。そりゃそうでしょう。夫に自分以外に愛する人がいて別れられないなら、自分が夫と別れる他ないでしょう。

「結婚生活を維持しながら、彼とも関係を続けられる」ようにしたいなどと考えるのは虫が良すぎます。

「そもそも妻に隠し事をしているのは不誠実だ。妻に打ち明けよう」というのも夫の身勝手です。妻だってそんな告白を聞かされたら困惑するでしょう。「そうですか、あなたも辛かったのね」なんて言えるわけがありません。正直と誠実は同じではありません。では、どうすればいいのでしょう。

 昭和40年頃、バーブ佐竹という歌手が歌って大ヒットした曲「女心の唄」という歌謡曲(死語かな)があります。その歌詞の一節に「どうせ私をだますなら だまし続けてほしかった」(作詞北山由希夫)というくだりがあったのを思い出しました。 

 とはいえ、自称人生経験豊富な後期高齢者のおじさんも頭を抱えてしまいました。人生を案内するのは難しいです。(イデちゃん)

「人生案内」で広げた思考


 

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朝日に輝く蜘蛛の糸(マツミナ)

 

 彼がいることを隠して結婚生活を続けるゲイ(男性同性愛者)の夫と、それを知らない妻と子ども。本日(10月22日)の「質問力を磨く(Class Q)」では、学生たちはそれぞれこの三人になりきり、考えました。その思考のプロセスは、模造紙に情報カードを貼り付ける形でまとめました。

 教材に使ったのは、10月12日付の読売新聞「人生案内」に掲載された読者の相談です。読者は30代の男性会社員で、裕福な家庭の一人っ子として育ち、両親の望み通りに就職、結婚し、子どももいます。結婚は、社会的な対面を保つためで、相手は上司から紹介された女性。妻と知り合う前からの彼とは今も付き合っています。「彼といる時だけが私らしくいられる時間。彼と別れるのは家庭を捨てるのと同じくらい、私にとってつらいこと」と書いていました。さすがにこのままではいけない、どうしたらいいのか方向性を示してほしい、という相談でした。

 学生にとって最も理解しやすかったのは「妻」だったようです。「妻になりきった」学生は、怒りと悲しみの言葉を書き連ねます。「ウソつき、私をずっとだましていたんです、ゲイであることは関係ない」とある学生は目を三角にして話していました。「人の人生を狂わせるようなことをしている。損賠賠償と月10万円の養育費を支払ってほしい」と償わせるための具体策を出している学生もいました。

 「お互い苦しむ関係を増やさないようにする社会体制を整えよ」という主張をする男子学生もいました。ゲイであることを隠さずに暮らせる社会にするとしながらも「夫とは離婚する」。

 子どもの視点も、学生たちは素直に心情を吐露していました。「両親と今後も一緒に暮らせる方法を考える」と思考命題を立てた学生は、性的少数者に対する社会の理解をどのように向上させたらいいのかを考えながらも、妻である母への配慮も見せています。「社会がいくら認めても、母が認めていなければ意味がない」「母にどのように受け止めているのか聞いてみよう」と健気な決意を書く学生もいました。

 学生が最も苦戦したのは、相談者本人の立場でした。「結婚生活を維持しながら、彼とも関係を続けられるよう理解を得よ」と思考命題を立てた学生ですら、最終的には「そもそも妻に隠し事をしているのは不誠実だ。妻に打ち明けよう」と結論づけていました。

 大きな教室に張り出されたたくさんの模造紙を見ながら、1人の学生は「明日は我が身。身につまされた」と話していました。1枚の小さな記事が、学生たちにリアルな生活を考えるきっかけになったようです。(マツミナ)

焦ったくても教えない その2

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ホトトギス 花言葉は「秘めた意志」(イデちゃん)

 

 「今日は生活科の授業の一環として校外に出て、公園にある様々なものの柄をとった。フロッタージュという技法だそうだ。(略)作業している姿を見ると、人によって柄を取る範囲の大きさや柄に対して使う色、塗り方が違かった(ママ)。これを見て塗り方の指導はしていないのだと気づくことができた担任の先生になぜ指導しないのか後から聞いたら、生活科の授業と考えているため子供達のやりたいようにやらせ、子供たち同士で様々な方法があることに気づいて欲しいという意図があるからだそうだ」

 

 「考える先生」プロジェクトに9月から参加し、毎週小学校に通っているMさんのリフレクションシートです。Mさんは「人によって柄を取る範囲の大きさや柄に対して使う色、塗り方が違」うことに疑問を持ち、担任に「なぜ指導しないのか」聞いています。そして、担任から生活科の授業の特質を説明してもらい納得したようです。

 

 同じような場面でのT君の対応はどうでしょうか。中学校で1年生の校外学習の事前指導を目にしたときのシートを見てみましょう。

 「先生が話していても私語が止まらない場面があった。学校外に生徒を出すのだから静かにさせ、話を聞かせるというのは教員として当たり前のことであろう。しかし、それに対して注意した先生は一人しかいなかった。私は後ろで事前指導を見ていたが、何故、他の先生は誰も注意しないのだろうと終始疑問に思っていた

  中学校の校長先生に「すぐ答えを教えないでT君自身に考えさせていただきたい」とお願いしていましたから、なぜ注意しないのか先生たちからの説明はありませんでした。

 T君は次の週のシートに「生徒を理解するためにはどの立場から何をすればよいのか?(略)まだはっきりしていないことが多い。今後も考え続けていきたい」と書いています。

 

   Thinking is very far from knowing 「考えることは、ただ知ることと雲泥の差がある」という諺があります。「考える先生」プロジェクトで、学生が学校に通っているのは「ただ知る」ためだけではありません。「なぜ指導しないのか」と尋ねる学生に理由を教えるのは簡単です。「焦ったくても教えない」のは説明を聞いて「わかったつもり」になるのではなく、なぜ「子供たち同士で様々な方法があることに気づかせたい」のか考えてほしいのです。

 Mさんの学びは始まったばかりです。「知る」ことから「考える」ことへ向かって学び続けてほしいと願っています。(イデちゃん)

同調圧力のなかで未来は拓けるか

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自動販売機の中の不思議な世界(マツミナ)

 

 先日、ノーベル生理学・医学賞を受賞した本庶佑さんの講演を聞きました。「生命科学が未来を拓く」という勇ましいタイトルの講演は危機感にあふれていました。危機感の中心にあるのは、人材育成です。「日本の最大の課題」とまで言い切っていました。

 グローバル化、多極化が進む世界で、望まれるのは国際性、柔軟性を持ち、失敗を恐れない挑戦的な人だと本庶さんは強調します。ところが「日本の教育がそうした人材の育成を阻んでいる」。ご自身の体験もあるのでしょうか。小学校から高校までの教育では「調和第一主義」がはびこっているとみているようです。幼稚園に入る時はたくさんの「なぜ」を連発している子どもが、小学校を出る頃には「シーンとしている子ども」になっていると言うのです。同調圧力が強く、出る杭を打つ学校で、子どもたちは人目を気にし、目立つこと、失敗することを恐れる。挑戦的な人が育つ可能性は低くなります。さらに学校の先生たちは「得意を見出す」よりも、「欠点の修正」に目がいきがちです。先生たちがよかれと思ってしていることでも、子どもが気概を失うのは当然の帰結なのかもしれません。

 生命科学はわからないことの方が圧倒的に多く、いろいろなことを粘り強く試していくことが必要なのだそうです。そうしたアイデア型の研究で、同調圧力で萎縮した子どもが勝負をしていくのは難しいかもしれません。

 

 そういえば、ノーベル物理学賞を受賞した眞鍋淑郎さんは「日本に帰らない理由」として「日本が調和を重んじていること」をあげていました。同調圧力を痛感していたのでしょうか。真鍋さんは日本に帰らないという選択をしたけれど、本庶さんはなぜ日本に拠点を置いているのか。しかも、人材育成のための基金も日本でつくっています。講演会を主催する作新学院理事長の畑恵さんが、その点を尋ねていました。

 本庶さんの答えはこうです。

 「僕は周りからどんなに煙たがられても、気にしない」

 周囲から「ごちゃごちゃ言われていた」ようですが、自分の好きなことに熱中し、同調圧力をはねかえしていたそうです。

 

 調和の重荷に耐えかねて出ていくか、「気にしない」と腹を括って我が道をまっしぐらに行くか。それとも同調圧力の中で「シーンとして」生きていくか。生命科学の進歩で長生きのチャンス自体は増えたけれど、日本の子どもたちの未来は拓けたのでしょうか。(マツミナ)

焦ったくても教えない

 

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秋深まる コキア色づく(イデちゃん)


 「考える先生を育てるプロジェクト」のこれからの課題を整理しながら、どうしたら「自分で課題を発見し、自分で考える学生」を育てることができるか考えています。

知人からの「今の学生に教えない、自分で考えろというのはキツくないかな」という問い掛けをミナさんは「ひょっとしたら『キツい』のは学生ではなく、周りの『私たち』かも。焦ったくて見ていられない、待っていられないからキツいのではないでしょうか」(2021.10.11「『考える』は目的か、手段か」)と受け止めています。確かにキツくシンドイ取り組みではありますが、なんとか活路を見出したいと思います。

 手掛かりは学校参観をしているT君とMさんのリフレクションシートです。子供たちの学校での生活の様子を見て何を感じ、どんなことを考え、校長先生や教員達とどのようなやり取りをしているのか知ることができます。その中にこれからの取り組みのヒントになるものがあるはずです。

 

 まず「改めて『考える』を考える」(2021.10.12)で引用したT君のリフレクションシートを読み直しました。

 「S校長先生との対話の中で『考える先生って何?』と問われた時すぐにこたえられなかった。『じゃあ、考えない先生って何?』と問われた時、何も言えなかった。自分の中にぼんやりとしている『考える先生』が何かわからないまま『考える先生』を目指していることに気付かされた。(略)ふわふわした雲のようなものを今までずっと掴もうとしていたのだ。『考える』ということ自体を自ら考えなくてはならない」

 

 初めてみる生徒たちの様子や自分が中学生の頃との違いに驚いていたT君が「ふわふわした雲のようなもの」を掴むために考えなくてはならないと思うようになったのは大きな変化です。おそらくT君はそのために次に何をしたらいいのか悩んでいるはずです。

 さて、どうしましょうか。「『考える』ということ自体を自ら考えなくてはならない」とシートに書いたT君に、参考になる本を紹介して読むよう勧めることはできますが、そこから先はT君が考えなくてはいけません。あれこれと答えらしきことを教えたくなるのは、教えることを生業とする「先生」にありがちな習性で、ここは我慢のしどころです。T君がわかったような気になっただけでは、自分で考えたことにはなりません。

 焦ったくてキツくても待たなくてはなりません。課題は私たちの側にもあります。

 

 次回は「待っていられなくて教えてしまう」ことの問題について考えることにします。(イデちゃん)

 

失敗こそが学び

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弧の部分の二重曲線、見えますか(マツミナ)

 

   いま、「糸かけ曼荼羅」という手芸にはまっています。木板に釘を打ちつけ、その釘に糸をかけ、曼荼羅模様を創りあげていくものです。板の材質や色、木目、釘の色や配置、糸の素材や色、かけ方によって変わるため、どんな作品になるか、完成するまでわかりません。無心に糸をかけていく過程は、自分と向き合っている静かな時間でもあります。そんな面白さにひきつけられて、月に1回通う教室を楽しみにしています。

 先日、自分なりの糸のかけ方と色の組み合わせを思いつき、挑戦しました。結果は失敗でした。なんだか違和感のある二重曲線が、糸の中に出現していたのです。この写真でおわかりになりますか。作品を見た先生から指摘を受けました。「反時計回りに糸をかけましたね」。確かに先生からは「この部分は時計回りで」と教えられていました。反時計回りでも同じではないか、と勝手に解釈して進めていたのです。

 「人の話をよく聞きなさい」とは、私が授業中に言うセリフだったはずです。ああ、恥ずかしい。慌てて糸を切り、作品を作り直そうとして、またはたと思い出しました。「失敗こそが学びの始まり」。これも学生にしょっちゅう伝えている言葉でした。

 上智帝京大学で開いている授業「質問力を磨く(Class Q)」では、学生に社説の視写を課しています。社説を書き写すだけです。ただ、その時に大事なルールがあります。間違えても消しゴムを使わないで二本線を引いて、その横に正しく書き直すことです。間違えたという事実よりも、なぜ間違えたか、そこを考えてもらうためです。

 学生はその中で、自分の文章の癖や学習の仕方、生活リズムを見直していきます。例えば、ある学生は「自分だったらこう書く」というふだんの文章の癖が出てしょっちゅう間違えていることに気づきました。自分の文章と社説の文章を見比べて、どちらが読みやすいかも考えたようです。苦手な字に気づいた学生もいました。

 書き始めてどのぐらいの時間から誤字・脱字などのミスが頻発してくるかを見る中で、自分が集中できる時間と時間帯を考えた学生もいました。その学生の場合は、40分を超えると誤字・脱字が増えること、夜に視写をするとミスが多いことがわかり、朝起きて視写をする、45分以内にいったん終えるという生活リズムと学習の仕方を学びました。「ここで間違えたのは、食べていたお菓子が妙においしかったから」という学生もいました。食べながら目の前の学習に集中するのは、至難の業です。

 「失敗こそが学び」。この作品を大切にします。(マツミナ)

コンピュータは子どもの社会を変えると予想したものの

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キバナコスモスもそろそろ終わりかな(イデちゃん)

 

 「小中学校に学習用のパソコンやタブレット端末を1人1台配布する政府のGIGAスクール構想を巡り、東京都内の少なくとも6区市で、端末を使って悪口を書き込むなどのいじめがあったことが、本紙が東京23区と多摩地域5市(八王子、立川、府中、調布、小平)の教育委員会に実施したアンケートで分かった。他人へのなりすましも4区市であった」

 東京新聞がトップ記事で扱っていました(2021.10.17東京新聞)。私は30数年前、授業にコンピュータを活用する研究・実践に取り組んでいました。当時は学校で児童・生徒が一人一台のパソコンを使って学習することは、文科省教育委員会から研究開発を委託されたり、大学や企業等と連携して研究を行なったりしない限り、ほとんど不可能でした。

 それがGIGAスクール構想の推進で、全国の公立小学校の96.1%が全学年または一部学年で端末の利活用を開始しています。当時を知る者としては、「隔世の感あり」ですが、もたらされた結果に大きな戸惑いを感じています。

 

 次の小文は日本の学校教育にコンピュータが導入され始めた頃に書いたものです。

 「子どもたちは1日の大半を学校で過ごす。その中で、学習や遊びを通して様々な人間関係を作っていく。(略)それは子どもの内面的な発達が大きく関係しており、大人たちの目に見えるもの以上に様々な要素が絡まり合って集団が出来上がっている」

 その小文の中では続けて児童が書いた作文を紹介しました。

 「ロールプレイングゲームをやる時どんな人とやると面白いかというと、想像力のある人とするといい。(略)『涙の倉庫番』のようなパズルゲームは頭を使わないとできない。(略)しんちょうな人でないとダメだ。(略)でもそういう性格の人は好きなタイプではない」

 それを受けて、私の考えを展開しました。

 「子どもは覚めた目で級友を見ている。そして、自分の考え方や行動原理に合った人間関係を作り上げていく。子どもたちには彼ら特有の組織原理や行動原理、あるいは意思決定の過程があり、それらがどのような構造になっているかを見ていくと大変興味深い事柄に出会うことがある。(略)人間の心理や行動の特性を十分に考慮して作られた問題解決型のゲームソフトは、問題を把握する能力や問題解決のための論理的な思考が要求される。子どもたちがこうしたゲームを通して、これらの能力を向上させていくとすれば、これからの子どもの社会は今までとかなり異なった構造になっていくことが予想される。

 コンピュータは子どもにとってすでに身近な存在となっている。子どもの社会がコンピュータによって今後どのように変わっていくのかということについて、大きな関心を持たざるを得ない。(「子ども社会のエコロジー」1988.3 東京都立教育研究所「学校におけるパーソナルコンピュータ利用の研究」)―

 30数年前に「これからの子どもの社会は今までとかなり異なった構造になっていく」と予想したものの、この現実との乖離に戸惑っています。(イデちゃん)

ムラの中での調和

 

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栗の季節ですねえ(マツミナ)

 

 ノーベル物理学賞を受賞した真鍋淑郎さん(90)の「日本に帰らない理由」、妙に説得力がありましたね。私は朝日新聞デジタルで読みました。

 「日本では、いつもお互いのことを心配しています。とても調和の取れた関係性で、上手く付き合うことが最も重要なことの一つです。他人に迷惑をかけるようなことはしません」(2021年10月6日朝日新聞デジタル

 

 読みながら、ジョニー・デップ主演の映画「MINAMATA」の一場面を思い出していました。水銀中毒による水俣病に苦しむ人々の姿にカメラを向けるユージン・スミス(デップ)に対し、化学会社チッソの社長が札束を渡しながら、撮影をやめるよう迫る場面です。

 

 「社会全体の利益の前では、(水俣病は)無に等しい」

 「(水俣病は)日本人に任せておきなさい。ヨソ者の出る幕はない」

 

 ウチとヨソ。とはいえ、日本人なら全てがウチの構成員になれるわけではありません。それは水俣病で苦しむ目の前の人々を「無に等しい」と言い切っていることからわかります。ウチはさらに小さな単位、ムラに分けられます。そのムラには厳格なルールがあります。調和を乱さないことです。ムラの論理が、個人の尊厳よりも優先されると社長は語っているのだと受け取りました。

 調和を保つためには、余計なことは考えてはいけない。思考は止めておいた方が、ムラの中で生きていくためには大事なのです。真鍋さんの指摘した「調和の取れた関係性」は、ムラで生きていくための知恵なのです。

 

 真鍋さんは日本の研究について、こうも語っていました。

 「最近の日本の研究は、以前に比べて好奇心を持って研究することが少なくなっているように思います」

 ムラで生きていくのに、好奇心は持たない方が安全だからでしょうか。「調和の取れた関係性」によって、私たちは何を得て、何を失っているのでしょうか。(マツミナ)

 

真鍋博士が日本に帰りたくない理由

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峻峰剱岳を望む 立山天狗平より(イデちゃん)

 

 今年のノーベル物理学賞を受賞することになった米国プリンストン大学の真鍋淑郎博士は、受賞の知らせを受けて行われた記者会見で「なぜ国籍を変更したのか」という質問に対して「私はまわりと協調して生きることができない。それが日本に帰りたくない理由の一つです」と答えたそうです。

今朝、某テレビ局のワイドショーがこれを取り上げていました。記者会見での博士の回答を整理したフリップが用意されていました。

フリップには概ね次のようなことが書かれていました。

・「日本の人々は、非常に調和を重んじる関係性を築く」

・「他人を邪魔するようなことは一切やらない」

・「日本人が『はい』と言うとき、必ずしも『はい』を意味するわけではない」

・「他人の気に障るようなことをしたくない」

 

 件の「私はまわりと協調して生きることができない」という発言は会見の最後にされたということです。会場の笑いを誘ったというこの発言を記者たちはどう理解し、なぜ笑ったのでしょうか。

 ワイドショーでは、何人かのコメンテーターが「博士はなぜ日本に戻って来ないのか」ということについて、それぞれの立場から意見を言っていました。コメンテーターは博士がアメリカに行ったことに対して肯定的な意見を言っていましたが、「会場の笑い」について触れたものはありませんでした。 

 

 私はこの最後の発言は「他人の気に障るようなことをしたくない」という博士の謙譲の気持ちを表したものではないと推測しました。会見の場には日本人の記者もいたはずです。彼らも外国人記者たちと一緒になって笑っていたのでしょうか。博士の「日本人が『はい』と言うとき、必ずしも『はい』を意味するわけではない」という発言を聞き逃していたのでしょうか。博士の高尚なアイロニーに気づかず、同調して笑っていたのであればお粗末な話です。

 

 「なぜ、アメリカを研究の本拠地にしたのか」という問いも「なぜ日本に戻らないのか」という問いも大して違いはないように聞こえますが、「戻らない」にはより強い意志が働いているように感じます。

 「調和を重んじる」ことが優先され「まわりと協調して生きること」を強要される日本に戻りたくないという博士の訣別の言葉を、笑って誤魔化してはなりません。これは「『主体的な学び』の重要性が指摘され、小学校から大学までの授業は変わったはずです。でも、学生が相変わらずテーマ設定に困っている現実」(2021.10.6「卒論のテーマをください」)の底流にあるものと根が同じだからです。(イデちゃん)

 

 

「人生案内」で考える  

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今日のコーヒーは妙に苦い(マツミナ)

 

 我が家の朝の会話は、しばしばこの一言で始まります。「今朝の人生案内はどうだった?」 人生案内とは、読者から寄せられた相談に学者や作家らがコメントする読売新聞朝刊の人気コーナーです。

 昨日話題にあがったのは、30代の男性会社員からの相談でした。彼は裕福な家庭の一人っ子として育ち、両親の望み通りに就職し、結婚し、今では子どももいます。ところが、相談者はゲイ(男性同性愛者)で、社会的な対面を保つために上司から紹介された女性と結婚したのです。妻と知り合う前から相談者には彼もいます。「彼といる時だけが私らしくいられる時間。彼と別れるのは家庭を捨てるのと同じくらい、私にとってつらいこと」と書いています。 

 さすがにこのままではいけない、「自縄自縛」だと思い、どうしたらいいのか方向性を示してほしい、という相談です。

 端的に言えば、不倫の相談です。だから、こうした相談では、回答者は概して蔑ろにされている妻(あるいは夫)に謝罪するよう厳しく書いていました。ところがこの日の回答者はなぜか歯切れが悪い。「あなたにはいろんな選択肢がある」「まずは自分の本音を見つけ出さないと、自縄自縛を解くことはできない」と相談者に同情的とすらとれる内容を書いています。妻については「このまま真実を知らされないのはあんまりかと思います」。最後まで妻に謝罪するよう求める言葉は出てきませんでした。

 相談者がLGBT性的少数者)であるというフィルターが、判断を鈍らせたのでしょうか。社会的に肩身の狭い思いをしている人は、他者を蔑ろにしてもいいのでしょうか。その根拠は何でしょうか。他の事例に当てはめても、そうした理論は成り立つでしょうか。妻や子どもはこの人生案内を読んだら、どう受け止めるでしょうか。

 「質問力を磨く(Class Q)」の学生に考えてもらうことにしました。来週発表の宿題です。「妻」「相談者本人」「子ども」の三者になりきると、どのような問題が浮かび上がるか。性的少数者をめぐる社会の現状、倫理学、法律を踏まえて考えてきてください、と伝えています。

 学生は真剣な表情で記事を読んでいました。(マツミナ)

聞こえるということ

 

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糸かけ曼荼羅。先生や仲間と一緒に作っています(マツミナ)

 

 このところ難しい話が続いたので、今日は小休止。映画の話といきましょう。

 

 先日、映画「サウンド・オブ・メタル~聞こえるということ」を観てきました。聴覚を失ったロックバンドのドラマーの失意と再生の物語です。その過程で描かれているのは、「聞こえるということ」の意味、そして「書く」ことの深さでした。

 

 映画では冒頭から字幕をフルに使い、「聞こえるということ」の騒々しさを伝えていました。「ジューサーの音」「コーヒーをドリップする音」などと書かれた字幕が、私たちの日常生活は音であふれていることを改めて実感させてくれます。騒々しいけれど、こうした音から突然隔絶されたら、冷静でいられるわけがありません。音楽で身をたてているドラマーの主人公にとってはなおさらです。

 そんな主人公に冷静を取り戻させたのは、「書くこと」でした。恋人の勧めで暮らすことになった聴覚障害者共助コミュニティーのリーダーに促されたことでした。リーダー自身も毎朝、5時に実践していました。聞こえない中で、ただ書く。それが主人公に変化をもたらします。

 

 主人公は後段、再び騒々しい世界に引き戻されます。耳の手術で脳内に受信装置が埋め込まれ、音が聞こえるようになるからです。脳内に金属を埋め込んで感受する音の、なんとやかましいこと。元の世界に戻ったというのに、主人公の苦悩は深まるばかりです。いかにして主人公は平穏を手にするか。

 ラストシーンの表情は、「聞こえないということ」の価値を余すことなく伝えてくれます。おすすめの作品です。(マツミナ)

 

 

改めて「考える」を考える

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富山地方鉄道立山線(イデちゃん)

 

 「良い先生」と「いい先生」の違いはなんでしょうか。不思議なもので「良い」先生と漢字で書くと「厳格で指導力のある教師」といった感じに見え、「いい」先生とひらがなで書くと「人間味のある魅力的な先生」といった感じになりませんか。

 前回の「いい先生のモデル…」では、そこのところを意識して書き分けたわけではありません。T君のシートに「良い先生」と書かれていたものを、そのまま転記したのですが、ミナさんの指摘の通り「良い」なのか「いい」なのか、ちゃんと考えてみる必要があるかもしれません。

 

 ところで「『いい先生』は『誰にとって』という文脈の中で語られるときに、異なる像を結ぶことになる」と指摘されています。私も以前こんなことを書いていたことを思い出しました。

 「『いい先生』って言葉は、確かに『マジックワード』ですね。中身は人によって異なります。自分にとって「いい先生」であっても、他の人はそう思っていないかもしれません。『部活命』で盆と正月しか休まなかった先生を『いい先生』という人もあれば、受験指導の達人を『いい先生』ということもあります。道を踏み外しそうになった時に助けてくれた先生は一生忘れることができない『いい先生』でしょうね。

 『良い(いい)』」の基準は人によって違います。極端な言い方をすれば『いい先生』というのは『私』にとって『いい先生』であればいいのです。ですから『私』の数と同じだけ『いい先生』像はあるのです。それを一つにまとめて『いい先生のモデル』を作って、こんな先生になれというのは野暮な話です」(「悪貨は良貨を駆逐する」2021,4,7)

 

 今年度の「考える先生」育成プロジェクトの目的は「『考える先生』を育てるプログラムのプロトタイプ(原型)を創る」ことです。「考える先生」のモデルを作ることではありません。「考える先生」とは「考えることができる先生」です。ですから「考える」ことは手段であり目的でもあるのです。

 T君はこんなことを書いています。

 

 「S校長先生との対話の中で『考える先生』って何?と問われた時すぐに応えられなかった。また、『じゃあ、考えない先生って何?』と問われた時も全く何も言えなかった。自分の中にぼんやりとしている『考える先生』が何かわからないまま『考える先生』を目指していることに気付かされた。『考える先生』はA Iの進化が加速する予測困難な時代で子供たちを導ける先生というふうに答えたが『何を持っていれば導ける?どこへ導くの?』と問われ、これも答えに詰まった。ふわふわした雲のようなものを今までずっとつかもうとしていたのだ。『考える』ということ自体を自ら考えなくてはならない」。(6月24日付T君のリフレクションシートより)

 私も「考える」ということ自体を自ら考えます。(イデちゃん)

「考える」は目的か、手段か

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西に向かって(マツミナ)

 

 「考える先生」育成プロジェクトに関するやりとりを読みながら、「そうか」と「そうか?」を繰り返しています。その中で浮かんだ二つの質問を書いておきます。

 まずは「みんな違ってみんないい」でいいのか。「いい先生」モデルを押し付けるのではなく、自分で考えていく、というのはごもっとも。ただ、「いい先生」は「誰にとって」という文脈の中で語られるときに、異なる像を結ぶことになるでしょう。それはT君のリフレクションシートにも書かれていました。

 「生徒にとっての「良い先生」と、それ以外の人にとっての「良い」先生は全く異なる姿をしているんだなと感じた」

 

 リフレクションシートを読んだとき、今年3月に行われた米中外交トップ会談での、中国の外交担当トップ、楊潔篪共産党中央政治局委員の発言を思い出しました(3月23日付読売新聞朝刊)。

 「米国には米国式の民主主義があり、中国には中国式の民主主義がある」

 台湾や香港、新疆ウイグル自治区に対する中国の対応は、「中国式の民主主義」という表現におさまるものだったのか…。強い衝撃を受けました。

 生徒にとっての「良い先生」も、千差万別でしょう。さらには保護者、校長ら管理職、教育委員会文科省、社会全体も、それぞれの文脈で「良い先生」を語るでしょう。時代背景によっても変わります。「みんな違ってみんないい」でいいのかどうか。「良い先生」と「いい先生」は同じなのかどうかさえ、判然としません。

 

 もう一つの質問は、「考える先生」育成プロジェクトの目的は何か、です。「考える」こと自体が目的なのでしょうか。それとも、「考える」ことは手段に過ぎず、「いい先生」モデルを学生自身に構築させることが目的でしょうか。後者だとすると、そこでまた「どの文脈での『いい先生』なのか」という問題は常につきまといます。

 

 イデちゃんの知人から送られてきたメールは、プロジェクトを考えていくうえでのヒントになるかもしれません。

 「今の学生に教えない、自分で考えろというのはキツくないかな」

 この文章に主語を補ってみました。ひょっとしたら「キツい」のは学生ではなく、周りの「私たち」かも。焦ったくて見ていられない、待っていられないからキツいのではないでしょうか。

 プロジェクトはまだプロトタイプ、たたき台にすぎません。面白くなってきました。(マツミナ)

「いい先生」のモデルは自分でつくる

 

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雲海に沈む夕陽 立山天狗平(イデちゃん)

 

 「後半戦に入った考える先生プロジェクトの課題」を読んだ知人から、S校長と同じような点を危惧する指摘がきました。彼はもっと直截で「今の学生に教えない、自分で考えろというのはキツくないかな。T君だって色々考えていると思うよ。放し飼いにしておかないでそれを引き出し、せめて方向付けくらいしてやってもいいのではないか」と書いていました。

 

 私が「教えないで欲しい」とお願いした理由は、このプロジェクトは「考える教師」とはどのような教師なのか自分で考え、モデルを自分自身で作ることを目指しているからです。中教審教育委員会が既に示している教師像を示して、学生をそれに近づけるために指導したり教えたりしようとは思っていません。ですから「教えないで、なぜそういう疑問をもったのか尋ねてほしい。そして、二人のやりとりを繰り返すことを通して、T君自身に考えさせていただきたい」とお願いしたのです。

 

 実際、T君のリフレクションシートからは、彼が自問自答しながら考えを深めようとする芽生えを見ることができます。1年生の校外学習の事前指導の際の先生の対応をこのように捉えています。

 「先生が話していても私語が止まらない場面があった。学校外に生徒を出すのだから静かにさせ、話を聞かせるというのは教員として当たり前のことであろう。しかし、それに対して注意した先生は一人しかいなかった。私は後ろで事前指導を見ていたが、何故、他の先生は誰も注意しないのだろうと終始疑問に思っていた。生徒たちからすれば怒らない先生は『優しい先生』と認識しているかもしれない。もし先生の方が『怒らない=優しい』と解釈しているならば、それは『優しい』ではなく『甘やかし』だろう。今回の事前指導以外にも授業中にどんなにうるさくても注意しない先生がいた。生徒たちからは『優しくて良い先生』と認識されているらしいが、傍観者の私からすればそれは全く『良い』先生ではない。然るべき場面で然るべき指導を怠れば生徒たちからは甘く見られる。先生の威厳が失われるでしょう。改めて生徒にとっての「良い」先生と、それ以外の人にとっての「良い」先生は全く異なる姿をしているんだなと感じた」(6月3日)

 

 T君は「生徒たちからすれば怒らない先生は『優しい先生』と認識しているかもしれない」が先生には威厳が必要だと考えているようです。そう考えた根拠は多分、自分の中学生の時の体験からでしょう。私たちは「先生の威厳」が「厳しい指導」だけで保たれているわけではないことを知っています。でも、それを教えようとは思いません。教えてもらってわかったつもりになっても困るからです。

 「私の考える『良い』教師像の一要素に生徒理解がある。生徒を理解するためにはどの立場から何をすればよいのか?どこまで理解してあげればよいのか?まだはっきりしていないことが多い。今後も考え続けていきたい」(6月10日)

 そうです。T君、良い先生のモデルは自分で作るのです。(イデちゃん)