idematsu-qのブログ

屋根のない学校をつくろう

スマホとラッダイト運動

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春まだ遠い白馬槍を望む。丸い玉ねぎ頭は長野五輪会場になったオーバルホール(イデちゃん)

  スマホを使っている時間が1週間平均8時間、1日14時間なんて時も。Twitter、LINE、YouTube音楽、ゲーム…、食事や入浴、睡眠時間以外はスマホですか。「主従逆転」も極まったという感じです。こりゃあ一億総白痴化間違いなし」だと空の上から嘆息している人がいることでしょう。

 

一億総白痴化 」といっても知らない人の方が多くなってしまったでしょうね。戦後十数年たち、日本にテレビが普及し始めた頃のことです。「テレビに至っては、紙芝居同様、否紙芝居以下の白痴番組が毎日ずらりと列んでいる。ラジオ、テレビという最も進歩したマスコミ機関によって『一億白痴化運動』が展開されていると言って好い」という社会評論家大宅壮一の発言が注目を集めました。(Wikipedia:「週刊東京」1957年2月2日号)「テレビばかり見ていると人間の想像力や思考力を低下させてしまう」という指摘です。その後「一億総白痴化」という表現で、退廃的な文化や生活に対する批判に使われるようになりました。

 

「テレビ」を「スマホ」に置き換えてみましょう。「スマホに至っては、・・・LINEだ、YouTubeだのがずらりと列んでいる。スマホという最も進歩した通信機器によって『一億白痴化運動』が展開されていると言って好い」と。当てはまりそうですね。

 

19世紀初頭にイギリスで起こった「ラッダイト運動」と呼ばれる社会運動がありました。社会科の教科書に「産業革命当時、機械使用の普及により、それまで手作業で織物を作っていた手工業者・労働者たちが失業を恐れ、機械を破壊した」とありました。

一億総白痴化」が危惧されるスマホの「打ちこわし運動」はなぜ起きないのでしょうか。

 

かつて、テレビで「ハレンチ学園」や「8時だよ、全員集合」等が「俗悪番組」と問題になり、PTA等が中心になって「見せない・見ない」運動が展開されたことがありました。コンピュータ・ゲームも槍玉に上がりました。「1日1時間」とか「宿題終わったら」といった「自主的なルール」を子供に作らせようと大人からの働きかけもありました。でもテレビやゲーム機を打ち壊すような社会運動は起きませんでした。スマホも同じです。せいぜい「正しいスマホの使い方」とか、「使いすぎない」などの約束が作られるのが関の山です。

 

 何年か前にある会合で「間違ったスマホの使い方」が議論になりました。「メールに悪口を書く」「長時間使う」など、日頃問題になっていることが出される中で、ある人が言いました。「スマホで釘を打つ、スプーンの代わりに使う」って。さて、間違っているのはどちらでしょう。ついでに「ラッダイト運動」が起きない理由も考えてください。

 

 ところで、官僚の書いた知識基盤社会の到来を告げる答申には「宇宙からの侵略が始まっている。スマホは地球征服の秘密兵器だ。地球人をスマホで白痴化して隷属させようとしている。AIはそのための先兵だ」と書いてなかったっけ。(イデちゃん)

スマホに奪われた力と時間

 

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孤高のサギ? 何を見ているのだろう(マツミナ)

 先日、学生が神妙な表情で相談してきました。

 「どうしたら読む力がアップしますか」

 インターンシップ先の企業で、人事担当者に「しっかり資料を読みなさい」と厳しく注意されたそうです。他大学の学生たちと一緒に「ゲームを作る」という課題に取り組んだものの、事前に渡された資料をどのチームもろくに読まなかったため、全員がお小言をいただいようです。

 私に言われても馬耳東風なのに、インターンシップ先の企業から言われると効き目があるんだなあ。苦笑しながらも、まず読む時間を確保しなさいと助言すると、学生からはおさだまりの「時間がないです」が返ってきました。その時、瞬間的に「スマホ脳」(アンデシュ・ハンセン著、新潮新書)の一文が脳裏をよぎりました。

 

 「スマホが及ぼす最大の影響はむしろ時間を奪うこと」

 

 ためしに、スマホにどのぐらいの時間を使っているか、スクリーンタイムを確認させると、「1週間平均8時間」。1日14時間の日もありました。TwitterにLINE、YouTube、音楽、ゲーム…。食事や入浴、睡眠時間以外はスマホを使っている状態です。

 内閣府の「青少年のインターネット利用環境実態調査」によると、高校生の98%がスマホでネットにつながり、平均利用時間は毎年増えていて、2020年度は267分でした。親や学校の監視下にある高校生ですら1日4時間超ですから、大学生となったらどう使うでしょうか。

 スマホには「中毒性」があるように見えます。絶えずいろいろな情報が入ってくる画面は確かに刺激的です。けれども集中して読む力はつくわけがないでしょう。「集中力こそ現代社会の貴重品」(ハンセン)は至言です。

 

 「知識基盤社会の主役は人間ではなさそうです」というイデちゃんの不吉な予感は、的を射ているかもしれません。「知識」を大量に抱え、検索すればその知識を即座に出してくれる「AI」こそが「主」。人間はその「主」ができないことを補う「主従逆転」は、官僚の書いた答申の上だけの問題では終わらない危険性が十分にあります。

 

 先ほどの学生への助言は、「スマホは1日2時間以内」。それで紙の新聞を毎日1時間読む習慣をつければ、読む力はそのうちに必ずつくでしょう、と伝えました。「音楽とゲームは除外してもらえませんか」と食い下がるので、あなたは何がしたいのか、しっかり読む力をつけたいのではないのか、と笑顔で返しました。

 知識基盤社会がどんな社会なのかはわかりません。少なくとも人間が自分の頭で考え、学び、生きる社会であってほしいと願っています。(マツミナ)

 

  

 「違和感」の正体

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Royal Roadにて。ふりかえって皇居を望む(イデちゃん)

 「生き残る大学」(2月28日)に載せた写真を覚えていますか。皇居から東京駅に続くRoyal Roadです。よく見ると左のベンチに老人が座っています。動いているのは鳩だけ。老人の時間は止まっているのでしょうか。異様に静かな風景です。

 

 時間が止まっているかのような風景に感じる違和感と、ミナさんが「知識基盤社会」という言葉に感じた違和感は、もしかすると根っこは同じかも知れないという思いがよぎりました。

2005年の中央教育審議会答申「我が国の高等教育の将来像」に書かれた「21世紀は、(略)「知識基盤社会」(knowledge-based society)の時代である」という「お告げ」で、教育界は大きく揺さぶられました。

 この聞きなれない用語を巡って様々な解説や議論がなされました。「知識には国境がなく、グローバル化が一層進む。知識は日進月歩であり、競争と技術革新が絶え間なく生まれる。知識の進展は旧来のパラダイムの転換を伴うことが多く、幅広い知識と柔軟な思考力に基づく判断が一層重要になる。そして、性別や年齢を問わず参画することが促進される」と説明され、だからこれからは「変化に対応し、主体的に生きるべし」と大号令が発せられた時に思ったのは「これからの世の中はえらいことになるんだな」ということでした。

 そもそも始まりは1996年の中教審答申で提唱された「生きる力」ですね。「いかに社会が変化しようと、自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に生きていくことができるように『生きる力』を育む」ことの重要性が指摘されました。この辺りでは、まだ「生きる」とはどういうことで、「豊かな人間性」とは何であるかといった、「人間が生きる」ということを中心に議論がなされていた気がします。

 ところが、2005年の将来像答申では「知識」とか「グローバル化」とか「技術革新」といった、人格を持たない主語に「生きる」とか「学ぶ」といった「生身の人間の行為」が従属する主従逆転したような表現に変わりました。

 

 Royal Roadの風景には人の動きがありません。知識基盤社会の主役は人間ではなさそうです。Royal Roadと知識基盤社会に共通しているのは「生きている人間」の息遣いが聞こえてこないことです。「違和感」の正体はこれかも知れません。そうだとしたら「2年後には90%の確率で壊れる400万円の商品」を売るインチキ商売の方がよっぽど人間的な営みです。(イデちゃん)

 

志望校に合格できなかったあなたへ その2

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沈丁花。香りが春を連れてくる(マツミナ)

前略 

 志望校に合格できなかったあなたに、昨日は医学部2浪の末に看護学部に進んだMさんの話をしました。今日は同じく医学部に落ちて看護学部に進んだSさんの話をしましょう。大学に入学した後も「なんで私はここにいるのか」と悩み続けていました。

 Sさんが医学部を目指した動機は「国家資格ならば一生食いっぱぐれがない」。2008年に「リーマン・ショック」と呼ばれる世界的な金融危機が起きて、日本でも企業がバタバタと倒産しました。大勢の若者が職にあぶれ、社会問題になりました。当時中学生のSさんはそれを見て、「食いっぱぐれ」がとても心配になったようです。

 看護学部は「保険」でした。浪人しても受からなかったら、自分はどう生きていったらいいのか。朝8時から夜9時まで勉強し続ける生活をしながらも不安だったからです。不安は的中し、浪人しても手は届きませんでした。

 とりあえず浪人生活は終わっても、やる気は全くありません。勉強にも、実習にも。「ベッドメーキングなんて、何の意味があるわけ?」 先生に注意されるごとに「なぜ私はここにいるのか」とふてくされていました。別の大学を受け直すことも考えていました。友だちもできず、休み時間はいつもひとりで好きなK-popの音楽を聴く日々でした。

 そんな日常を変えたのはK-popアイドルの訃報でした。

 SNSによる攻撃、うつ病、自殺……。自分は芸能界にいるべき人間ではなかったのだ、といった内容も書き残していたと知りました。「ここではないどこか」を探していたのは、自分も同じ。自分は逃げることばかり考えていたけれど、彼は懸命に戦っていたんだ、しかも独りで。「今もどこかで苦しんでいる誰かのために、自分は看護師として何かしたい」

 Sさんはこの春、大学院に進みます。精神保健を専門的に学んで、いずれは国際機関で働きたいと話しています。自分の道がいくらでも広がっていることに気づいたのです。

 

 MさんとSさんの共通点は、問い続けていたことかもしれません。「なぜ自分はここにいるのか」「何がしたいのか」 

 志望校に進めなかったのは、とても残念です。けれども、それはたくさんあるうちの一つの選択肢に過ぎないのです。あなたの前にはたくさんの道があります。何度でも選び直してください。「なぜこの道なのか」と問い続ける限り、いつでもやり直せるし、その力があなたにはあります。

 

 いつかどこかで、自分の道を颯爽と歩いているあなたとすれ違えることを楽しみにしています。

草々(マツミナ)

 

志望校に合格できなかったあなたへ

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Mさんが浪人中に広げてみた「選択肢」

前略

 どうしているだろうと心配しています。落ち込んでいるでしょうね。みんなが遊んでいる時も我慢して頑張ったのに、なんで自分だけ。結局、自分はバカだったんだ。ダメ人間の烙印を押されたみたい。もう人生は終わり――と思っているのでしょうか。

 今日はあなたに、二人の大学生を紹介させてください。MさんとSさん、ともに看護大学の4年生です。まもなく卒業する二人には共通点がありました。それは「医学部第一志望」、看護は「行きたくなかった学部」だったのです。

 

 Mさんは2浪でした。5年前の3月、予備校の仲間たちの「合格」が次々に決まっていくのに、自分だけは2浪が決定しました。今ふりかえっても、この時期が最も辛かったといいます。勉強の仕方が悪いのか、そもそも向いていないのか。私立大学の医学部は受験料も6万円以上と、かなり高額です。親にも申し訳ない。浪人生活が辛く、かといってやめることもできない日々が重たくて、「早く地球が滅びないかな」と思っていたそうです。

 その一方で、もし医学部に入れなかったらどうしたらいいのかと考え続けていたそうです。働こうか。それとも文系に転向し、MARCHクラスなんてどうだろう。みんなが知っている大学だから外聞も悪くなさそう。なんせ地元で一番の進学校に通っていたのだから…。たくさんの選択肢を紙の上に広げ、張り合わせてみました=写真=。

 それでも看護だけは排除していました。偏差値が医学部より下、現場でも医師より下という感じがする。3K職場だとも聞いているから。その時ふと、なんで看護はダメなんだろう、そもそもなんで医学部だったのだっけと考え始めていました。

 きっかけは、祖父の死だったのです。ちょうど高校の進路選択の時期でした。祖母や家族が見守る中、穏やかな表情で亡くなった祖父に別れの悲しさを感じる一方で「死は悪いものではないかも。残された人の糧になるのかもしれない」とも思ったのだそうです。生老病死を考える仕事をしたい。それがいつの間にか「医学部進学」に変化していったのだと気づきました。

 

 2浪しても医学部に手は届きませんでした。家族は3度目の挑戦を勧めてくれましたが、「味のある自分として生きていきたい」と看護学部に進みました。そこで力を入れたのは「医学部ではできない学び」でした。語学を集中的に勉強して短期留学をし、清拭やベッドメークなどを通して患者さんからも学びました。

 春からは看護師として病棟に立ちます。看護の現場に立つ者として、日本の生老病死を見つめていきたい、いずれは大学院にも進んで……新しい夢を膨らませています。

 

 今日はここまで。明日はSさんの話を書きましょう。草々。(マツミナ)

  

知識基盤社会はどこにあるのか


 

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花より団子。天ぷらにしか見えない(マツミナ)

 つい先日、帝京大学3年の学生から秋学期最終論文「職種について」の再提出を受けました。「質問力を磨く(ClassQ)」を1年次から履修している学生で、課題のたびに苦戦しています。成績評価はとうに終わっていましたが、学生自身が「その日を締め切りにします」と自ら定めてきました。

 今回の面談でも論文の音読から始めました。「誤字が3か所あった」「『このように』と書いたけれど、記述が抽象的で何が『このように』なのかわからない」と自分でツッコミを入れていました。

 

 教育再生実行会議「これからの大学教育等の在り方について(第三次提言)」ですか。第2次安倍内閣が発足した翌年だったせいか、「徹底した国際化を断行」「世界に伍して競う大学の教育環境」などと気負った文言が目につく提言でした。

 当時から違和感を抱いていたのが、提言が前提とする「知識基盤社会」という時代認識です。「21世紀は知識基盤社会」と確かに言われていたような気がします。

 今年はもう2021年。知識の陳腐化はますます加速していますが、自ら磨き上げる人を尊ぶ社会になったのでしょうか。大学名を見ずに「学び続ける人かどうか」を基準に採用する企業は増えたでしょうか。大学や大学院で学び直す社員が昇進・昇給するのは当たり前になったでしょうか。提言には「我が国の大学を絶えざる挑戦と創造の場へと再生」とも書かれていました。そんな大学を必要とする知識基盤社会になったのでしょうか。日本では「2年後には90%の確率で壊れる400万円の商品」で、誰も困らないのかもしれません。

 

 冒頭の学生の話に戻します。1時間の面談後に学生が出した結論は「また書き直します」。成績評価は終わっているよと繰り返すと大きくうなずいて「自分はわかっていないと実感するんです」と言います。「職種について」が課題に出され、初めてこの言葉を知ったそうです。「何も知らないで就職活動をするなんて、恐ろしい」。だから論文執筆を通して資料を読み、しっかり考えたいと話していました。

 真摯に学ぶ学生を大切にしてほしいと心から願っています。それが知識基盤社会への第一歩です。(マツミナ)

生き残る大学

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人影のない昼下がり。正面に東京駅(イデちゃん)

 「羊頭を掲げて狗肉を売る」とまでは言いませんが、「2年後には90%の確率で壊れる400万円の商品」をこのまま売り続けたら、賢明な消費者から愛想を尽かされる日は近いでしょう。そこで「岐路に立たされた大学の生き残りをかけた改革が始まりました」と続けるのが常道なのでしょうが、今日はへそ曲がりな方向に話を曲げてみます。

 

教育再生実行会議は2013年(平成25年)、「これからの大学教育等の在り方について」(第3次提言)という提言を公表しました。それによると、知識基盤社会における大学には「知の蓄積を基としつつ、未踏の地への挑戦により新たな知を創造し、社会を変革していく中核」としての役割を担うことを期待し、国家戦略として「日本国内において世界水準の教育を享受したり、日本人研究者が海外の優秀な研究者との国際共同研究を質量ともに充実したり」して、「世界に伍して競う大学の教育環境をつくる」ことを強調しています。そして、「大学は教育内容を充実し、学生が徹底して学ぶことのできる環境を整備」して「学生を鍛え上げ社会に送り出す」べしと。「徹底して学ばせ鍛え上げる」ことには賛成です。それは大学の本分ですから。

しかし、前後を読んでみると少々気になることもあります。「技術と経営を俯瞰できる人材の育成を図るため、(略)自然科学・人文社会科学の基礎的素養、考える力、表現力など幅広い素養、さらには芸術等の文化的素養を育成するため、教養教育を充実する」。ここだけ読めば、高等教育機関としての大学の果たすべき役割として「教養教育」を充実することは至極当然であり、大いに期待するところです。

でも、よく読むとこんなことも書かれていますよ。「社会を牽引するイノベーション創出のための教育・研究環境づくりを進める。イノベーションの創出には、高い技術力とともに発想力、経営力などの複合的な力を備え、新たな付加価値を生み出していく人材の育成が必要です」と。だんだん見えてきましたね、国が示す「求められる大学」像、言い換えれば「生き残る大学」像が。そして、教養教育を充実するのは技術と経営を俯瞰し、新たな付加価値を生み出していく人材の育成のため、要するに「役に立つ」人材の育成のためなのだということも。

 「高い金出して使い物にならない教育を受けるより、社会に出てすぐ役に立つ技術や知識を身に付けさせた方がいい」と考えるのは学費を出している親だけではないようです。「社会を牽引するイノベーション創出のための教育」ができる大学には金を出すけど、それができない大学は「生き残りに必要な金は自分で集めなさい」と言っているようにも聞こえますが、そうだとすれば「400万円で90%の確率で壊れる商品」を売り続けるしかないのでしょうか。

 

 「パソコンにカメラとマイクがついてたんだ~」状態の教員たちが始めた授業も、多くの大学では機材費用は教員負担。カメラの切り替えなど機器操作をしてくれる助手もいない。それでも「八面六臂」で頑張る大学の先生の頑張りを応援しましょう。生き残りをかけた改革に「まず挑戦すること。結果はその後についてくる」(学生)ことを信じて。(イデちゃん)

 

岐路に立つ大学教育

 

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高校生の課題を添削して得た気づきを共有する(マツミナ)

 「2年後に90%の確率で壊れる400万円の商品」の正体が大学教育――。そうなると今春は大学にとって正念場です。オンラインと対面をどうミックスさせ、学生が成長のきっかけをつかめる場にするか、どの大学も頭を悩ませているからです。 

 コロナ禍の1年、大学はオンライン授業を余儀なくされました。「パソコンにカメラとマイクがついてたんだ~」状態の教員たちが恐る恐る授業を作り始めました。大雑把にいうと、録画配信型(オンデマンド)と同時双方向型の2タイプでした。そこに加わるのが「ハイフレックス型」。対面授業を生中継し、教室外の学生も同時に参加できるシステムです。パソコンからスライド資料を見せ、そのほかにカメラも用意すれば板書も撮影できます。教室には学生たちがいるから教室の雰囲気もバッチリ。キャンパス外にいながら大学の雰囲気も味わえる、感染予防の観点からも良さそうですよね。

 問題はここからです。多くの大学では機材費用は教員負担。カメラの切り替えなどは全て教員が行います。機器操作をしてくれる助手はいません。目の前の学生だけでなくオンラインで繋がっている学生の反応も頭に入れ、機器の操作を行いつつ授業を進めます。「八面六臂」の活躍です。大学貸し出しの機器や、機器が配備された教室もありますが、いずれも数に制限があります。大学が「必要度」を見極めて配分することになるのでしょう。

 中でも問題なのは、学生同士のオンラインを通したつながりは、現状ではNGです。大学のインターネット環境は脆弱ですから、教室にいる学生全員がパソコンを開いて外の学生とつながろうとしたらパンクしてしまうからです。成長のきっかけという観点から、学生同士の切磋琢磨の機会が損なわれるのは大問題です。

 

 2月26日に行った「入学前Class Q」もまさに「ハイフレックス型」。教室とオンラインで学生と高校生がつながりました。イヤホンをしない学生がいると音声がハウリングして聞き取れなくなるハプニングが数回おきました。ハードルを超えながら、学生と高校生たちは対話を重ねていました。そう違わない年齢なのに、考え方が違うことを知るのです。例えば「質問すると○◯◯◯◯◯」に文字を当てはめてもらいました。質問すると「思想がわかる」「世界が広がる」「ワクワクする」「何かが起こる」…。正解があるわけではなく、そこにあるのは多様な発想だけです。

 400万円で90%の確率で壊れる商品をこのまま売り続けるのか。大学教育はまさに岐路に立たされていると実感しています。(マツミナ)

コスト・コスト・コスト

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青に緑、白に赤も加わって梅盛り(イデちゃん)

 大学に納入する学費の他に、入学前に予備校等に払った費用や有形無形の関連費用までコストの範囲を広げたら、卒業して大企業に入り、相当いい給料をもらわないとペイしないかもしれませんね。だから、何の役に立つかわからないような授業のために、時間をかけるのはもったいないと思うのかな。ま、本人が学費と生涯賃金の比較までして考えているとは思えませんが。

 だとすれば「大学とは食うことを心配しないでその問いを持つことができ、果ての果てまで考え、対話するところです」なんて言われたって、ピンとこないでしょう。3年生になれば就活も始めなくてはならないし、そんな呑気なことを言っていられないよという声が聞こえてきそうです。

 

 ところで「それなりに権威のある実証試験で2年後90%の確率で壊れるとされている商品がある。そして、その商品の価格は400万円もする。あなたは、その商品を購入するだろうか。」(山本秀樹「世界のエリートが今一番入りたい大学ミネルバダイヤモンド社 2018)と問われたらどう答えますか。多くの学生の答えは「そんなコスパの悪い商品は買わない」でしょうね。誰でもそう思うでしょうね。400万円出して2年で壊れるような「モノ」を買う人はいません。

 では、このコスパ最低の商品が「大学の提供する教育の中身」だとしたらどんな反応をするでしょう。学費を出している親だったら「高い金出して使い物にならない教育を受けるより、社会に出てすぐ役に立つ技術や知識を身に付けさせた方がいい」と考えるのは当然でしょうね。身につけた技術や知識が10年後には無用になっているかもしれませんが。

 

 高額な学費を払って大学で学びながら、コスパにこだわって思考停止でいることこそ、最もコスパの悪い状態です。「時間も労力もかけずにメリットを得たい」学生のコスパ感覚を非難したくなるところですが、思考停止の責任の半分は「400万円出しても買いたくなる商品」を提供してない大学(教える側)にもありはしませんか。

 この状態を打ち破る力は「魅力ある授業」です。どんな授業が魅力あるのかは学科や専攻によって違うでしょうが、少なくとも学生から「昨年の私なら答えられなかっただろう。答えられるのは自分の変化に気づいたおかげである。課題をやっていくことを通してやっと得られるものが見えてくることをこの授業で学んだ」まず挑戦すること。結果はその後についてくる」などと言うセリフを聞くことができるような授業であることは必要な条件でしょう。

 

 世の中は「やってみなければわからない」ことばかりです。不安だからコスパが幅を利かすのです。少しは世間を知っている大人の役割は「やってみなければわからないこともある。無駄と思わないで挑戦してみろ」とそそのかし、「あの人がそう言うならやってみようか」とその気にさせること、そして「やってみればわかる」と自信を持って言える「身近なモデル」になることかなと思います。失敗も成功も含めて。

 

 と偉そうに言ったものの、なんでも否定しぶち壊すことに生きがい?を感じてきた私たちの世代の一番苦手な役割なのです。もっと若い世代にお願いするしかないと言うのは無責任ですね。(反省のイデちゃん)

学生のコスパ感覚は思考停止

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雨ニモマケズ、花粉ニモマケズ。甘味ガ私ヲ呼ンデイル(マツミナ)

 今日の花粉はいつにも増してエネルギッシュです。口だけではなく、目にもマスクをして歩ければいいなあと本気で考えるほどです。エネルギーがあるのはいいことではありますが、頑張れ花粉、とは応援できません。

 

 「課題をやると、どんなメリットがありますか」

 高校生からの質問に、学生はどう答えたか。

 「やってみなければわからない」

 いやあ、しびれました。まず挑戦すること。結果はその後についてくる。こんなことが言えるようになっていたのです。この学生は授業後のリフレクションシートでさらに詳しく書いていました。「昨年の私なら答えられなかっただろう。答えられるのは自分の変化に気づいたおかげである。課題をやっていくことを通してやっと得られるものが見えてくることをこの授業で学んだ」

 

 メリットを得たい、しかも時間も労力もかけずに――学生のコスパ感覚は思考停止そのものです。ここは「学問の府」。私立大学の学費は高額です。わざわざそこに在籍しながら思考を止めたままでいる愚かさに気づいてほしいものです。

 コスパ感覚が悪いわけではありません。本気のコスパ計算には相当な思考力が必要になるはずです。誰が何に対してどんなコストを負担しているか。パフォーマンスをどう数値化するか。

 まずは課題に取り組む学生自身の時間と労力ですね。学生が大学に在籍するには学費が必要です。大体は親が負担しています。私立大学には「私学助成金」として私たち国民が納めた税金も入っています。学生が大学に在籍して授業を履修するために、たくさんの人がさまざまな形で支えています。コストの範囲を学費以外にも広げたらどうなるでしょうか。例えば、大学入学前に予備校に通っていたら、その費用も計上する必要があります。視野を広げると、頭から爆弾が落ちてくる危険もなく、のんきに「ラクタン」を探していられるのは、日本だからです。となるとそのために誰がいくら負担しているのかも考えなくてはいけません。際限がないので、次はパフォーマンスを考えます。こちらにしてもごく限定的に。

 Class Qではポスターやチラシを作らせています。多様な表現方法を一つでも多く学んでほしいからです。当然、学生からは「美大でもないのに、なんで?」と不審がられます。ある日、学生からこんな報告がありました。インターンシップ先の企業から「チラシを作る」課題が出されたとか。他大学の学生はアイデアすら出せなかったそうです。「何でもやってみることが大事ですね」と学生は話していました。やってみなければわからない。至言です。(マツミナ)

 

 

 

 

コスパの悪い話

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空の青、松の緑と梅の白(イデちゃん)

 コスパですか。実学優先もここまできましたか。それでは気が遠くなるほどコスパの悪い話をしましょう。

 「小学校の頃(昭和30年頃)、国語で『アルプスの少女』の学習をした時のことです。どうしてもわからないことがありました。それはハイジのおじいさんたちが作っていた『チーズ」です。今でこそポピュラーな食べ物となり、簡単に手に入りますが、当時、地方ではそれほど一般化していなくて、クラスの子供たちも誰一人として食べたことがありませんでした。先生は苦心してあれこれと説明してくださるのですが、なかなか理解できません。『バターのように牛乳から作るのだけれど、バターとは違う…』結局、よくわからないまま、一人一人が勝手に想像するほかありませんでした。

 半年ほどして、先生が東京に旅行したおりに『チーズ』を買って帰り、私たち全員に少しずつ切って食べさせてくれました。初めて口にするチーズは臭いが強く、酸っぱいような味がして、お世辞にもおいしいと言えるものではありませんでした。しかし、その一片のチーズが、理解できないままに残されていたイメージを具体化し、『アルプスの少女』をいっそう身近に感じさせてくれたことは言うまでもありません。学習後、時間を経過してから追体験することによって、学習時にさかのぼり改めて全体を理解することは珍しいことではありません。ですから授業でも実物や体験にあまりこだわらず、『いつか』見聞できることを想定して組み立てることが大切だと思います。」(「子供が生き生きと活動する授業」日本標準社1983年)

 

 これは私が書いたものです。これには続編があって、ここに登場する小学校の時の担任の先生が、退職後に出版した著書の中で当時のことをこのように記しています。当時のクラスが30数年後に集まった同級会での話です。

 

 「丘の村では、まだ、チーズは高価なもので子供たちには縁遠い食品であった。職員旅行で上京した折に求めてきたチーズを均等に45等分する私の手許に、子供たちの眼は一斉に鋭く集中した。

 『先生。石鹸食うかい』と箱から出されたチーズを訝しげに見入るじっと一人の子供の眼。小さく、そして等しく切っていく慎重な手の運びをじっと見つめる子供達の眼。

私にとっても、この教室の映像は鮮明で消えていない。

 『変な味だったなあ』『今だから言うが、私はほき(吐き)だした』『小指の先くらいの一切れだったかな』『割り箸の先くらいの細さだったよ』『口に入れたらすぐなくなってしまった』

 40歳近い今も、その味わいを懐かしむ教え子たちだった。」(安西道子「子供が見えてくる」信濃教育会出版部1987年)

 

 改めて読み返してみると、その当時私たちは「わかったつもり」にはなったけれど、味も匂いも実感として腑に落ちたのは大人になってからだったのですね。

 京都大学の宮野公樹さんがこのように言ってます。「大学とは、何よりも『学問』をする場所です。(中略)学問とは食うこと、つまり生きることとは何かを考えることであり、大学とは食うことを心配しないでその問いを持つことができ、果ての果てまで考え、対話するところです」(東京新聞 2021年1月11日)。コスパの対極にある姿ですね。でも、この感覚は今の若者にはわからないかもしれません。生まれた時から「コスパコスパ」の社会で生きてきたのですから。

 で、学生は何と答えたのですか。(イデちゃん)

「コスパの悪い授業」

 

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桜餅がたわわに実ってたら、いいなあ(マツミナ)

 学びの場の空気を変えるのは、学ぶ人自身の内発的なもの。エネルギーと呼んでもいいかもしれませんね。それがまっすぐ発散されれば、先生や学校、国が「そのうちできるようになるよ」で空手形を乱発しても、怖いものなしのはずです。

 ところがそうはいかないのですよ、悔しいことに。邪魔してくるのは、これも学ぶ人に内在する「コスパ感覚」です。かけた時間や労力、負担に見合う結果を得られるかどうか。それを実際にやる前から見極めようとしてくるのです。「入学準備教育」として始まった「Class Q」でも、高校生の口から出てきました。

 「課題をやると、どんなメリットがありますか」

 時間をかけたのだから、メリットは当然あるんですよねという思いが言外ににじんでいます。そういう質問が出ても、全く驚きもしませんでしたよ。全然珍しいことではないですから。

 「Class Q」では毎学期、履修辞退者が出ます。「この授業はコスパが悪い」と言われているそうです。週1回の一般教養科目で、2単位(帝京では週に2回あるから4単位)。4年間で124単位以上をとって卒業しなくてはいけない学生にとって、2単位ごときで新聞を読まされ、授業外に「社説の書き写し」だの「コンセプトマップ」なんて課題をさせるのは「コスパが悪い」以外の何者でもないというわけです。

 

 コストパフォーマンスという言葉を初めて新聞で見たのは1989年、平成元年のことでした。売上高を基準にしたランキングを紹介した記事でした。

 「89ヒット商品ランキング 使いやすさに軍配 1位はインテグラ」(1989年12月22日付読売新聞)。

 左右開きの冷蔵庫なども10位以内にランキングされていました。三菱総研がその結果をこう分析していました。「際立った高級志向が影をひそめ、コストパフォーマンスを考える落ち着きのある消費文化が育っている」。略語ではないことが、まだ一般的な用語ではないことを示しているようです。

 株価暴落の前夜、不況が慢性化する時代でしたから、価格と価値が釣り合っているのは当たり前、安くて見栄えが良く、使い勝手がよかったらもっといい、ということなのでしょうね。読売新聞のデータベースを見ていると、昭和時代には一つもヒットしなかった「コストパフォーマンス」がこの後、急増していきます。今の学生たちが生まれたのは、その後。きっと家庭の食卓でも違和感のない単語の一つとして使われるようになっていたのでしょうね。

 

 高校生の質問に対し、学生はなんと答えたか。続きはまた次回。(マツミナ)

 

 

 

 

 

 

 

 

やったつもり、わかったつもり。それでいい!?

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40歳の君子蘭が今年も咲いた。すごい生命力だ(イデちゃん)

 「学びの衰退」は表現したり、主張したり、議論したりする力の低下として現れます。樺沢紫苑氏の「人生を変えるのは、アウトプットだけ」という指摘に一層の重みを感じます。学びの場の空気を変えるのは、学ぶ人自身の「わかりたい、できるようになりたい、もっと上手になりたい、人に伝えたい」といった「内発的なエネルギー」です。ミナ先生にそそのかされて必死に「自分の考え」を出そうとしている学生に期待し、エールを送ります。今川義元の陰謀に負けてはなりません。

 

  「やったつもり」「わかったつもり」「できたつもり」で終わらせる。そのうちできるようになるという手形には決済日が書いてないと書いたら早速、反応がありました。「だから、分数できないまま、大学に来るんだね」「ちゃんと小学校でできるようにしてくれないと困るよ」困るのは誰でしょう。分数の計算ができないのに大学に入学しちゃった学生ですか。それとも、できるかできないか確かめないで入学させた大学ですか。

 大学の先生が書いた「分数ができない大学生」という本が出版され、国を挙げて大騒ぎになりました。「ゆとり教育」など止めて、もっと勉強させろと学習内容を増やし、教科書も厚くなりました。やることが増えた学校は「早く正解にたどり着くよりも、補助線を引く面白さを学ばせる」時間がなくなるほど忙しくなり「やったつもり」「わかったつもり」「できたつもり」で終わらせて、「そのうちできるようになるよ」という空手形でも発行しなければ、間に合わなくなったのです。

 

 私たちが深刻に受け止めなければならない「学びの衰退」です。そこそこベンキョウはできるけど、「自分で課題を見つけて、自分で考える」力を持ってない学生が多くなったのです。「自分の意見を言わない」「人と違ったことはしない」学生の増加です。分数のできない学生の問題を小中高校の学習量にすり替えて「もっと勉強させろ」と取り組んだ「教育改革」が「学びの衰退」の一因になっているとしたら、とんだ「喜劇」ですね。悲劇か?

 

  ところで、全国学力・学習状況調査の教科になぜ社会科と理科が入ってないのでしょうか。大学に行って「社会科ができなくて困った」という話を聞いたことがありますか。「理科教育振興法」という法律をご存知ですか。「科学立国」の中身に「人文科学」は入っていますか。いろいろな法律や教育施策が整備される中で「社会科教育振興」のための施策はありません。議論にすらなりません。何故だろう、不思議ですね。

  小学校社会科は、地域社会や我が国における人々の社会生活を広い視野からとらえ、総合的に理解することを通して、公民的資質の基礎を養うことを究極的なねらいとしている教科です。こんなに重要な教科なのに社会科の学力が低下したと問題になったことはありません。「小学校ん時にできなくたって、大人になればできるようになることだってあらあな」とみんなが思っているからでしょ。それより、科学立国のためには分数の方が大事なのです、なんてね。

  「それを言っちゃ~おしめえよ」って叱られそうだな。(イデちゃん)

有毒ガスを吹き飛ばす「添削」

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学生からの差し入れ。「疲れた時にはコレですよね」。お気遣いありがとう(マツミナ)


  
大学の退学率は「炭鉱のカナリア」として、「学びの衰退」という有毒ガスの存在を知らせてくれているのではないか。だとすると、空気の入れ替えには何が必要か――ここ数日のやり取りはそこから始まったのでしたね。

 

 「同じ年齢の子は同じ時期に同じことを学ぶ年齢主義が壊れ、国の教育制度が揺らぎます。だから乗っていてくれないと困るのです」――。横丁のご隠居さんは、履修制を修得制に変えるのは無意味だし、そもそも誰も望んでいないとおっしゃるわけですね。

 確かにご指摘の通り、跳び箱を跳べなくても困らないですね。そのほかにも、大人になったら何の役に立つのという内容が、学校にはいっぱいあります。大事なのは、年齢主義、制度の維持だとすると、学びの衰退は仕方がないことかもしれません。しかも、教える側も学ぶ側も、学校制度を維持するおとなも、みんなグルになっての「共同正犯」です。

 欧米の列強に追いつくため、明治政府は今の学校制度を作り、教室にぎゅうぎゅう子どもを詰め込んで、お国の役に立つ人材の大量生産に励みました。それでうまくいった時もあったけれど、今はそういかない。だから「教育改革」が訴えられているわけでしょうね。実は誰もそんなことを望んでいないかもしれないけれど。

 

 でも昨日、私はだいぶ違う空気を感じましたよ。入学前Class Qの2回目で、帝京大学に入学する予定の高校生78人と帝京・上智の学生12人が参加しました。授業内でのやりとりもさることながら、特筆すべきは授業の3時間前に始まった、学生による高校生の課題添削でした。

 添削を通して、学生は何に気づくか。結論から言うと、「自分は学ばなくてはいけない」ことでした。例えば、ある学生が課題を前に頭を抱えていました。「字が汚くて、読めないんです」。あなたのいつもの字の方が…とは言わず、丁寧に書きなさいと教えてあげて、と返しました。学生はにっこりして伝えた通りのコメントを書いていました。

 別の学生は「この子は文章を書いてこなかったんだな」。どうしたらいいかアドバイスしなさいよ、と伝えます。「まず、段落をつけることから考えよう」と書いたうえ、学生は改行する箇所にマークをつけていました。あなたはいつもA4サイズのリフレクションシートを1段落で書いているよね。

 その他にも学生たちは課題からたくさんの発見をし、終わってから異口同音にこうまとめました。「読み手の気持ちがわかった」。つまり、自分はもっと学ばなくてはいけない、ということです。

 学生たちは集合時間からして、いつもとは違っていました。正午集合にもかかわらず10時半には集まり始めていました。オンライン授業ですら、寝ぼけた顔でギリギリに飛び込んでくる姿とは全く違います。学びの場の空気を変えるのは、制度ではなく、学ぶ人自身の内発的な何かかもしれません。(マツミナ)

屋根のない学校の出番

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寒気再来で、見事な霜柱(イデちゃん)

 

 自動車学校は「運転の仕方」を教え、実際に「運転できる」ようにする所です。「そのうちにできるようにならあ」などと、呑気なことは言ってはいられません。できるようになるまで教えなくてはなりません。

小学校では跳び箱の跳び方は教えますが、仮に跳べなくても「小学校ん時にできなくたって、大人になればできるようになることだってあらあな」と言っていられます。跳び箱跳べなくても死にゃしません。道端に跳び箱が置いてあったら避けて通ればいいのですから。

「子どもに跳び箱を跳ぶ意味をきちんと説明し、理解させる」ことは簡単ではありません。学習指導要領には書いてありますが、跳べない子や跳びたくない子には「強制」に聞こえるだけです。履修制のよさは「やったつもり」「わかったつもり」「できたつもり」で終わらせることができることです。「そのうちできるようになるよ」という手形には決済日が書いてありません。教える先生もできない子やわからない子もそれで救われます。

「そんな無責任な」と目くじらを立てる筋もあるでしょうね。でもそういう人にも身に覚えがあるはずです。跳び箱飛べなくて大人になって何か不自由しましたか。算数だって国語だって同じです。「因数分解なんてなんの役に立つんだよ」ってほざいたことありませんか。小学校の時にできなくたって、大人になればできるようになることはたくさんあるし、できなくても困らないことも沢山あるでしょ。

高校受験や大学受験はどうするかって。小学校の時にちゃんと教えてくれなかったから、受験で苦労するなんていうのはいいわけですよ。必要になったら勉強すればいいでしょ。思い立ったら吉日です。同学年の人より遅くなってもいいじゃないですか。

ミナさんは「平行四辺形の面積の計算では、早く正解にたどり着くよりも、補助線を引く面白さを学ばせてほしい」のに「時間がきたからハイ次」では、それができないではないかと疑問を呈し、「義務教育ですべきことは勉強の仕方を学ばせることだとしたら、履修制では限界がある」と言いますが、修得制にすれば解決するというわけでもありません

平行四辺形の面積は「底辺×高さ」の式で求められます。式を教えて、例題が解ければ「平行四辺形の面積の求め方」を修得したといえます。「補助線を引く面白さや考える楽しみ」は無用です。できるようになればいいからです。あれこれ試行錯誤し、汎用性の高い求め方(公式)に近づいていく学びができるように授業を組み立てることは履修制でも可能です。

日本の公立小・中学校は年齢主義を取っており、年齢によって所属する学年が決められています。「学びの場が工場のベルトコンベアーにしか見えない」のは履修制のせいではなく年齢主義によるものです。6歳になるとみんな同じ列車に乗ります。途中で降りたら次に乗るときは一年遅れの列車に乗るしかありません。それでは同じ年齢の子は同じ時期に同じことを学ぶ年齢主義が壊れ、国の教育制度が揺らぎます。だから乗っていてくれないと困るのです。

 

でも、履修制も年齢主義も終わりを迎える時が近づいています。高速通信網の整備と遠隔教育の推進、ICTを活用した多様な学習や専門性の高い授業の実現により、「誰でも」「いつでも」「どこでも」学べるようになったら、いつでも学びたい時に、学校でなくても学べちゃいます。同じ年齢の子どもが、同じ教室に集められて、「その年齢ですべき」同じ内容の学習をするのではなく、「何歳でも、今学びたいこと」を学ぶことが可能になるでしょう。

「屋根のない学校」の出番です。(イデちゃん)