idematsu-qのブログ

屋根のない学校をつくろう

考える先生を育てなくては

f:id:Question-lab:20210517204104j:plain

くさむらのポピー。どこからタネが飛んできたのかな(イデちゃん)


 日曜日の午後、久しぶりに音楽を聴きに行きました。緊急事態宣言下でのコンサートですから、入り口での検温、消毒は徹底していて、2,000人余は入れるホールも半分以下の人数に抑えられていました。私の席は3階のピロティ側で人もまばらでしたから、ここならウィルスも近づかないだろうと勝手に安心して、ゆっくり聴くことができました。

 曲目の二つ目はバルトークのピアノ協奏曲第1番でした。生で聴くのは初めてです。登場したピアニストを見て驚きました。黒のシャツに同色の細いネクタイ、スーツも黒でタイトな仕立てがとてもよく似合う若者です。「どこかで見た顔だなあ」と想いに耽っているうちに曲が始まりました。オーケストラの大音響を相手に、体全体を使って低音を鳴り響かせる若者の指の力強さに、初っ端から圧倒されました。

 

 鍵盤から顔を上げた彼の目線の先に私の席はありました。目と目が合った(ような気がした)瞬間、気になっていた人物の名前が脳味噌の中で炸裂しました。「流川(るかわ)だ!」冷静で生意気そうなあの目、無造作な髪型。目の下にいる若者は名作『スラムダンク』(井上雄彦)に登場する「流川 楓」だったのです。それからはもう、バルトークには申し訳ないけれど、ピアノと格闘する彼の姿に見惚れて「音楽」のことは忘れていました。

 演奏が終わった後、力一杯拍手を送りました。バスケットの試合を見終わった後のような興奮を感じながら。いい歳をして何をしに行ったのやら。何を隠そう私は流川君の大ファンなのです。

 

 さて、文科省は「公立中学校の少人数学級化」について、教育再生実行会議からお墨付きをいただいたようですね。あとは財務省のお許しを待つばかりとなりました。近年、多くの自治体に義務教育学校が設置され、ここでは小中連続して9年間、同じ学校にいるわけですから、小学部で35人学級にしておいて、中学部では40人というわけにはいかないでしょう。35人でスタートした今年の小学1年生が中学生になる時に中学も35人学級にしなかったら保護者も納得しないでしょう。

 だから「楽勝じゃん」と言いたいところですが、ミナさんが指摘するように「少人数学級の中学校でどんな教育を実現するのか」という点について具体的な研究と実践を進めなくてはなりません。「少人数学級による指導効果のエビデンスを示せ」という財務省の指摘に応えることができなければ、実施が先延ばしになる可能性もあるかもしれませんから。

 というのも、T君が先日の学校参観の感想の中で触れていた「この授業だったら少人数でなくてもいいのでは」という指摘は財務省の言っていることと同じものだからです。機械的に集団のサイズを小さくしただけで、学習内容や生徒の習熟度に適応した集団構成や指導方法でなかったら学習効果は上がりません。財務省の思う壺です。役人が見たら「ほらね」っていうかも知れませんね。

 ところで、少人数学級になれば「論理的な文章を書くための基礎力を育てる」ことができるかというと「?」が点ります。少人数で手取り足取りして「論理的な文章の書き方」のレトリックを教えることはできるでしょうが、「考える」という基本的な学習習慣が身に付いていなかったら中身のある文章は書けないでしょう。

 大学の先生が「小学生低学年レベル」とか「日本語になっていない」と表現の稚拙さを指摘したくなる気持ちもわかりますが、ここは具体的に問題点を指摘し、学生との「やりとり」を繰り返して論理を整えさせ、思考を鍛えていくしかないのではありませんか。(流川命のイデちゃん)

 理不尽に対してNo!と言う力

f:id:Question-lab:20210516163125j:plain

もう水羊羹の季節かあ(マツミナ)

 政府の教育再生実行会議が、公立中学校の少人数学級化を求める提言を固めているようです。読売新聞朝刊1面に掲載されていました(5月16日付)。すでに公立小学校では学級人数の上限を40人から35人へと段階的に減らしています。少人数学級の中学校でどんな教育を実現するのかはこれからの議論でしょう。ぜひお願いしたいのは、論理的な文章を書くための基礎力を育てていただきたいのです。

 もちろん、大学でも論理的な文章を書くための講座は開いています。けれども、18歳からではなく、もっと早い時点、理想的には小学校入学時から徐々にトレーニングをしてもらえれば、と願わずにはいられません。その機会に恵まれなかった学生たちが痛い思いをしているからです。

 学生たちから相談を受けてるのです。リポートや論文を出しても、学期末にアルファベットで評価されるだけ。何が評価されたのか、あるいは単位を取れなくても何が問題なのか、学生はわかっていません。

 

 先日、学生からこんな声が寄せられました。

 「リポートを出したら『小学生低学年レベル』とか『日本語になっていない』と返ってきた」。コメントをもらえるだけマシと考えるべきなのでしょうか。それにしてもひどいコメントです。「小学生低学年レベル」は何を意味しているのかさっぱりわかりません。抽象的な罵倒でしかないので、改善のヒントにすらなりません。

 学生は、リポートを出すのが怖いと感じながらも、「どうしたら上手く書けるのか」悩んでいます。ああ、もうじれったい。歯ぎしりしたくなります。もしこの学生に質問で切り込める力があったら、と。

 「先生、ご指摘の『小学生低学年レベル』とは、小学生のどの能力のことをおっしゃっているのでしょうか」

 「小学生といっても、多様です。いつの時代の、どこの地域の、どんな小学生のことでしょうか」

 「具体的には、どこをどう改善しろとご注意くださっているのでしょうか」…。

 

 「質問力を磨く(Class Q)」の学生たちには、常々「理不尽に対してNo!と言う力」を求めています。権力者であろうが、目上の相手であろうが、言うべきことは言う。タイミングを図り、その場にふさわしい表現力で、場合によっては仲間も集めて。その際には質問を使いなさい、とも。

 もし学生がそんなふうに質問できたら、先生もコメントの問題点に気づいたでしょう。こうして学生の小さな声が教員を動かしていったら、大学の空気も変わり、新しい学びの場になると期待しています。 

 というわけで、中学校の少人数学級では、論理的な文章を書く基礎力育成に取り組んでいただきたいと強く願っております。(マツミナ)

目のつけどころ

 

f:id:Question-lab:20210515162824j:plain

鳩の巣の下の花畑。見とれていて、鳩を驚かしてしまった(イデちゃん)

 散歩の途中で山法師の木の枝に、鳩の巣を見つけました。まだ雛は小さいようで姿は見えません。私の気配を察知したらしく、親鳥がさーっと巣を離れ、木の上の方から警戒していました。驚かしてごめんなさいね。

 そういえば、近所のお宅の雨戸の戸袋の隙間から、小さな鳥が頻繁に出入りしているのを見ました。中で巣作りが進んでいることでしょう。そのうちに雛が顔を出すかもしれません。人間たちはコロナ禍の中で縮こまっているけれど、自然界は豊かに生きているようです。

 

 

 「考える先生」に向けて修業中の学生、T君は面白いところに目をつけたようです。

 5月も半ばを迎え、学校は新学期の慌ただしさが収まり、日常のリズムに戻りました。でも「小学生が着ているような服の1年生」は「授業準備が遅れがち」で、彼の目には1年生が幼く見えたことでしょう。それに対して「2年生は流行を取り入れている子が多く」「授業準備も素早い」と感じたようですが、先生たちの目にはどのように映っているのでしょうか。同じ光景を見ても、見る人の立場や経験、見る位置によって見え方が違います。どんなふうに見えているのか聞いてみるといいでしょう。

 もしかしたら「毎年、4月、5月頃の1年生はこんなものだ」と慣れた目で見ているかもしれません。それとも「今年の1年生はちょっと幼稚だな」なんて思っているかもしれませんよ。

 2学期、3学期にかけてどのように変わっていくか、成長・変化の過程をしっかり看取ってください。大学で学ぶ「児童心理」や「青年心理」の臨床版です。

 

 もう一つの「若手の先生の方が授業の工夫がなされていた。授業評価アンケートでも、若手の先生の方が評価は高かった。『3年目まで』と区切るべきではなく、授業評価の低い先生を指導すべきではないか」という疑問はなかなか手厳しい指摘です。

 「新任=未熟」といった見方は確かに観念的な部分があり、必ずしも新任教員の全てに当てはまるわけではありません。指摘の通り、長いこと現職であっても指導力に「?」がつく教員もいます。そういう場合はどうしたらいいのでしょうか。実はそういう場合はどうするかという仕組みは既にあるのですが、教えてあげません。あなただったらどうしますか。

 

 まだ、3回しか訪問していないのに、いろいろなことに目が向き始めました。疑問や驚きを大切にして、どんどん視野を広げてほしいと願っています。教育実習では得られない学びがたくさんあるはずです。(イデちゃん)

 

Critical thinking

f:id:Question-lab:20210514184213j:plain

排水口を描く美大生。「見えないものを描きたかった」。すてき(マツミナ)

 「質問力を磨く(ClassQ)」の科目名は、英語版シラバスだと「Critical thinking」と表記されています。日本語の新聞を教材に日本語で進めている授業なので、わざわざ口にすることはありません。ただ時折、その意味をかみしめています。

 一般的に「批判的思考」と訳されているこの言葉を、学生たちには「全てを疑う」「思考を止めない」と説明しています。「批判」と聞くと、学生たちは身構えてしまうからです。「アラ探し」「戦闘モード」に変換してしまう学生もいます。そこでこう付け加えています。頭の中で「?」を出し続け、目の前の新聞も、私の話も含め、全てを疑いなさい、と。その過程で、きっと「ないものが見えてくるはずだ」とも伝えています。

 これは新聞記者として駆け出しの頃、たたきこまれた思考です。「社会の問題点を探せ」「制度の隠れた欠陥を見つけろ」「声なき声を拾え」……。それが新聞記者の使命だ、とずいぶん言われました。もちろん「Critical thinking」なんてしゃれた言葉は使われていませんでした。

 

 今日もZoomでClass Qを開きました。教材には、エア・ドゥとソラシドエアが経営統合を検討していると報じている記事を使いました。1面と経済面とで大々的に展開されています。

 記事を読んだ学生たちに尋ねました。「この記事にないものは何か」と。一人の学生が答えました。「社員の視点です」。記事には、コロナ禍で両社とも経営が悪化していることや計画の概要、業界に与える影響は書かれていました。けれども社員として最も気になる、待遇や働き方がどう変わるのかが書かれていないと気づいたのです。Class Qで学んで4年目になる学生です。

 

 「考える先生」を目指す学生も、毎週通う中学校で「ないもの」をあぶり出そうとしています。昨日提出してきたリフレクションシートでは「生徒の成長」に着目していました。授業前にどのように準備しているか、私語、服装、授業中の様子、休み時間の過ごし方の五つの観点から、1年生と2年生を比較し、表まで作っていました。例えば授業準備だと、1年生は「遅れがち」、2年生は「素早い」。服装については「小学生が来ているような服の1年生」に対して「2年生は流行を取り入れている子が多かった」と描写していました。1年から2年への成長の過程で、何がこうした変化をもたらすのか、必死に考えているようでした。

 目は生徒だけでなく、先生に対しても向けられていました。たまたま学校訪問に来ていた自治体の指導教諭から「(教員になってから)3年目の先生まで指導する」と聞かされたそうです。学生はこの制度の問題点がこう見えたようです。

 「若手の先生の方が授業の工夫がなされていた。授業評価アンケートでも、若手の先生の方が評価は高かった。『3年目まで』と区切るべきではなく、授業評価の低い先生を指導すべきではないか」。制度に慣れている方々には見えないものが見え始めてきたのだとしたら。ますます面白くなりそうです。(マツミナ)

 

 

 

大切にしなくてはならないことは

 まずはお詫びから。

 前回、「この本売れるのかな、誰が読むのだろうと他人事ながら心配になります」と書いたところ、早速、お叱りをいただきました。

 「書き残しておかなければならないことがあるから本にするのだ。仮に売れなくても一度書店に流通すれば、一冊は国会図書館に保存されるから、著者の思いは残されることになる。売れるか売れないかは問題ではない」と。

 大変失礼いたしました。著者の志を軽蔑したわけではありませんが、思慮の浅い表現をしましたことをお詫びいたします。

もう一つ指摘をいただきました。

 「大方が自慢と説教とうんちく話の連続だから2冊目は遠慮したくなるというけれど、書店に並ぶ大量の新刊だって似たようなのが多い。毎度、毎度同じような中身を、手を替え品を替えして書いているものがある。事実と俗説の区別がされていないものや、インターネットから引っ張ってきた怪しい話をそのまま使っているような本もある。それが結構売れているというのだからタチが悪い。それに比べれば自費で自慢話を本にするなんてかわいいものだ」と。

 お説、ごもっともでございます。スッキリいたしました。2冊目もいただきます。

 

 緊急事態宣言下、後期高齢者の私にも、ようやくワクチン接種の機会が回ってきそうです。とは言うものの、実際に接種を受けるまでには、まだまだ紆余曲折がありそうです。世間では予約電話が殺到して回線がパンクしたとか、インターネットの受付が30分で満杯になり、コンピュータやスマホを使えない年寄りの扱いが不公平だとか、はたまた、どこかの市では「上級国民」と言われる人が優先的に接種を受けたとか、忖度だの便宜だのという、いつか聞いたことのあるセリフが飛び交ったりして、大騒ぎになっています。今日は、医師会のエライ人がパーティに出ていたとか、日頃言っていること違うとか、テレビが賑わっていました。本当に私にも順番が回ってくるのでしょうか。心配になってきました。

 

 「学生を一人も置いてきぼりにしない」ために「学生だけでなく、社会も納得する授業スタイル」を模索して頑張っている人たちがいる一方で、「早いもの順」や「力のあるもの順」でワクチン接種の順番が決まるような社会ではいけません。正義も不正も書き残しておきましょう。(イデちゃん)

大切にしなくてはならないことは

 まずはお詫びから。

 前回、「この本売れるのかな、誰が読むのだろうと他人事ながら心配になります」と書いたところ、早速、お叱りをいただきました。

 「書き残しておかなければならないことがあるから本にするのだ。仮に売れなくても一度書店に流通すれば、一冊は国会図書館に保存されるから、著者の思いは残されることになる。売れるか売れないかは問題ではない」と。

 大変失礼いたしました。著者の志を軽蔑したわけではありませんが、思慮の浅い表現をしましたことをお詫びいたします。

もう一つ指摘をいただきました。

 「大方が自慢と説教とうんちく話の連続だから2冊目は遠慮したくなるというけれど、書店に並ぶ大量の新刊だって似たようなのが多い。毎度、毎度同じような中身を、手を替え品を替えして書いているものがある。事実と俗説の区別がされていないものや、インターネットから引っ張ってきた怪しい話をそのまま使っているような本もある。それが結構売れているというのだからタチが悪い。それに比べれば自費で自慢話を本にするなんてかわいいものだ」と。

 お説、ごもっともでございます。スッキリいたしました。2冊目もいただきます。

 

 緊急事態宣言下、後期高齢者の私にも、ようやくワクチン接種の機会が回ってきそうです。とは言うものの、実際に接種を受けるまでには、まだまだ紆余曲折がありそうです。世間では予約電話が殺到して回線がパンクしたとか、インターネットの受付が30分で満杯になり、コンピュータやスマホを使えない年寄りの扱いが不公平だとか、はたまた、どこかの市では「上級国民」と言われる人が優先的に接種を受けたとか、忖度だの便宜だのという、いつか聞いたことのあるセリフが飛び交ったりして、大騒ぎになっています。今日は、医師会のエライ人がパーティに出ていたとか、日頃言っていること違うとか、テレビが賑わっていました。本当に私にも順番が回ってくるのでしょうか。心配になってきました。

 

 「学生を一人も置いてきぼりにしない」ために「学生だけでなく、社会も納得する授業スタイル」を模索して頑張っている人たちがいる一方で、「早いもの順」や「力のあるもの順」でワクチン接種の順番が決まるような社会ではいけません。正義も不正も書き残しておきましょう。(イデちゃん)

優先順位

 

f:id:Question-lab:20210512203257j:plain

初夏の風。スイレンの向こうでアオサギが瞑想している(マツミナ)


   緊急事態宣言下で、録画配信型授業も併用しています。Zoomでも壁を感じている学生はどう学んだらいいか、困っているようです。

 

 「どうしたら内容の濃いリフレクションシートを書けるか、教えてください。こういう時ですが、私は実際に会って話したいです。マスクを二重、三重にして、その上からフェイスガードをしたらどうでしょうか」。具体的な感染防止策まで書くところに、強い思いを感じます。

 「動画授業を深く理解するにはどうしたらいいですか。見終わった後に達成感が生じているだけに厄介です。改めて、早く対面の授業をしてください」。見終わった後の自分の内面まで分析しているのだから、録画配信型授業も意味がなくはない。でも不満や不安はわかります。

 「動画ではなくて、みんなと一緒に授業に参加したかった。やりとりから学びが始まると何度も聞いていたけれど、本当にそうだと思った」

 「オンデマンド授業でもいつものように真剣に受ける。今日はそういう目標を立てて受けました。でも想像以上にやる気がわくことはありませんでした。Zoomだとミナ先生の無理難題のような時間内に話し合ってまとめあげなければいけないプレッシャーがあるので必死ですが、それがないと気が緩んでしまいます。対面の方が自分の力になるので、強く希望します」

 

 一方で、録画配信型の授業でも、自分の課題をしっかり設定している学生もいます。

 「質問を出す際に、他の人を待たず、自分の質問を並べていくことができる。ただ、一人だけでワークに取り組むと、無駄な時間は節約できるが、視野は狭まる。それぞれに長所短所がある。当たり前だと思っていることを一歩下がってみると、多くの気づきを得ることができる」

 

 録画配信型を使うのは、Zoomに対応できない環境にいる学生に配慮するためだと大学側から聞いています。学生を一人も置いてきぼりにしないという方針です。その一方で、今後の学習に不安を抱く学生が出てくることも予想していました。かといって、感染力の強い変異ウイルスの蔓延が心配されている中で対面に切り替えていいものか。学生だけでなく、社会も納得する授業スタイルというものがあるのかどうか。みんな視聴できる、学習効果を考える、感染防止――少なくとも三つは浮かぶ観点のうちどれを優先するべきか、考えています。

 緊急事態宣言は今月末で終わるのかどうかもわかりません。誰にとっても貴重な時間だけがさらさらと流れていきます。(マツミナ)

1行から広げた100字の書評

f:id:Question-lab:20210511184352j:plain

今年はよく咲きました。盛りもそろそろ終わりです(イデちゃん)

 学生の書いた「1行から広げた100字の書評」を読んでみたくなりました。「1行から広げた100字の書評は空想や想像を含んでいて、一冊を読んで描いた書評に勝るものではない」という指摘もわかります。「1行だけでは全体がわからない」と言いたいのでしょう。著者が読んだら「おいおい、全部読まないと俺の言いたいことが理解できないよ」と言いたくなるかもしれません。

 「ギョエテとは俺のことかとゲーテいい」と斎藤緑雨が言ったと伝わっていますが、本物のゲーテが聞いたらなんというでしょうか。

 

 勝つか負けるかはともかく、1行から広がる「空想や想像」は書く人の経験や読書歴等によって異なるのは当然です。持っている情報の質と量の違いが「空想や想像」の範囲や奥行きに表れます。100字の中に表された学生の想像力を知りたいと思いました。

ところで、次のような1行を読んで、今時の学生はどんな書評を書くでしょうか。ぜひ読んでみたいですね。

 

*「ひとつの妖怪がヨーロッパを歩き回っている――共産主義という妖怪が」

マルクス・エンゲルス共産党宣言岩波文庫

*「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ」(夏目漱石草枕新潮文庫

 

 最近、何人かの知人から自著をいただきました。自費による出版で何百部か作ったものを友人知己に送ったと記されていました。

退職後、自分の仕事を振り返り、書いたことや考えたことをまとめて出版する元校長先生が少なからずいます。職業柄、こうした自著をよくいただくのですが、正直に白状すると、この手の本に面白いものはあまりありません。月曜朝会の講話をまとめたものとか、研修会の講演資料のようなものもありますが、大方が自慢と説教とうんちく話の連続です。教師たるもの生涯に一冊は自著を出したいと思うのは結構なことですが、2冊目は遠慮したくなります。

今回は違いました。句集です。折々の子供の情景を17文字の中に詠み込んだものが多く、教師としての自分の人生を映し出しています。著者の人柄が感じられ、とても気分のいい本でした。

 

「本が売れなくなった」と馴染みの編集者の嘆きをよく聞きます。売れなくなったとはいえ、毎年数万点の本が出版されています。総務省統計局の書籍新刊点数によれば、平成28年度75,000、29年度73,000、30年度71,000、令和1年71,000と、毎年70,000点以上の本が出版されているのです。それらはどこに収まっているのでしょうか。昔、初版3000部と言われた時代がありました。「今は初版売りきったらベストセラーですよ」という彼の自嘲に妙なリアリティを感じました。

 

 新聞最下段の出版案内欄に馴染みのない出版社の本が並んでいます。失礼ながら著者もどんな人かわかりません。5000円を越すような高い本もあります。本のタイトルや紹介文を読みながら、この本売れるのかな、誰が読むのだろうと他人事ながら心配になります。学生が読んで「1行100字書評」を書いたら、なんと書くだろうかと、つまらないことを考えてしまいました。(イデちゃん)

短絡的な結論

 

 

f:id:Question-lab:20210510195001j:plain

明日は会えるかな(マツミナ)

 順番とはいえ、お母さんを見送るのは切ないものです。イデちゃん、心からお悔やみを申し上げます。

 

 このところ、毎朝の散歩でカルガモの親子の安否確認をしています。10羽のヒナは変わらずにいるだろうか。昨日は確かにいました。ところが今朝はいない。川沿いの道を行ったり来たりしながら目を凝らしたのですが、姿が見当たらないのです。

 

 そんな心配を頭の隅っこにしまいつつ、今日も「質問力を磨く(Class Q)」をZoomで開きました。授業冒頭では毎回、リフクレションシートの一部を紹介しています。リフレクションシートは学生の気づきや学びの宝庫です。学生と私とのやりとりで終わらせるのはもったいない。学生に一言ことわりを入れて、名前を明かさず、切り取った一文を伝えています。今日はこの文章です。

 「1行から広げた100字の書評は空想や想像を含んでいて、一冊を読んで描いた書評に勝るものではない」

 こういう挑戦的なリフレクションシートは歓迎です。こちらが言ったことを鵜呑みにせず、立ち止まって考える姿勢があるからです。でも今回は、その後がいけない。「勝るものではない」は短絡的な結論で、切り込んできた姿勢が後退しています。何を判断基準に判定したのか不明です。

 よい、悪い、コスパがいい、有効、無意味、勝る、劣る、優秀、ばか、普通、当たり前…。この類の言葉は便利で、学生同士のリフレクションシートなどでしょっちゅう使われています。そこでこうした言葉も紹介しながら、短絡的な結論はあなたの思考をどうするか、と問いかけました。

 学生たちはリフレクションシートで返してきました。

 「短絡的な結論は確かに自分の思考を狭めるし、考えることをやめてしまうなと納得した。でも先生の言葉に納得した私の思考は、またもそうなってしまっているのかもしれない」

 納得してしまう自分に疑問を投げかけた。面白くなってきましたね。その一方で「どうしたら考え続けることができるのか、方法を教えてください」と書いてくる学生もいます。先生が答えを持っている、と思い込んでいる学生は少なからずいます。そういう学生でも、授業を通じた仲間同士のやりとりを通じて、自分で考えることの面白さに気づいていくようです。

 

 それにしても、カルガモの親子はどこへ行ってしまったのでしょうか。そういえば昨日の朝、親子の上流に、青大将がいた。あいつかもしれない。いや、あいつに違いない。目つきの悪い蛇だった…。あ、これが短絡的な結論でした。反省。(マツミナ)

 

土に帰る手続き

 

f:id:Question-lab:20210509161550j:plain

尾形光琳 燕子花図屏風」ではありませんよ(イデちゃん)

 長いご無沙汰でした。書き繋いでいただいたミナさんに感謝です。ありがとうございました。

 先日、96歳の天寿を全うした母を送りました。葬儀とそれに関連する手続きを通し、私たちは様々な公的・私的な仕組みに支えられて生活していることを改めて認識しました。「当然のことでしょ。いい歳をして知らなかったの」と笑われるかもしれませんが、多くは意識しないままに過ごしていたことばかりで、一つ一つが見えないところで芋づるのように繋がっていることに感心したのです。

 

 いうまでもありませんが、私たちはこの世に生を受け、役所(行政機関)に出生届を提出することによって「人格を持った個人」として登録されます。戸籍が作られ住民票に記載された瞬間から様々な権利と義務が発生します。

学齢に達すれば小学校に入学し、18歳になれば選挙権が付与されるなど、年齢が増すとともに関係する法律等が増え、権利や義務の範囲も拡大されていきます。個別の法律や条例・規則等を常に意識して生活しているわけではありませんが、必要な時、何か起こった時にそれらが目の前に現れ、向き合うことになります。

 

 「人格を持った個人」の一生は死亡届によって戸籍が抹消され、終わりを迎えることになります。ところが、本人がいなくなっても、それまで機能していた権利や義務が全て自動消滅するわけではありません。身分を公的に証明する届けの消除や、資格・権利等を返納する手続きをしなくてはなりません。もちろん、故人が自分でできるわけがありませんから、然るべき資格を持った人(配偶者とか子供とか)がすることになります。

 

 印鑑登録、住民基本台帳カードのような身分を証明するものや、国民健康保険被保険者証、後期高齢者医療保険被保険者証、介護保険被保険者証等の返納、また、国民年金共済年金などの受給停止、土地家屋相続人代表者届や上下水道使用権名義変更、各種公共料金支払い口座の凍結等、多種多様です。

公的な権利・義務関係だけではありません。この他にもテレビ、新聞や電話の解約、様々な会員登録の解消など、面倒な私的な契約もあります。これから一つ一つ洗い出して整理・解約をしていく必要があります。

 

 私たちの日常は社会の隅々にまで張り巡らされた様々な制度や契約・手続きの上に成り立っているわけですが、文字や記号に変換することが難しい「情」や「心」によっても支えられています。公と私、形のあるものとないもの、見えるものと見えないものなどが複雑に絡まり合う中で、私たちは生きているのだということを今更ではありますが、改めて我が事と実感したのです。

 

 「私たちは永遠に生き続けることはできない。『朝には紅顔ありて夕には白骨となれる身なり』と教えにあるように、およそ人の一生は露の如く儚いものである。残された人たちは自分の人生をしっかり生きなさい」と諭す導師の説教をしみじみと受け止め、長い生涯を終え土に帰る故人の冥福を祈りました。(イデちゃん) 

質問力が社会で生きる

 

f:id:Question-lab:20210508121356j:plain

「胡瓜に興味はない」。そんな顔つきです(マツミナ)

 この春就職した「質問力を磨く(ClassQ)」卒業生と今朝、Zoomで会いました。きらきらした笑顔で開口一番、「質問力、使ってます」と嬉しい報告です。

 いつか農業をしたいと夢を語っていた女子学生でした。今は農業に関わる出版社で営業をしています。初任地は東北地方。一体、「質問力」をどう使っているのでしょうか。

 

 営業は電話での「アポ取り」から始まります。自己紹介をし、時間をとってもらえるようお願いをする短いやり取りです。ところが、受話器から飛び込んでくる声が「魔法の言葉にしか聞こえない」というのです。例えば4月、長野県のりんご農家にかけた電話ではこんなやりとりがあったそうです。

 「いま何をしていらっしゃるのですか」

 「テッカで忙しいんだ」

 テッカって何? 自分で尋ねておいて、その答えを理解できない。その時、Class Qで何度も言われていた言葉を思い出したそうです。「バカな質問なんてない」。よし、聞いてみよう。「摘花」だとわかりました。いいリンゴを実らせるために、余分な花を摘むそうです。

 ヘルメットをかぶり、カブに乗って営業に回ります。カブに乗るは初めてで、行く先々でエンストを起こしては、近くの農家に飛び込み、助けを求めます。「ねえちゃん、何やってんだ」と呆れられながらも、農家の人たちは笑顔で助けてくださるそうです。

 アポをとった農家にお邪魔したら、また「質問」です。長野のぶどう農家を訪ねた時、ハウスにシャインマスカットがたわわに実っているのを目にしました。「ずっとシャインを作ってきたのですか」――。

 その農家はもともと「お蚕さん」で、それからリンゴ農家。単価が安くて困ったので、りんごの木を切って巨峰に切り替え、今は高く売れるシャインマスカットになったと話してくれました。その農家の歩みから日本の社会までが見えるような思いがしたそうです。

 営業の仕方は先輩たちの背中に学んでいます。きっちり計画を立てるタイプ、臨機応変に進めるタイプ。「答えは一つじゃない」。これもClass Qで学んだことです。

 先輩や仲間と今後の方針などについて話すこともあります。そんな時には率先して「書記役」に名乗り出ます。対面であろうが、オンラインであろうが、どんと来い。Class Qで書記の面白さを十分に体得することができたからだそうです。みんなの意見を耳から脳に送り込むインプットと、手で再現するというアウトプットを通して、咀嚼することができます。その過程で新たな質問も生まれ、返すこともできます。

 彼女がClass Qに初めて来たのは、2年生の春学期。何をしたらいいのかわからない、身の置き所に困っているような表情が印象に残っています。始まったばかりの生活ですが、その表情からはスタートラインについた自信を読み取れました。

 

 Zoomを終えて一息。これから胡瓜に支柱を立ててやりましょう。ツルを思い切り伸ばせるように。胡瓜を植えるのは初めてです。(マツミナ)

連休明け恒例の、考えない「ワケ」

f:id:Question-lab:20210507210432j:plain

連休明けの空は明るいけれど(マツミナ)

  毎年、連休明けのこの時期になると、授業中の発言やリフレクションシートなどに「できないワケ」が目立ちます。入学、進級時の緊張感や意欲が薄れて、精神的に緩んでくるからでしょうか。「やってみます」ではなく「できない」、さらには「できないのが普通」と一般化する記述まで出てきます。

 

 例えば、今日の「質問力を磨く(Class Q)」では、よく使うけれど変な言葉を紹介しました。「安心安全を目指す」「整理整頓しなさい」、それから文科省が大好きな「資質能力の向上」。「知っている」「聞いたことがある」で納得していたら、質問はできません。思考を広げるには、「よく見るけれど、これでいいのかな」と考えるきっかけにしてほしいのです。

 

 それに対し、ある学生はこう書いてきました。

 「みんな普通に納得していることだ。私たちはそういう世界にいるのだから仕方がない」

 なんだろう、このあきらめ感。これでは学ぶ意欲は起きないでしょう。どうしたものか。

 

 Class Qでは毎週金曜日、図書館スタッフに来てもらい、質問を広げるための本を紹介してもらっています。今年度は精読・熟読・速読というハイレベルな読書ではなく、本が読みたくなるように「1行読書100字書評」から始めます。タイトルと本文1行目だけで100字の書評を書くのです。限られた情報を読み取り、そこから発想を広げて「書評」を書く、という形で読んだものを表現する。みんな個性あふれる書評を描いてくるはずです。お互い見比べたら面白いし、「この本は本当はどういう物語なのだろう」と思ってもらえたらしめたもの。そんなことを企んでいます。

 

 「面白い」と取り組む学生がいる一方で、こんなコメントも出てきました。

 「1行から広げた100字の書評は空想や想像を含んでいて、一冊を読んで書いた書評に勝るものではない」

 勝敗の問題にしてしまうのか。なんだかな…。

 「質問しないのは、恥ずかしいから」。そんな素朴な理由を書いている学生ももちろんいます。

 

 一方で、こうした仲間の姿に腹立たしさを募らせる学生もいます。

 「他人任せな人と一緒にワークをしなければならない。他の人がやっていることに目を向けず、自分に順番が回ってくると、『できません、わかりません』と逃げる。なぜそんなに甘ったれているのか。そういう人間にどうしたら自主性を持たせられるのか。私の一生の課題になりそうだ」

 

 「できない、わからない」と言い募る人はどこにでもいます。それでもこの学生はそういう人に「自主性」を持たせようとしているのです。それを「一生の課題」として捉え、考える学生はこれまでは見たことがありません。仲間を育てようとする学生が出てきているのです。

 弱音を吐いてはいられません。(マツミナ)

 

「教員の資質能力」

f:id:Question-lab:20210506220155j:plain

みんな大きくなってね(マツミナ)

 「考える先生」を目指す学生は、本日も中学校に行ってきました。今日は1年生のクラスに張り付いて観察し、たくさんの質問をしていたようです。校長先生が丁寧に記録してくださいました。校長先生のご厚意に感謝です。

 

 「英語など教室での授業は私服。なのに体操服を指定にしているのはなぜか」

 「生徒数はクラス30人くらい。なぜ(こんなに)少人数なのか」

 「昼休みに生徒同士の関わり合いを見ていた。1年はグループ同士の交流があったが、2、3年生はグループ間の交流がない。なぜだろうか」

 「1年生の教室で、男子列と女子列に分けているのはなぜか」

 

 こうした生徒の様子は、自身の体験とのギャップが起点です。かつての自分を思い出しながら、その違いを口にしていたのですね。

 ところが、先生の立ち居振る舞いや授業となると、一転して「考える先生」を目指す学生としての視点に切り替わるようです。

 「生徒が意欲的に取り組む授業ができる先生に共通していることとして、問いかけがうまい。机間指導を頻繁にしている。生徒との距離感が近い」などの気づきを口にしていたようです。

 学生のリフレクションシートにもこうした気づきが書かれていました。

 気になるのは、学生が「教員の資質能力」という言葉を使っていたことです。「生徒の心を掴めること」をその一例にあげていました。

 前にも書いた通り、資質は「生まれつきの性質や才能」。これに対して能力は「特定の仕事を成し遂げることができるかどうかという観点から見た、その人の総合的な力」(いずれも新明解国語辞典)。教員の問題に関する文科省の文書には、「資質能力」がよく出てきます。今年3月の萩生田文部科学大臣の諮問にも、「教師の資質能力の向上により,質の高い教職員集団を実現する」などの文言が出ていました(「令和の日本型学校教育」を担う教師の養成・採用・研修等の在り方について)。

 

 この「資質能力」について、かつての中央教育審議会長がぼやいていたことを思い出しました。

 「教員の資質能力という表現はおかしい、直してください、と何度も文科省側に伝えている。でも文科省は直さない。本気で日本の教育をよくしようと考えているのか…」

 

 乱暴な表現では理念が伝わらないし、そもそも誠意すら疑われます。学生がどこでこの言葉を覚えたのかはわかりませんが、無批判に使うべきではありません。リフレクションシートにはその旨を書き込んで返しました。

 考える先生は、言葉遣いも丁寧であってほしいものです。(マツミナ)

夢を否定する親

f:id:Question-lab:20210505220158j:plain

子どもの日のアップルパイ。これを「等分」するの?(マツミナ)

 連休中にもかかわらず、学生たちが授業動画を見て、リフレクションシートを書いてきます。リフレクションシートは手書きで、スキャンしてメールに添付してきます。

 手間がかかっても連休中に送ってくるのだから、意欲がある証拠。こちらも本気で読んで返します。リフレクションシートの中身はもちろん、メールの書き方についても注意します。新規の履修者は、ほぼ例外なく「件名」「宛名」「自分の名前」を書いてきません。本文すら書かず、リフレクションシートだけを添付してくる学生もいます。仲間内でのLINEと同じ感覚なのでしょうか。メールをしたことがなく、アドレスだけで自分だとわかってもらえると錯覚しているのかもしれません。

 そうした学生には、メールの書き方を明記して送信します。すると相変わらず「件名」「宛名」「自分の名前」も書かないまま、「わかりました」とだけ返信してくる学生もいます。ちゃんとメールを読んでいるのかしら…。

 

 そんな学生でも夢が見えてくると、行動が変わります。例えば、Class Qのゼミにいる学生は防衛問題に関心を持ち、卒論のテーマに据え、卒業後もこのテーマを考え続けたいという夢を持っています。その思いが、学生の読書量を押し上げました。「本を読んだことがない」と明かしていたのに、「敗北を抱きしめて」(ジョン・ダワー、岩波書店)の上下巻を短期間で読破。「日本の戦後の状況を初めて知りました。涙が出ました」と読後感を語っていました。「閉ざされた言語空間」(江藤淳、文春文庫)、「アメリカの世紀と日本」(ケネス・B・パイル、みすず書房)など難しい内容の本もバイト代を充てて購入し、読了しました。いずれも要約をノートにまとめながらの読書です。変われば変わるものです。

 

 ところが、その夢の前に立ちはだかるものがあります。その一つが親です。

 ある学生は子どもの頃から夢見ている職業があります。東日本大震災での活躍ぶりを報道で目にし、強く憧れたのだそうです。先日、その夢が親に知られてしまい、強く反対されて途方に暮れていました。

 事情は知らなかったけれど、芯のある学生だと感じていました。授業の過程で新聞を読めるようになり、課題に取り組む頻度が徐々に上がっています。書く文字や文章も改善されてきています。「国民を守れる人になりたい」とけれんみもなく言える姿は立派です。そういう思いと夢に向かって頑張っている姿を、いつか親が理解してくれればいいなと願うばかりです。

 今日は子どもの日です。15歳未満の子どもの人数は過去最少の1493万人。1493万個の夢の行方が気になります。(マツミナ)

仲間に学ぶ、自分に学ぶ

f:id:Question-lab:20210504213517j:plain

みどりの日」に咲いた餃子の花(マツミナ)

 緊急事態宣言に伴い、授業「質問力を磨く(ClassQ)」を録画で配信することになりました。録画配信で学生に刺激を与えるには、それなりの工夫が必要です。そこで、今回は集まれる学生と一緒にZoomで授業を行い、それを録画して流しました。仲間が学んでいる姿からきっと何かを学ぶだろうと期待したのです。

 録画授業に対するリフレクションシートを見て、驚きました。期待以上でした。

 

 ある学生は、全体を俯瞰することでの気づきをリフレクションシートの裏にまで詳細に記述していました。そこで着目していたのは、新規に履修を始めた後輩の成長と学び続けている先輩たちの蓄積でした。

 まず後輩の成長。今学期のClass Qには、高校生時代に入学準備教育を受けていた1年生もいます。

 「◯◯さんは、入学準備教育から今回にかけて、質問の形、質問を考える速度、新聞から情報を拾い出すことが上手になっていると感じた」

 成長していると言っても、その先を行く先輩学生たちとの間には、明らかな違いがあったとみています。その違いは「質問のストック」と分析しています。

 学生の記述によると、質問をみんなで出していく際、先輩たちは2周目以降でも質問を出せていましたが、後輩たちはかなり時間を要していました。その姿は、かつての自分自身の姿に重なるものだったようです。

 「質問のストックをつくるには、5W1Hを意識することや、提示された立場を彫り込み、記事を深く読み込むことが大事だ。私が質問を多く出せないときは、この三つが全くと言っていいほどできていなかった」

 俯瞰することによって、かつての自分を思い出し、同時にそのことを理解できるほどの成長も実感したでしょう。その点に気づいた学生は「次回からも全体を俯瞰的に見るためには何をすべきか考えたい」と次なる課題を書いていました。

 

 Zoomの授業に参加し、録画で改めて自分の姿を見た1年生にとっても、学びになったようです。「質問をたくさん出していくとき、3周目でもう出なくて『え~』ばかり言ってしまったと反省しました」。自分の姿を映像としてつかむことは、録画授業ならではの学びといえます。映像は、学んでいるときの態度や動作、表情はもとより、生活リズムまで伝えてくれたようです。

 「(自分が)死んだような顔をしていました。やっぱり寝起き直後に人前に出るのではなく、しっかり朝ごはんを食べて、エネルギーチャージをすべきだったと反省しました」

 

 録画配信も工夫次第です。私にとっても勉強になりました。(マツミナ)