「サラリーマンは気楽な稼業」だと思いますか
9月24日の「親父の背中」(ミナさん)を読んで、父親と子のやりとりの場面を思い浮かべました。「新聞を読むのは、大事なんだよ。お前も新聞を読む授業を大学でとっていたからわかるだろう」と子に新聞を読むことの大切さを説き、「欠かさず新聞を読み、時代感覚を培おうと机に向かっている」父の姿を見て、学生も思うところがたくさんあったようですね。親の話を「うざったい」と思う若者が多いと聞くことがありますが、こういう親子の関係っていいなあと思いました。
そう思いつつ、彼に聞いてみたいことが一つあるのです。意地悪な気持ちで聞くわけではありません。ちょっと気になったものですからご容赦を。
「サラーマンでも社会について興味を持たなければならないと感じた。(略)私はもっと社会を知る必要があると考えた」ということですが、「サラリーマンでも」という部分が妙に引っかかったのです。もしかして「サラリーマンは社会のことについて興味を持たなくていい」と思っていたのでしょうか。まさかとは思いますが、読みようによってはそう受け取ることもできます。
60年ほど昔、日本が高度経済成長の波に乗って景気がよくなって来た頃のことです。植木等と言うコメディアンが歌う「ドント節」という曲が流行りました。青島幸男の作詞で「サラリーマンは気楽な稼業と来たもんだ」というイントロから始まります。そして、二日酔いでも寝ぼけていてもなんとか勤まってしまうとか、課長や部長にはなれなくても定年なんてずっと先の話だからドント行こうぜと歌っています。植木等のずっこけた歌い方が受け、レコードも大いに売れたようでした。
ところで、植木等の歌を聞いてサラリーマンは気楽な稼業だと思った人はどれほどいたでしょうか。それは景気の良い歌詞の裏にある青島幸男一流のアイロニーが受けたのであって、本当にそうだと思った人は多くないでしょう。
よく「サラリーマン的」という冠言葉をつけて、働き方や仕事ぶりを揶揄したりすることがありますが失礼千万な話です。言うまでもないことですが「サラリーマンは気楽な稼業」などではありません。お父さんの話からもよくわかると思います。
どんな職業についても社会との関係を切り離す事はできません。なぜなら「働く」ということは「社会に関わる」ということだからです。私が「サラリーマンでも」という部分に拘った理由をお分かりいただけたでしょうか。
新聞はもちろん、様々な分野の本もたくさん読んで、もっともっと社会を知り、考える青年になって下さい。期待しています。(イデちゃん)