idematsu-qのブログ

屋根のない学校をつくろう

「考える先生」は不要か

f:id:Question-lab:20210128215358j:plain

考えている。さっきまで大騒ぎしていた子が。(撮影・マツミナ)

 

 今日午後、東京に雪が降りましたね。背中を丸めて足早に行き交う大人たちの横で、一本の傘の下で肩を並べて歩く小学生二人とすれ違いました。黒いランドセルを背負い、黄色い帽子をかぶった男の子たちの表情は、なぜかうれしそう。「つもるといいね」。そんな声が耳に入ってきました。非日常的な毎日の中の、そこだけは前と変わらない風景でした。中教審の「令和の日本型学校教育」答申は、この子たちの日常と未来をどう変えていくのでしょうか。

 

 理解し難い答申でした。たとえば、いま学校や先生は大変なんだとその窮状を書き連ねながら(12ページ)、「ICTの利活用」という仕事を増やそうとしている。なぜでしょうか。

 「個別最適な学び」のために、子どもの実態把握が大事ということはわかります。でもなぜ「その際,ICTの活用により」と方法を限定しているのでしょうか。具体的には、学習履歴や生徒指導上のデータ、健康診断情報等の蓄積・分析・利活用を挙げています。さらっと書いていますが、データの分析と利活用は大変ですよ。先生たちが子どもと向き合う時間をさらに奪う結果にならないでしょうか。「教師の負担を軽減」につながるのでしょうか。実現可能性に疑問はないでしょうか。

 コロナ禍で、公立小中学校のICT利活用レベルが低いことが再認識されました。ホームページの更新をしていなかったり、連絡方法は紙の「お便り」中心だったりする学校は珍しくありません。愚息の小学校では、令和3年の今も、平成31年度の年間行事予定がホームページに貼り付けられていました。

 蛇足ですが、愚息は始業式の日程がわからず、うろ覚えの記憶を頼りに出かけ、「誰も来てなかった」とスゴスゴと帰宅しました。もちろん、連絡帳に書かなかった愚息が悪い。

 

 現役の先生たちだけでなく、教職課程の大学生にもICTを習得してほしいようですね。

 「ICT活用指導力を養成することや,学習履歴(スタディ・ログ)の利活用などの教師のデータリテラシーの向上に向けた教育などの充実を図っていくことが求められる」

 大学の教職課程はすでに詰め込みすぎです。先日、ある国立教育大学の学生たちが「授業が多すぎてパンパンです」とこぼしていました。学びを深めるには、立ち止まって考える時間が必要です。けれども、それが難しい状態というのです。

 学生時代に考える時間を持たなかった人でも、教壇に立つと「考える先生」になれるのでしょうか。それとも「考える先生」はそもそも求められていないのでしょうか。(マツミナ)