idematsu-qのブログ

屋根のない学校をつくろう

 「違和感」の正体

f:id:Question-lab:20210303153707j:plain

Royal Roadにて。ふりかえって皇居を望む(イデちゃん)

 「生き残る大学」(2月28日)に載せた写真を覚えていますか。皇居から東京駅に続くRoyal Roadです。よく見ると左のベンチに老人が座っています。動いているのは鳩だけ。老人の時間は止まっているのでしょうか。異様に静かな風景です。

 

 時間が止まっているかのような風景に感じる違和感と、ミナさんが「知識基盤社会」という言葉に感じた違和感は、もしかすると根っこは同じかも知れないという思いがよぎりました。

2005年の中央教育審議会答申「我が国の高等教育の将来像」に書かれた「21世紀は、(略)「知識基盤社会」(knowledge-based society)の時代である」という「お告げ」で、教育界は大きく揺さぶられました。

 この聞きなれない用語を巡って様々な解説や議論がなされました。「知識には国境がなく、グローバル化が一層進む。知識は日進月歩であり、競争と技術革新が絶え間なく生まれる。知識の進展は旧来のパラダイムの転換を伴うことが多く、幅広い知識と柔軟な思考力に基づく判断が一層重要になる。そして、性別や年齢を問わず参画することが促進される」と説明され、だからこれからは「変化に対応し、主体的に生きるべし」と大号令が発せられた時に思ったのは「これからの世の中はえらいことになるんだな」ということでした。

 そもそも始まりは1996年の中教審答申で提唱された「生きる力」ですね。「いかに社会が変化しようと、自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に生きていくことができるように『生きる力』を育む」ことの重要性が指摘されました。この辺りでは、まだ「生きる」とはどういうことで、「豊かな人間性」とは何であるかといった、「人間が生きる」ということを中心に議論がなされていた気がします。

 ところが、2005年の将来像答申では「知識」とか「グローバル化」とか「技術革新」といった、人格を持たない主語に「生きる」とか「学ぶ」といった「生身の人間の行為」が従属する主従逆転したような表現に変わりました。

 

 Royal Roadの風景には人の動きがありません。知識基盤社会の主役は人間ではなさそうです。Royal Roadと知識基盤社会に共通しているのは「生きている人間」の息遣いが聞こえてこないことです。「違和感」の正体はこれかも知れません。そうだとしたら「2年後には90%の確率で壊れる400万円の商品」を売るインチキ商売の方がよっぽど人間的な営みです。(イデちゃん)