idematsu-qのブログ

屋根のない学校をつくろう

自分で自分を教育する

 「調べることが学びになっている自覚があるし、調べて知っていくだけ楽しくなっていく。せっかく楽しくなっていくから、(授業の)課題が変わっても、調べ続けて学びたい」

 なんと素敵なことでしょう。「調べることが学びになっていると自覚」する瞬間の快感が伝わってきます。調べてわかったことを基にさらに調べていく。疑問が疑問を呼んでどんどん深みにはまっていく自分に気づいた時、学んでいるという実感を確かめることができる。いい話ですね。

 

 以前、「知りたい、できるようになりたいという欲求は程度の差こそあれ、どの子も同じように持っている。初めはその内容も方向性も未分化で漠然とした欲求や期待であったものが、だんだん内容が形作られるようになり、そのためには何をすればいいかということがわかってくると勉強が楽しくなる」なんて書いた覚えがあるのですが、この学生の指摘は私の屁理屈のような話をふっ飛ばし、学ぶことの醍醐味を明快に説明してくれました。その通りですね。

 

 今日は公立中学校で参観を続けているT君と久しぶりに話しをする機会がありました。毎週一回中学校に通って授業や学活の時間などの参観を続けていますが、何が見えてきたかと尋ねると、たいへん興味深い話をしてくれました。

「初めの頃はただみているだけだったから、表面的なことしかわからなかった」

「全体をみるだけでは違いがわからない」

「視点を変えるとみえるものがある」

「みるところを決めて、意志を持ってみないとみえない」

「知りたいと思ってみるとみえてくる」

「相手と関係ができるとみえなかったものがみえてくる」

 

彼が話した「みる」という部分を全部ひらがなにしてみました。「みる」という行為を表す漢字は「見る」「観る」「視る」「診る」など色々あって、それぞれ意味が違います。でも、聞き手の耳に入る時は全部「みる」と聞こえ、どの「みる」なのか違いがわかりません。さて、彼の話した「みる」にはどの「みる」が当てはまるでしょうか。彼は違いがわかってきたようです。

 

「僕たちは用意された型に当てはめて、うまくまとめることには慣れている」

「何もないところでは自分で型を作ることができない」

 出来合いのモデルに自分を近づける(真似する)ことは得意ですが、自分でモデルを作ることは不得意なようです。彼も何とかしなくてはと考えているようでした。

 私たちが取り組んでいる「考える先生」育成プロジェクトは「こうすれば考える先生を育てることができる」といったプログラムを作ることを目指しているわけではありません。T君がいうように「与えられた型に自分を当てはめることが得意」な若者たちに「考える先生」のモデルを示して「こうなりなさい」と教える企てではないのです。

 私たちの狙いは「自分で自分の学びを組み立て、自分で自分を教育することができる」人を育てることです。難しい企みだけど、T君と話をしながら「結構いけそうだな」という手応えを感じました。(イデちゃん)