「考える」は目的か、手段か
「考える先生」育成プロジェクトに関するやりとりを読みながら、「そうか」と「そうか?」を繰り返しています。その中で浮かんだ二つの質問を書いておきます。
まずは「みんな違ってみんないい」でいいのか。「いい先生」モデルを押し付けるのではなく、自分で考えていく、というのはごもっとも。ただ、「いい先生」は「誰にとって」という文脈の中で語られるときに、異なる像を結ぶことになるでしょう。それはT君のリフレクションシートにも書かれていました。
「生徒にとっての「良い先生」と、それ以外の人にとっての「良い」先生は全く異なる姿をしているんだなと感じた」
リフレクションシートを読んだとき、今年3月に行われた米中外交トップ会談での、中国の外交担当トップ、楊潔篪共産党中央政治局委員の発言を思い出しました(3月23日付読売新聞朝刊)。
「米国には米国式の民主主義があり、中国には中国式の民主主義がある」
台湾や香港、新疆ウイグル自治区に対する中国の対応は、「中国式の民主主義」という表現におさまるものだったのか…。強い衝撃を受けました。
生徒にとっての「良い先生」も、千差万別でしょう。さらには保護者、校長ら管理職、教育委員会、文科省、社会全体も、それぞれの文脈で「良い先生」を語るでしょう。時代背景によっても変わります。「みんな違ってみんないい」でいいのかどうか。「良い先生」と「いい先生」は同じなのかどうかさえ、判然としません。
もう一つの質問は、「考える先生」育成プロジェクトの目的は何か、です。「考える」こと自体が目的なのでしょうか。それとも、「考える」ことは手段に過ぎず、「いい先生」モデルを学生自身に構築させることが目的でしょうか。後者だとすると、そこでまた「どの文脈での『いい先生』なのか」という問題は常につきまといます。
イデちゃんの知人から送られてきたメールは、プロジェクトを考えていくうえでのヒントになるかもしれません。
「今の学生に教えない、自分で考えろというのはキツくないかな」
この文章に主語を補ってみました。ひょっとしたら「キツい」のは学生ではなく、周りの「私たち」かも。焦ったくて見ていられない、待っていられないからキツいのではないでしょうか。
プロジェクトはまだプロトタイプ、たたき台にすぎません。面白くなってきました。(マツミナ)