親を見りゃ ボクの将来 知れたもの
「親ガチャ・ガチャガチャ」(マツミナ 2021.10.26)を読んで「親を見りゃ ボクの将来 知れたもの」という中学生が詠んだ川柳を思い出しました。
昭和46年か47年頃のことです。それまで右肩上がりで続いていた高度経済成長に翳りが出始めていたとはいえ、45年に開催された大阪の万国博覧会の盛況ぶりや毎年ベースアップが続く公務員の給料表を見る限り、やがてやって来る低成長時代を想像するには至りませんでした。日本経済が右肩下がりになっていくことを実感したのは昭和48年のオイルショック以降のことです。
そんな時代に育った中学生が作った川柳です。「もっと勉強していい成績を取らないといい学校に行けないよ」と叱咤する親に対して、「うるさいなあ、所詮オイラはあなたの子どもだよ、頭の悪いのは親譲りだ」とでも言いたかったのでしょう。子どもの呟きからは親を恨むというよりは、むしろユーモアが感じられます。
この頃はまだ「勉強して、いい学校に行く」ことは多くの子ども達に共通した希望であり、我が子に対する親の期待でもありました。また、子どもも「親を見りゃボクの将来知れたもの」などと悪態をつきながらも、期待に応えようとがんばった時代だったように思います。
近年、各種の調査から、子どもの学力と家庭の経済力が関連しているということが明らかになってきています。最近の東大生は約60%が世帯年収950万円以上だそうです。小さい頃から教育にお金を費やすことができる家庭の子とそうでない子との間に教育格差が生まれ、大学進学や就業に関しても影響を及ぼし、社会的な階層の固定化が進んでいるという指摘もあります。それでも不満が顕在化しないのは「人生への期待水準が下がり、その落差が狭まったため不満が減って」(土井教授)、「期待」より「諦め」の方が大きくなったということなのでしょうか。
息子たちが小さかった頃、近所のスーパーマーケットの店先に「ガチャ」が何台も置かれていて、買い物に行く度にねだられました。お目当ての中身が入っていないと「おねがい、もう一回」とせがまれ、「しょうがないなあ」と何度も甘い顔をしたことを覚えています。目当ての賞品を手に入れるために何度も投資を繰り返す子どもの「ガチャ」と違って、「親ガチャ」はやり直すことができません。
イギリスには裕福な家庭に生まれた子どもを指して「銀の匙をくわえて生まれてきた」ということわざがあります。韓国では生まれながらの境遇を「金の匙、木の匙、土の匙」と表現すると聞きました。日本も既に似たような状況になりつつあります。「親ガチャ」なんて誰が言い出したのでしょうか。本当に嫌な言葉です。
「娑婆を見りゃ 俺の将来 知れたもの」と若者に詠わせないようにしなくては。(イデちゃん)