idematsu-qのブログ

屋根のない学校をつくろう

質問は使いよう

 

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今日は真夏日。メロンタルトで立て直そうっと(マツミナ)


 学ぶ仲間が変わると、全く違う気づきを得ることができます。先日、企業人たちと一緒の「質問力を磨く(Class Q)」で、質問はこんな使い方もできるのか、と驚かされました。

 企業人と一緒にClass Qは、上智大学が昨年から始めた「プロフェッショナル・スタディーズ」の一コマです。その日は、「閉じた質問」と「開いた質問」の長所と短所をみんなで洗い出しました。

 閉じた質問は、「はい」か「いいえ」、ごく簡単に答えられる質問です。開いた質問はその逆、詳しい説明を求める質問です*。例えば「あなたは人間ですか」と尋ねられたら、答えは「はい」。閉じた質問です。「あなたはどんな人間ですか」だったら、「えっと、明るくて、そそっかしいところもあって…」と人柄を説明することになるでしょう。開いた質問です。

 洗い出し作業で、はじめのうちは学生と大差ない内容が出されました。

 

 開いた質問の長所:話が広がる、相手の考えを引き出せる

 閉じた質問の長所:答えやすい、集計しやすい…

 

 はっきり違いが出たのは、開いた質問の短所でした。「議論が広がらない」という意見が複数出されたのです。え、なぜ?

 ある企業の人事担当者がこんな説明をしてくれました。

 人事は主に2種類の面談をする。まずは採用面談。入社希望者の人となりを広く深くつかむために、開いた質問を繰り返す。もう一つは懲戒面談。問題を起こした社員相手に閉じた質問を繰り返して逃げ道を塞ぎ、最後に「なぜこんなことをしたのか」など開いた質問で「落とし込む」というのです。その先には懲戒処分が待っています。

 これは予想もしていなかった使い方でした。組み合わせ次第で、質問はいろいろな場面で使えるようです。

 Class Qには、質問力を磨きたい人がたくさん集まります。ここでトレーンングした力をどう使おうとしているのか、少しずつ見えてきます。(マツミナ)

 

 

 *参考文献:「たった一つを変えるだけ」(ダン・ロスステイン、ルース・サンタナ著、新評論

笹生優花の爪の垢でも煎じて飲め

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シドニーのロックス・マーケットで買ったお気に入り(イデちゃん)

 ゴルフの全米女子オープンで笹生優花選手が優勝しました。インターネットで流されたニュースには「19歳の笹生優花が全米女子オープン優勝。畑岡奈紗との日本勢P O対決制す」とありました。19歳での優勝はこれまでの最年少とのこと。また、日本人の優勝も初めて。それから日本人同士の決勝P Oも初めてということでした。

 

この「初めて」尽くしが並んだ記事を見て私が注目したのは「19歳」という彼女の年齢です。年間数十試合と行われるプロゴルフの大会の中で「メジャー」と呼ばれる歴史と権威のある大会があって、そこで優勝することはとても難しく、優勝者は大変な名誉と巨額の報酬を受け取ることができるのだそうです。世界中の野心的なプレーヤーが優勝することを目指して挑戦する中で、一番になることは私たちの想像をはるかに超えるものであることでしょう。

 

 日本では、彼女が日本国籍を持っていることや日本人同士の決定戦が行われたことに注目が集まりましたが、世界では「19歳の若者」の快挙に視線が集中したようです。共同通信によればアメリカの全国紙USAトゥデー(電子版)は「10代が大会の話題の中心となった」と報じ、AP通信は「大会史上最年少優勝」であることを強調しているとのことでした。

 

 日本の若者はどう受け止めたでしょうか。

「授業に熱心に取り組むことを『恥ずかしい』と感じない。真剣に学ぶ仲間を『意識高い系』とからかわない。文字にしてみたら、ちっとも変なことでもないのに、こういう空気をClass Qで醸成するのに結構な時間がかかり」、「空気を醸成するだけでは、学生一人一人の学びの意識までを変えることは難しい」とミナ先生を嘆かせ、「今日、紹介してくれた本はフィクションだということです。読むべきなのはノンフィクションではないでしょうか。フィクションを読む必要がありますか」と尋ねる「想像力」に欠ける学生たちは「あれはゴルフの世界の話」と白けるでしょうか。「笹生優花の爪の垢でも煎じて飲め」なんて言ったら「爺さん、ワケのわからないことを言ってんじゃねーよ」って笑われますかね。

 

 昔々学生だった頃、ゼミの読書会で「自由からの逃走」(H・フロム)を取り上げ、フロムの難解な文章に悪戦苦闘したことがありました。「孤立することの絶望的な恐怖から逃れるため、退行的な逃避のメカニズムが働き、“積極的な自由”を求めることより、自由から逃れることを人間は選択する」という主張が新鮮だった覚えがあります。「自由」という言葉を「学び」に置き換え、「学びから逃走するなかれ」と若者たちに伝えることは可能でしょうか。(イデちゃん)

学びから逃げようとする学生

 

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レモンタルト。今日も1日頑張った〜(マツミナ)

 「質問力を磨く(Class Q)」で心掛けてきたのは、環境づくりです。授業に熱心に取り組むことを「恥ずかしい」と感じない。真剣に学ぶ仲間を「意識高い系」とからかわない。文字にしてみたら、ちっとも変なことでもないのに、こういう空気をClass Qで醸成するのに結構な時間がかかりました。新聞記者をしながら授業をしていた頃は、「新聞を持って歩くのが恥ずかしい」という学生がいたものです。

 環境が整えば、学生たちはみんな真剣に学びに取り組むかというと、そんなことはありません。残念ながら。ともすれば、口実をもうけて逃げようとする学生が出てきます。

 ClassQでは毎週、図書館の司書さんに課題図書を紹介してもらっています。その週に取り組んだ記事に関連する小説です。例えば先週は「天安門事件遺族 謝罪求める声明」(6月2日付読売新聞朝刊)を教材にしました。1989年6月4日の事件から32年。学生が生まれる前の話で、高校までの授業でも扱われていないかもしれません。

 今回、司書さんが紹介したのは「時が滲む朝」(楊逸著)。民主化運動に身を投じた学生たちの青春とその後を描いた作品で、中国人作家が初めて芥川賞に輝いたことでも注目を集めました。

 学生はやはり「天安門事件って何?」 その事件を扱った小説ですから、表情も冷めています。こんなことをリフレクションシートに書いてくる学生がいました。

 「今日、紹介してくれた本はフィクションだということです。読むべきなのはノンフィクションではないでしょうか。フィクションを読む必要がありますか」

 

 新聞は「100取材して99捨てる」ことでできているメディアです。限られた紙面に載るのは1しかない。残りの99を肉付けするには、知識と想像力が必要です。そこで司書さんには小説を紹介してもらっています。そのことは学生にも、繰り返し伝えています。でも伝わっていないようです。

 こうした「逃げ」の姿勢は、チームワークにも影響してきます。熱心な学生たちは逃げる学生との「温度差」を怒りとともに口にします。当然、雰囲気も悪くなります。

 

 空気を醸成するだけでは、学生一人一人の学びの意識までを変えることは難しいようです。どうしたものでしょうかね。(マツミナ) 

赤信号 みんなで渡れば怖くない

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隅田の花火が咲き始めた。今年は花火大会あるかな(イデちゃん)

 同調圧力ですか。嫌な言葉ですね。でも「みんなと同じじゃないと安心できないという日本人特有の気質だよ」と一括りに片付けたくはありません。みんなと同じではなくても別に不安ではないと思っている日本人はいくらでもいますから。日本人も捨てたものではありませんよ。

 

 1980年代、漫才コンビ「ツービート」(ビートたけし・きよし)の「赤信号、みんなで渡れば怖くない」というネタが大流行しました。もう知らない人の方が多くなったかも知れませんが。当時、このコントを巡っていろいろな議論が展開されました。法律に違反しているのに「だって、みんながやっているのだから」と言い訳するのは非常識だとか子供が真似をしたら困るとか指摘され、社会問題にもなりました。

赤信号でも「みんなで渡れば」法律に違反しても怖くないのか、車の方が止まるから怖くないのか、本人たちの本音はどの辺にあったのでしょうか。タケシの性分からすれば後者の方で「心配するんじゃねえ、みんなで渡れば車の方が避けていかあ。怖かあねえや」と啖呵を切ったのではと私は思います。

 

 最近、新型コロナの変異株が威力を増し、東京オリンピックパラリンピックの中止・延長を求める意見も増えて来ました。これに対して「必死で練習してきたアスリートたちの参加機会を奪うのはかわいそう」とか「これまでの準備が無駄になり経済的損失が大きい」といった理由で、なんとしても実施すべきという意見もあります。

 同調圧力のメカニズムから考えると「アスリートの努力や準備に要したお金のこと」を考えたら実施に同調する方が正義になり、「みんながやる気になっている時に反対するのは『空気読めない奴』という「同調圧力」が強まることになるのでしょうか。

 

 同調圧力のベクトルは多数派、上位者あるいは力を持つ者から、少数派、下位者あるいは力を持たない者へと向けられます。一見、同調しない当人が不利益を被らないように配慮するような体裁になっていますが、実は同調しない人のために自分が不利益を被ることになるのを避けるための仕掛けです。

「ああいう質問はしない方がいいよ」という忠告も「あなたのために忠告するのよ」と言いながら、実はあなたのためではなく「自分が迷惑する」から止めてくれというメッセージだとしたら怖い話ですね。

 「赤信号、みんなで渡れば怖くない」というコントがみんなに受け入れられたのは「車にはねられる時は俺もオメエも一緒だよ」という仲間意識を感じたからではなかったかと思います。

 

 「惻隠」という言葉があります。意味深い言葉です。広辞苑によれば「いたわしく思うこと、哀れみ」とあり、古代中国の思想家孟子の言葉とされています。「相手の身になって自分の思いをそっと伝える」という意味を込めて「思いをいたすこと」と習いました。忖度だのKYだの同調圧力だのとは次元の違う価値です。(イデちゃん)

同調圧力

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甘味はエネルギー源。本日は、宮崎産マンゴーのタルト(マツミナ)

 「質問力を磨く(Class Q)」の学生たちを見ていると、いつも何かが動き出そうとしていることがわかります。ただし、いいことだけではありません。

 

 今、懸念しているのは、同調圧力です。いつだったか、「クレヨンしんちゃん」に登場するキャラクター風間くんが「同調圧力」について説明していました。

 

 「みんなと同じじゃないと安心できないという日本人特有の気質だよ」

 

 アニメの中では、しんちゃんがうっかり履いてきた左右色違いの靴下を、園内のみんなで真似していました。この程度のことなら笑っていられるけれど、学びの場での同調圧力は、にこりともできません。 

 先日のClass Qで、チームの発表と質疑応答の時間を持ちました。その際、ある学生が質問で切り込んでいました。学生に聞いたところ、その後、別の学生からやんわりと注意されたそうです。「ああいう質問はしない方がいいよ」。悪意で注意したわけではなく、心配したのでしょう。クラスで浮いちゃうよ、と。

 人と違うことを言ったり、行動に表したりすることを恐れていては、学びどころではありません。とはいえ、異質を排除することに慣れた日本社会で、人と異なる意見を発言することはハードルが高いでしょう。それでClass Qでは、腹を割って語り合えるような演出を教室内で続けています。質問を恐れない自分になるために「呼ばれたい名前」を自分につけ、車座になって互いの距離を縮め、安心して発言できる空間を作る。さらに、私からも「どんな質問も大歓迎だよ」と再三伝えています。それでもまだ工夫が足りていないことがわかります。

 

 かつて新聞記者時代に、ヨーロッパやアメリカ、シンガポールの大学を取材しました。どの大学でも印象に残っているのは、学生同士の活発な議論でした。時には先生とも火花を散らしていました。正直にいうと、目の前の議論に冷や汗が出ました。日本の学生は、こういう人たちとライバルになって火花を散らすことになるかもしれないからです。チームを組むかもしれません。いずれにせよ、どうしたら怯むことなく、議論することができるようになるか。あるいは、自分の問いをぶつけることができるか。難問です。

 

 最終課題は「職種の研究」です。帝京と上智の合同チームで、企業にインタビューをし、ポスターにまとめます。その後には質疑応答も待っています。同調圧力を恐れていたら、欲しい情報を手に入れることができないとわかってほしい。Class Qの設計を見直さなくてはいけません。(マツミナ)

何かが動き出す気配がする

 

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夜来風雨声 花落知多少

 「高校までの学びのように明確な答えがないし、解決する道筋すら見えないもの」を相手に「学生たちの中で何かが動き出すようです」

何がどのように動き出すのかまだよく見えては来ないけれど、その手応えを感じ始めた時の「ワクワク感」はたまりませんね。「私がもし逃げ出しそうになっていたら一声かけて」と助けを求める学生を唆したり、けしかけたり?しながら寄り添い、成長を支えていく仕事っていいですねえ。教師冥利に尽きるでしょ。

 

 T君も動き始めましたよ。彼が整理した6月3日のリフレクションシートをもとに追いかけてみることにします。

 「今日の『考える先生プロジェクト』では、先週の『表面的な物だけを見て半ば満足していた』という反省から、生徒の内側を知ることを目標として設定した」。そして、生徒のことを知るために「まずは関係構築から始めることにした」と書いています。

 T君はその日参観する学級の朝学活で、敢えて自己紹介をしませんでした。それは生徒が「何も情報のない人(もの)にどのように接してくるか」見たかったことと、「生徒からすれば異質な者である私が、どのように生徒と関係を作るのがいいのか検証したかった」と考えたからです。

 自己紹介をして「よろしくお願いします」といえば形式的な関係は作れるけれど、それだけでは相手が意志を持って自分に関わろうとしているのか否かを確かめることができません。そこで彼は生徒の方から話しかけてくるのを待つことにしたのです。

 

 言語学者金田一京助樺太アイヌ語の調査をしたとき、アイヌの子供たちから樺太アイヌ語を教わったというエピソードを書いた「心の小径」という本を読んだことがあります。

 大人たちに話しかけても全く言葉が通じなくて困っていた春彦の周りに子供たちが集まって来た。子供たちは初めて見る得体の知れない来訪者に興味津々で、彼の一挙手一投足を珍しがった。そのうちに自分が何かする度に子供たちが発する言葉は、どうやら「何?」「何をしているの?」という意味かも知れないと考え、自分の顔を指して同じようにいうと子供たちがアイヌ語で答えた。やはりそうだった。それから彼は子供たちに次々と「何」を連発して言葉を集めることができた、という話です。

 

 T君の取った方法と似ていませんか。

「朝の学活が終わった途端に私の方へ10人程の生徒が寄って来た」「関係を構築するためには『話す』ということは必須の条件だ」。そして「相手と関係ができると見えなかったものがみえてくる」ことに気づいたと書いています。

  

 試行錯誤を繰り返しながら対象に迫り、「自分で自分の学びを組み立て」ようと頑張っているT君を見て、私もまた「何かが動き出す」手応えを感じ始めています。(イデちゃん)

 

オリパラが刺激する学生の主権者意識

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独り占めは、紛争のもと。自らに言い聞かせてみる(マツミナ)

  オリンピック・パラリンピックについて、政府の感染症対策分科会の尾身会長が国会で「この状態で普通はやらない」と2日も続けて発言しています。専門家にここまで言われて、なおも開催にこだわる政府には疑念が募ります。が、こうしたやりとりのおかげで、学生たちが国会でのやりとりに注目するようになりました。こんな状況でオリンピックなんておかしいよ、新聞に投書してみようと考える学生が「質問力を磨く(ClassQ)」に現れました。

 学生の社会に対する関心の低さを何とかできないか。それがClass Qを設計したきっかけです。主権者なのに他人事。誰かが何とかしてくれると思っているフシが否めません。オリパラについての政府の対応は噴飯物ではあります。けれども学生の政治的な関心を高めてくれたという点では感謝をした方がいいかもしれません。

 

 本日の授業は、「中国海警 接続水域112日 連続航行最長」(6月4日付読売新聞東京14版2面)。宮古島の漁師になりきって記事を読み、質問を出すという内容にしました。沖縄県尖閣諸島付近を中国の海上保安機関・会計局の船が航行し、日本の漁船を追尾したりしているそうです。

 多くの学生にとっては「中国海警って何?」「何が問題なの?」。想定した通りです。問題はここから。記事を読み込み、仲間とのやりとりがどう変えるか。

 リフレクションシートの中に、やはり出てきました。

 「尖閣の問題について、私は無知であることに気付いた。接続水域と領海の違いもわからない。国防のことをわかっていないというのは、日本に住む者としてかなりまずいのではないか。(略)日本に住む一人ひとりの無関心が、国をどういう状態にしているか考えたい」

   

 今日はこんなリフレクションシートもありました。

 「(Class Qの)課題を乗り切れるかどうか正直不安ではあります。しかし、ここで乗り切った者こそ多くの学びがあり成長できるのだと思います。私はここに、逃げずに正々堂々と立ち向かうことを誓います。ミナ先生も私がもし逃げ出しそうになっていたら一声かけて頂けると助かります。もちろん、今のところ逃げる気はありません。頑張ります」

 

 全く知らなかったし、関心もなかったことだけれど、何やら難しい問題が目の前にある。社会の課題は、高校までの学びのように明確な答えがないし、解決する道筋すら見えないものばかりです。それでも向き合わざるを得ない時、それがたとえ授業の課題だからであっても、学生たちの中で何かが動き出すようです。

 

 最後に唐突ですが。

 尾身会長、Class Qの学生と一緒に応援しています。(マツミナ)

 

自分で自分を教育する

 「調べることが学びになっている自覚があるし、調べて知っていくだけ楽しくなっていく。せっかく楽しくなっていくから、(授業の)課題が変わっても、調べ続けて学びたい」

 なんと素敵なことでしょう。「調べることが学びになっていると自覚」する瞬間の快感が伝わってきます。調べてわかったことを基にさらに調べていく。疑問が疑問を呼んでどんどん深みにはまっていく自分に気づいた時、学んでいるという実感を確かめることができる。いい話ですね。

 

 以前、「知りたい、できるようになりたいという欲求は程度の差こそあれ、どの子も同じように持っている。初めはその内容も方向性も未分化で漠然とした欲求や期待であったものが、だんだん内容が形作られるようになり、そのためには何をすればいいかということがわかってくると勉強が楽しくなる」なんて書いた覚えがあるのですが、この学生の指摘は私の屁理屈のような話をふっ飛ばし、学ぶことの醍醐味を明快に説明してくれました。その通りですね。

 

 今日は公立中学校で参観を続けているT君と久しぶりに話しをする機会がありました。毎週一回中学校に通って授業や学活の時間などの参観を続けていますが、何が見えてきたかと尋ねると、たいへん興味深い話をしてくれました。

「初めの頃はただみているだけだったから、表面的なことしかわからなかった」

「全体をみるだけでは違いがわからない」

「視点を変えるとみえるものがある」

「みるところを決めて、意志を持ってみないとみえない」

「知りたいと思ってみるとみえてくる」

「相手と関係ができるとみえなかったものがみえてくる」

 

彼が話した「みる」という部分を全部ひらがなにしてみました。「みる」という行為を表す漢字は「見る」「観る」「視る」「診る」など色々あって、それぞれ意味が違います。でも、聞き手の耳に入る時は全部「みる」と聞こえ、どの「みる」なのか違いがわかりません。さて、彼の話した「みる」にはどの「みる」が当てはまるでしょうか。彼は違いがわかってきたようです。

 

「僕たちは用意された型に当てはめて、うまくまとめることには慣れている」

「何もないところでは自分で型を作ることができない」

 出来合いのモデルに自分を近づける(真似する)ことは得意ですが、自分でモデルを作ることは不得意なようです。彼も何とかしなくてはと考えているようでした。

 私たちが取り組んでいる「考える先生」育成プロジェクトは「こうすれば考える先生を育てることができる」といったプログラムを作ることを目指しているわけではありません。T君がいうように「与えられた型に自分を当てはめることが得意」な若者たちに「考える先生」のモデルを示して「こうなりなさい」と教える企てではないのです。

 私たちの狙いは「自分で自分の学びを組み立て、自分で自分を教育することができる」人を育てることです。難しい企みだけど、T君と話をしながら「結構いけそうだな」という手応えを感じました。(イデちゃん)

 

なぜ開催するのか

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チームワークの成果物は、学生の現状を伝えてくれる(マツミナ)

 今日はテレビの前で思わず拍手してしまいました。衆議院厚生労働委員会での尾身茂会長のコメントです。

 「今のパンデミックの状況で開催するのは普通はない」

 「なぜ開催するのかが明確になって初めて、市民は『それならこの特別な状況を乗り越えよう。協力しよう』という気になる。関係者がしっかりしたビジョンと理由を述べることが極めて重要だ」(NHKニュースから)

 

 なぜ開催するのか。狙いや目的は、オリンピック・パラリンピックでなくても、とても重要です。「質問力を磨く(Class Q)」の学生たちを見るたびに実感します。この授業は課題が多く、毎週チームワークで発表もしなくてはいけません。手間がやたらとかかるのです。なぜ学ぶのか、それぞれの目的意識の濃淡が、課題にはっきりと出てきます。

 

 本日の授業ではイスラエルパレスチナ問題に取り組みました。記事は、停戦後にガザ地区に入った読売新聞記者の現地ルポを使いました。立場はイスラエルガリトさんと、パレスチナのメルヴェトさん。実在の人物です。ベルギー人のライターが2人をつなぎ、文通が始まりました。そのやりとりは「友だちになれたら、きっと」(鈴木出版)にまとめられています。

 初版が出されたのは2007年。ガリトさんもメルヴェトさんも今は40代で子どものいる母親になっています。その2人がこの記事を読んだら、どんな質問が出てくるでしょうか。かなりハードルの高い課題となりました。

 

 1週間かけて取り組んだ課題からは、どんなチームワークをしてきたのかが見えてきます。「愛」「幸せ」というふわふわした言葉でまとめたチームがある一方で、資料を読み込んだうえで「共存」「和平」の定義を明示してイスラエルパレスチナの未来を考えたチームもありました。「質問する力をつけたい」「資料を読む力をつけたい」「変わりたい」など、何らかの「なぜ学ぶのか」を持っているメンバーがチームになると、深掘りしようとする質問を作るようです。

 そうしたメンバー同士がチームを組むことで、さらに変化がもたらされます。今日の授業をこう振り返っている学生がいました。

 「調べることが学びになっている自覚があるし、調べて知っていくだけ楽しくなっていく。せっかく楽しくなっていくから、(授業の)課題が変わっても、調べ続けて学びたい」

 なぜ学ぶのか、なぜ課題に取り組むのか。未来に向けた誠実な姿勢は、新たなエネルギーにつながります。

 

 なぜ開催するのか。未来に向けた誠実な思いがあるのなら、語っていただきたいものです。(マツミナ)

 

採用試験のレベルを下げろ!?

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花狼藉夏椿(イデちゃん)

 「採用試験のレベルを下げろ。教員採用倍率の低下が止まらない。文科省が公表した調査結果によれば、2019年度教員採用試験の倍率が全国平均で4.2倍、小学校では2.8倍にまで落ち込んだ。少人数学級の増加により教員の需要数は増える一方だ。このままでは教員の必要数が不足する。この際、採用試験を簡単にして誰でも教員になれるようにすべきだ」

 こんな記事が新聞に載ったらどうしますか。「とんでもない。教員の質の確保のために採用試験を簡単にすることはできない」と憤慨する人が多いことを祈るのですが、すでに教員需要の増加を見越して「教員免許がなくても一定の経験があればいい」とか「簡単な面接で誰でもなれるようにして、必要なら現職研修を強化すればいい」とか言った意見がちらほら聞こえてきています。

 

 「採用試験の質を上げたい」と考えるのは当然の理です。いい新人をほしいと願うのはどこの企業も官庁も同じで、人事担当者は「質の確保」のために知恵を絞るものだと思っていたのですが、ミナさんのお話からすると違うようですね。まさか「個性」だの「独創性」だのと言った厄介なことを調べるのは面倒だから、みんなまとめて適性検査をやって、適性ないのは落とせばいいと思っているのではないでしょうね。何やらお寒い話もあるようです。

 

 教員採用試験の台所事情もお寒いようで、「新年度に学級担任がいない」などという学校が生まれてしまうような「みっともないこと」にならないようにするために、とにかく受験者を増やして一人でも多く採用しなければならないという現実を前にしたら「このままでは教員の必要数が不足する。この際、採用試験を簡単にして誰でも教員になれるようにすべきだ」という主張が新聞に載る日が来ないとも限りません。教員不足を逆手にとって「簡単な面接で誰でもなれる」ようにしたら、そのつけは子供たちに回されることになるでしょう。

 

 全国の教員養成系大学、学部・学科で学生を教えている先生方にお尋ねします。これだけ採用倍率が下がれば採用試験に受かるための勉強にあくせくしなくてもいいのではありませんか。それより「一方的な講義ではなく、学生自らが考え、対話ができる授業」にたっぷり時間を使い、「社会で実践できる教養を身につけ」させてください。大学の授業の質が採用試験の質を決めるくらいの気概を持って。心ある人事担当者もそれを期待していると思います。(イデちゃん)

採用試験の質

 

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どこからフォークを入れたものやら(マツミナ)

 今日はとある大学の学長とご一緒する機会がありました。教育改革に力を入れている方です。「学生に、社会で実践できる教養を身につけさせたい」「中でも哲学を学んでほしい」「一方的な講義ではなく、学生自らが考え、対話ができる授業を」…。前から変わらぬ熱い思いを語ってくれました。

 そうした学長にとって業腹なのが、企業の採用活動だそうです。「採用試験の質が低すぎます」。多くの企業が共通で使っている適性検査などで一体何がわかるのか。企業人が求める資質としてよく口にする「個性」「独創性」と矛盾することに気づいていないのか。何を学んできたのかを尋ね、なぜ議論を挑んでくれないのか。「その程度の適性検査に頼るぐらいの企業だから、採用試験の質を上げろというのは無理な話でしょうが」。厳しい表情で語っていました。

 採用試験の質を上げてほしい。私も全く同感です。例えば経済学部の学生を相手に、「経済を専攻する立場から、日本の現状の問題点と打開策を3000字で書け」なんて問題を出すようになったら、学生も真剣に勉強してくれるだろうなあと期待しています。何よりも、それで落とされたのなら、悔しくても納得できます。自分の勉強不足だと。激しく後悔し、そこから本当の学びが始まるはずです。

 

 先日も、ひとりの学生が肩を落としていました。第一志望の企業に落ちたというのです。それも適性検査で。企業にとっては、既成の適性検査は手間を省けていいかもしれません。けれども、学生にとっては結果の理由がわかりません。なまじ「適性検査」だから、「ダメ人間」の烙印を押されたようにも感じるでしょう。

 

 「質問力を磨く(Class Q)」では企業人のサポートが学生の成長を支えてくれています。先日も、学生たちのために説明会を開き、頻々と寄せられるメールでの質問に丁寧に答えてくれました。「学生たちの成長が嬉しい」。そう話していました。採用試験の質はともかく、こういう企業人がいることがせめてもの救いです。(マツミナ)

 

捨てる勇気

  

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隣家との間に育つ江戸東京野菜早稲田茗荷。今年もたくさん取れますように(イデちゃん)

 「100取材して99捨てる」――余計なものはいらない。剥ぎ取り削ぎ落として真実に迫る。「捨てる勇気」を持たねばならない。これは生き方の美学に通じますね。でも、人間は欲張りだからせっかく集めたものは手放したくないと思うのは人情です。あれもこれもと迷って、結局何が言いたいのかわからなくなってしまうのです。非情になれないのは人間の悲しい性ですかね(なんちゃって)。

 

 「東京2020」の開催が怪しくなってきました。IOCの偉い人たちは「犠牲を払ってでもやる」と力んでいますが、報道によれば多くの国民が延期や中止が望ましいと考えているようです。海外からも開催に強い疑問や懸念を表明する報道が流れてきています。当の日本では、開催都市である東京都も組織委員会も国も「やるために準備している」とは言いますが、何かすっきりしません。無観客にすると言いながら特設会場に架設スタンドを作ったり、密を避けると言いながら巨大なパブリックビューイングの会場を作るために公園の木を伐採したり、やっていることがチグハグです。一体どうなるのでしょうかねえ。心配になります。

 

 「東日本大震災復興のシンボル」だったはずが、いつの間にか「人類がコロナに打ち勝った証」にすり替わってしまったようです。無観客では「おもてなし」のしようもありません。中身のない言葉だけが残された感じです。それでも「やる」と頑張る人たちを支えているのはどんな力なのでしょうか。聞いてみたいです。

 

 25年ほど前です。東京都が深く関係して「世界都市博覧会」という巨大なイベントが計画されました。2000万人の来場者を目標とした万博並みの企画です。ところがバブルが弾けて景気が悪くなり、開催に「?」が灯りました。その時、「世界都市博覧会中止」を公約に掲げて都知事選に勝利したのが「いじわるばあさん」こと青島幸男氏でした。開催準備がかなり進んでいたことから中止をすれば約1000億円の損失が出ると言われていましたが、青島都知事は公約通り開催中止を決定しました。

 

 新型コロナウィルスはどんどん形を変えているようです。「人類がコロナに打ち勝った証」と大見えを切れる時はいつでしょうか。オリンピック・パラリンピックも本当にできるかどうかわかりません。一兆円を超える投資の前に、IOCも東京都も菅総理大臣も「100準備して99捨てる」勇気はお持ち合わせではないようですね。(イデちゃん)

捨てる勇気

  

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隣家との間に育つ江戸東京野菜早稲田茗荷。今年もたくさん取れますように(イデちゃん)

 「100取材して99捨てる」――余計なものはいらない。剥ぎ取り削ぎ落として真実に迫る。「捨てる勇気」を持たねばならない。これは生き方の美学に通じますね。でも、人間は欲張りだからせっかく集めたものは手放したくないと思うのは人情です。あれもこれもと迷って、結局何が言いたいのかわからなくなってしまうのです。非情になれないのは人間の悲しい性ですかね(なんちゃって)。

 

 「東京2020」の開催が怪しくなってきました。IOCの偉い人たちは「犠牲を払ってでもやる」と力んでいますが、報道によれば多くの国民が延期や中止が望ましいと考えているようです。海外からも開催に強い疑問や懸念を表明する報道が流れてきています。当の日本では、開催都市である東京都も組織委員会も国も「やるために準備している」とは言いますが、何かすっきりしません。無観客にすると言いながら特設会場に架設スタンドを作ったり、密を避けると言いながら巨大なパブリックビューイングの会場を作るために公園の木を伐採したり、やっていることがチグハグです。一体どうなるのでしょうかねえ。心配になります。

 

 「東日本大震災復興のシンボル」だったはずが、いつの間にか「人類がコロナに打ち勝った証」にすり替わってしまったようです。無観客では「おもてなし」のしようもありません。中身のない言葉だけが残された感じです。それでも「やる」と頑張る人たちを支えているのはどんな力なのでしょうか。聞いてみたいです。

 

 25年ほど前です。東京都が深く関係して「世界都市博覧会」という巨大なイベントが計画されました。2000万人の来場者を目標とした万博並みの企画です。ところがバブルが弾けて景気が悪くなり、開催に「?」が灯りました。その時、「世界都市博覧会中止」を公約に掲げて都知事選に勝利したのが「いじわるばあさん」こと青島幸男氏でした。開催準備がかなり進んでいたことから中止をすれば約1000億円の損失が出ると言われていましたが、青島都知事は公約通り開催中止を決定しました。

 

 新型コロナウィルスはどんどん形を変えているようです。「人類がコロナに打ち勝った証」と大見えを切れる時はいつでしょうか。オリンピック・パラリンピックも本当にできるかどうかわかりません。一兆円を超える投資の前に、IOCも東京都も菅総理大臣も「100準備して99捨てる」勇気はお持ち合わせではないようですね。(イデちゃん)

100取材して99捨てる

 

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学生たちのポスター。付箋は、他チームの学生からの質問(マツミナ)

 昨日、ポスター発表会を開きました。職種と役割をキーワードに、学生たち14チームがIT企業のソアーシステムと食品メーカー、月島食品工業の2社を取材し、ポスターにまとめて発表しました。小さな発表会ではあるけれど、学生たちは全員が緊張した表情でした。メモを持つ手が震えている学生も目につきました。

 きれいなポスターに仕上がってはいました。凝ったデザインで、配色にも気を配り、文言にも気を使っていたようです。けれども予想通り、企業の方々からは厳しいコメントをいただきました。

 

 ソアーシステムのWさんからは「何を捨てたんですか」。仕入れた情報を羅列しているだけで、何を伝えたいのかわからない、と指摘されたのです。月島食品のSさんもこう批評しました。「自分の気になったことを書いたメモ帳みたいなものですね」

 さらに悪いことに、緊張していたこともあって、メモを読み上げたり、壁に向かって発表したりする学生が目立ちました。伝わらなかったのです。

 

 「100取材して99捨てる」――新聞記者としての駆け出し時代に、繰り返しこう言われました。社会の問題をすべて載せるには、新聞は狭すぎます。限られた紙面で、読者に伝えるには何を残し、何を捨てるべきか、大量に積み上がった取材メモを前に呻吟したものでした。授業中にもこの言葉を使い、何を判断基準にし、何を捨てるかが、人に伝えるには重要だと伝えてきたつもりでした。私の伝え方に問題があったのです。

 

 学生たちの書いたリフレクションシートには例外なく、お二人のコメントが引用されていました。

 「自分自身、ポスターというよりも、小中学校の自由研究の内容を書いているようなものであったと思った。まずポスターとは何なのかを話し合うべきだった」

 「捨てる勇気は、パッと内容をつかめるものにするために必要だ。文字を羅列したものはただの発表資料だ。ポスターを理解していなかった」

 落ち込むばかりではなく、これを糧にしようと学生たちは書いていました。7月には再度、ポスター発表会を開きます。

 「自分たちの作品に何が足りなかったか、明確になった。これは次回の最終発表をやりやすくなると同時に、ハードルが上がるということでもある。今日いただいたコメントをもとにより良いものを作る」

 落ち込んでなんていられない。自分たちに発破をかけると宣言しているのです。

 

 学生だけでなく、企業人も、そして私も反省しました。「伝える」と「伝わる」は違う。届いていなかったことを認め、授業を練り直していきます。(マツミナ)

できないと諦める前に

 

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思案投げ首ネギ坊主、何考えているのかな(イデちゃん)

学生は概ね、『できないの分岐点』に立ったとき、自分で工夫して乗り越えようとする学生と、環境や相手を変えようとする学生と2パターンに分けられる」と言うミナさんの指摘ですが、ま、学生にもそれなりの言い分はあるでしょうが、そのうち世間はそんなに甘くないことに気づくでしょう。その時どうするか見ものです。それでも環境や相手を変えようとしますかね。

 

 水曜日の事です。次男の家族と夕食を一緒に食べる約束をしていた私は、ブログに載せるための原稿をPagesにupして家を出ました。ところがミナさんから「ファイルを開けられない」とメールが来ました。実は午前中から通信環境がおかしくて、いつもならすぐ繋がるサイトになかなか繋がらなかったり、Cloudに上げてあるファイルにアクセスできなかったりして嫌な感じがしていたのですが、肝心な時に繋がらなくなってしまったのです。

 次男も同様の不具合を感じていたようで、困惑していたのは私だけではなかった事がわかりました。テーブルに夕食が並べられ、みんなで食べ始めたのですが、私は原稿のことが気になって食事どころではありません。

 「全くいい迷惑だよ、肝心な時にダウンしやがって」と焦っている私を見て中1の孫が言いました。

「どうしたの、ジジ」

「原稿を送れないんだよ」

「メールは届くの?」

「うん」

「ジジ、いい方法があるよ。メールの本文に原稿を直接貼り付けて送ったらどうかな。やってみようか」

「お、そうだね、やってみて」

私のスマホを彼に渡しました。

「送りたい原稿はこれ? 送り先は?」

などと聞きながら、スマホを操作していましたが、しばらくすると「行ったよ」と言いながらスマホを返してくれました。

 しばらくしてミナさんから原稿来ましたと返信がありました。

「ありがと、助かった。よくやり方知ってたね」

「ファイルを送れなくてもメールを送れるのなら、本文にしてしまえばいいかなって思ったんだよ」

「なるほど、そうだよね。気づかなかったな。ありがとう、助かったよ」

 知っていることを手がかりに、こうすればうまくいくかもしれないとトライして、まんまと成功させた少年の頭にやわらかさに感心し、思わず「お主、できるな」と唸ったジジでした。

 

 できないと諦める前に「できること」を探す。そして、それを手がかりに問題を解決するための方法を見つけて積み上げていく。「考える」ってそういうことなのですね。改めて納得しました。(イデちゃん)