字を書くと「手が痛い」
「読む」は言葉を通して考えること。「見る」とは違いますね。では「書く」はどうでしょうか。再定義の前に、今日のClass Qで学生とやりとりした「書く」についてお伝えします。
今、Class Qの学生と「Pre-Class Q」を続けています。帝京大学に入学予定の高校生を迎え、来週からオンラインで入学準備教育を始めます。先輩学生には、高校生のサポートをしてもらいます。効果的なサポートには、自分がどこでつまずいたのかを言語化しておく必要があります。
まず求めたのは、「社説の視写(書き写し)」のふりかえりです。論文を書くためのトレーニングとして日常の課題にしています。構成や表現の仕方などを手を動かすことで覚えてほしいと伝えています。ところが、大半の学生は続けられません。続けられない自分を責めながらも、続かない。帝京、上智、いずれの学生も変わりません。高校生も同じでしょう。ならばふりかえることで、打開策も見つかるはず、と踏んだのです。
その結果、「手の痛さ」がつまずきの始まりにあり、時間の経過とともに意欲が落ちていくことがわかりました。学生たちのふりかえりの言葉を、意欲と時間軸の二軸にまとめたのが、今日の写真です。
最初は意欲があるのです。だから「どう書いたらいいか」と考えます。書き始めて気づきます。原稿用紙の「マス目が大きい」。学生の多くは「薄く、小さく、乱暴な」字を書いてきました。でも、ClassQで求めているのは「濃く、大きく、丁寧」な字。読み手の存在を意識してほしいからです。「大きなマス目」に書き慣れない大きな字を書くと「手が痛い」し、「疲れる」。鉛筆やシャーペンを使えば「手が汚れる」。
書き写すときに、しばしば間違えます。自分の文章の癖が出ることもあるでしょう。「何か食べたり飲んだりしていると間違える」こともあるそうです。すでに飽きていますね。間違えたら、消しゴムで消さないで、二本線を引いて、横に書き直すよう伝えています*。なぜ間違ったのかをふりかえるきっかけになりますから。でも、その手間も面倒だから「イラつく」。
社説の視写専用の原稿用紙はデータで渡しているので、印刷代が気になります。一つの社説を書き写すのに必要なのは4枚程度。1枚10円なら40円です。複数の学生がこの印刷代が負担にだと指摘していました。はるかに高額なスマホの料金は気にならないかと尋ねると「好きだから気にならない」という答えが返ってきました。わかりやすい。こうして時間の経過とともに、学生の意欲は落ちていくようです。
つまずきの始まりに「手が痛い」があることは象徴的です。いかに学生たちは書かずに大学に進んできたか。キーボードを「打つ」やタッチパネルを「さわる」方がはるかにラクじゃん、それでどうしていけないの、という学生に「それでも手で書く意味」を理解してもらいたい。さて、どうしたものでしょうか。(マツミナ)
*『視写の教育 〈からだ〉に読み書きさせる』(池田久美子著、東信堂)を参照しています。とても情熱的な実践記録です。感動のあまり池田先生のご自宅までお話を伺いに押しかけてしまったぐらいです。コロナ禍のはるか前のことです。
「読む」とは、言葉を通して考えること
この春大学を卒業し、社会人となる学生から手紙が届きました。コロナ禍で思うに任せない就活だったようです。それでも「先生が私の背中を押して下さったおかげで、希望の仕事ができる自分になることができました。あの時ガジュマルの木の下で、失敗しても前に進む努力をすることの大切さを教えてくれた先生に心から感謝しています」と内定をもらった喜びが綴られていました。
中学生を引率して南の島に行った時のことです。船中、これから始まる体験への期待で生徒たちの声が弾んでいました。そんな中で一人の生徒の寂しそうな表情が気になったので尋ねると「第一志望の高校に受からなかった」と悲しそうに答えました。出発直前の不合格通知に、心躍るはずの体験旅行が傷心の旅になってしまったのです。
島に滞在する間、時折、寂しそうに海を見ている姿に傷の大きさを感じました。離島の日、港の近くの公園の大きなガジュマルの木の下で一緒に弁当を食べながら、これからのことを聞きました。戻ったら第二志望校の試験があること、大学に行って国際的な仕事に就きたいこと。でも第一志望校に落ちたから夢は叶いそうもないと嘆く生徒に「人生の勝ち負けは高校で決まるものではない。私なんか大学出る時ですら自分の生き方が定まっていなかった」と自慢にもならない話をすると「へーっ」とした顔で見返されました。あれから7年、時折届く近況には元気に頑張っていることが書かれており、成長が楽しみでした。
手紙の結びに、「どうぞ今後ともご指導ご鞭撻をいただきますよう、よろしくお願いいたします」とありました。学生の時にはおそらく縁のなかった表現に、春から始まる新しい生活へ緊張と初々しい決意が感じられ、久しぶりに清々しい気持ちになりました。がんばれ、新人。
私は、LINEやツイッターなど、スマホの画面は「読む」のではなく、「見て」いるのではないかと思うことがあります。書いてもいません。記号を入力しているだけです。ですから「既読」の通知は「読んだ」ということではなく「見た」という記号が自動的に入力されただけです。「既読スルー」はその典型で、書かれた内容を理解したかどうかより「見た」というレスポンスの方が重視されるわけです。
とにかく、膨大な量の情報が次々と提供され、時間をおかずに更新される状況の中で、いちいち文章を読んでいたのでは置いていかれます。読まずに見るだけで「読んだつもり」「わかったつもり」になるだけでいいのです。どうせ、すぐ古くなってしまう話ですから。
最近の本にはそんな風潮を見越したようなものが増えてきたような気がします。ネット上に飛び交ういい加減な記述(検証も実証もされていない俗説や自説)をそのまま転載したと思われるような本が店頭に並び、結構売れているようです。読んでいるのでなく、見ているだけなら内容の良し悪しが問題にならないのは当然かもしれませんね。
「読む」ということは「言葉を通して考えること」です。「見る」から「読む」への転換を。
ClassQを進めるべし。(イデちゃん)
「読む」の再定義を
町を歩くと、大勢の働く人と出会えますね。イデちゃんが建設現場なら、私は川のほとりで。作業員さんは、水位計の横に警戒水位を示す白線を引いている最中でした。「水がここまで来たら、すぐに逃げてください」という助言もいただきました。
我が家はかつて床下浸水したことがあるので、雨が降り始めたら空模様と川から目を離せません。川の流れを読み誤ったら、一大事。我が家にとって「読む」は命懸けなのです。
イデちゃんの書いていた「小さい時から読む、書くを大切に」はごもっともです。そのためには、「読む・書く」を再定義する必要があるかもしれません。
スマホ登場以来、子どもたちは十分に読んだり、書いたりしているはずです。「中毒」と言ってもいいほど、毎日たくさんの文字を目にし、書いています。LINEやツイッターなど、スマホの画面から、たくさんの文字が流れ出してきます。学生や子どもたちにとっては、画面をスクロールすることも「読む」。LINEのアプリを開いて「既読」をつけても「読んだ」ことになるでしょう。
ところが、「本を読む」だけは別格のようです。これほど朝から晩まで読んでいても、「読書は苦手」「頭がついていかない」「集中力がもたない」と訴えてきます。紙の本だけでなく、電子書籍も変わらないといいます。紙の本は読まないけれど電子書籍は読む、という学生にはまだ会ったことがありません。
やりとりを重ねるうちに、学生の考えている「本を読む」のハードルが高めに設定されていることに気づきました。「速読」「精読」「熟読」そして「読了」「読破」です。早く、丁寧に、深く、それを最後まで。
評論家の中村真一郎が30年かけて一冊の小説を読了した経験を書いていました。小説家の堀辰雄に「ゆっくり読む訓練をしないと、芥川(龍之介)さんのようになるよ」と注意されたことがきっかけだったとか。堀は中村のために、テキストを1行ずつ時間をかけて読む輪読会まで催してくれました。ちなみに、30年かけて読んだ小説のストーリーは、漠然としてわからなくなっていたそうです(中村真一郎『本を読む』)。
私たちはどんな「読む」を期待しているのでしょうか。30年かけて読んで、終わった頃にはストーリーもわからない状態がありなら、1行読んであとは積ん読もあり。積ん読ならば、紙の本でないとできませんね。スマホに収納された電子書籍の存在はすぐに忘れてしまいます。
いずれにしても、「読む」の再定義は必要です。たぶん「書く」も。(マツミナ)
言葉で考える
昨年秋から我が家の周りは新築ラッシュです。最近は工場で加工した部材を現地で組み立てる方法が多くなり、棟上げの時は資材を積んだトラックが何台も道路に並びます。工事現場は一方通行の道路に接続する袋小路の先にあるため、工事の行程を管理する現場監督はトラックやクレーン車の配置に神経を使います。近くの広い道路にトラックを待機させ、順番に呼び込むのですが、手順を間違うと進入する車と退出する車が狭い道路でお見合いになり、動きが取れなくなってしまいます。昔人気のあったゲームソフト「涙の倉庫番」のリアル版です。
仕切っていたのは若い女性の監督でした。先に大きなクレーン車を配置した後、手にしたタブレットを操作してトラックを順序よく呼び込んで、滞りなく棟上げを終えました。聞けば、事前に周辺道路の状況を読み込み、組み立ての順番をシミュレーションしたそうです。朝夕、私のスカイラインが車庫を出入りする時間も知っていました。終日作業を眺めていた暇な先住民は、彼女に「ご迷惑をおかけしました」と挨拶され、思わず「『涙の倉庫番』ってゲーム知っていますか」って聞いたら、怪訝な顔をされました。
デジタル教科書は想像力を損なうかもしれないという危惧は当たっているでしょう。これまでの文字や写真やイラスト等で構成された教科書(仮にアナログ教科書とします)とデジタル教科書では提供される情報量は比べ物にならないほど違います。音や動きも一体的に提示でき、まさに至れり尽くせりで、今川義元も大喜びの代物です。
文字だけで表現された情報を理解するために、読み手は五感を駆使して文字情報を映像に再構成する必要があります。経験のないことを理解することは大変難しい作業ですね。知っていることを手がかりに調べたり考えたり、あれやこれやの想像を回らして、なんとか具体的な形あるものに構成していくわけですから。ですから、初めから映像で提供されたら再構成の手間が省け、その分、短時間に大量の情報を得ることができるわけです。が、情報の再構成という知的な作業を省略するとミナさんの危惧することになるでしょうね。
とはいえアナログ教科書に固執しても、世の中のあらゆる場面でデジタル化が進められる中では蟷螂の何とかかもしれません。そこで私は「情報は自分でつかんでこそ、自分のものになります」というミナさんの警句を「どんな形で情報を得ようと、それを一度自分の脳みその中に落とし込み、自分の言葉で再構成しなければ自分のものにならない」と理解しました。
そのためには小さい時から読むこと、書くことを大切にし、言葉を通して考え表現する力を育てることです。生きた知の源泉はアナログの世界にあるのですから。(イデちゃん)
デジタル教科書は想像力を養うか
1月に逮捕されたわいせつ教員は想像力に欠けていた、というイデちゃんの言葉に同意します。となると、想像力欠如はこの教員固有の問題か、教員養成・採用システムの問題か、それ以前の問題かも考えないといけませんね。
想像力を損なうかもしれないという点では、デジタル教科書もイヤな感じがします。1月27日に文部科学省が公表したデジタル教科書の本格導入に関する中間まとめ案を読んで、さらにその思いを強くしました。中間まとめ案には、紙の教科書とデジタル教科書について、「全てデジタル」「併用」「デジタルが主で、補助的に紙」などの5案が書かれていました。
行政文書にありがちな「海外の先行例」として、なぜか韓国を挙げていました。苛烈な受験戦争で知られ、学ぶことを楽しむどころではない国です。留学生からも苦しい体験談をずいぶん聞いています。そこでどんな教育が行われているか、子どもにどんな影響を与えているか、どんな成果があるかも書かないで「初等学校の80.4%、中学校の69.8%においてデジタル教科書が使用されている」ですか。だから、なんだというのでしょうか。これを書いた人の想像力を疑います。
IT化の遅れを一気に取り戻したい。その一方策として、デジタル教科書を使わせたいようです。で、その結果、どんな人が育つでしょうか。
私が授業「質問力を磨く(ClassQ)」で使うのは、紙の新聞です。学生にはデジタルではダメ、と伝えています。その理由の一つは、紙の新聞の方が想像をかきたててくれることです。
紙幅には限りがあるから、字数が制限されます。新聞記者時代によく言われたのは「100取材して99捨てる」。記事にはたった「1」のエキスしか書けないのです。写真の枚数も限られています。捨てられた「99」と掲載されなかった写真は、読み手が自分の想像力をフルに使い、他の情報を組み合わせて補うしかないのです。
情報は自分でつかんでこそ、自分のものになります。不便や不足が工夫を生み、力をつけてくれます。画面をタッチした情報で動くのは、目だけ。1から10まで説明されたら、頭の中は動きません。
と、ここまで書いて、晩ご飯の買い物に出かけました。そして、スーパーのレジで、「またやった」と舌打ちをする羽目に陥りました。財布がない。確か、昨日の夕方、いつも背負っているリュックからエコバッグに財布を移し替えたっけ。リュックに戻さないと忘れるかもなあと、昨日の私は想像したか。もう~他人さまの想像力を批判する資格はないよ、私に。
困った表情の店員さんを前に、私はどうしたでしょうか。皆様の豊かな想像力にお任せします。(マツミナ)
想像力の欠如と社会の劣化
右手の親指の先に、半世紀ぶりにアカギレができました。絆創膏を巻いたら、指紋認証で行っていたスマホのロック解除ができなくなってしまいました。使うたびにコードを入力するのは、面倒です。PCのタッチパネルも感知してくれません。たった一本の指先の不具合で、結構ストレスが溜まりました。
アカギレに悩まされていたら、もっとでっかいストレス源が飛び込んできました。現職教員がわいせつ行為をした疑いで逮捕されたという報道です。しかも、我が杉並区。
事件を知った誰もが子どもたちの心の痛手を気遣い、この教員のしたことの愚かさに「何を考えているのだ」「なんてことを」と憤慨し、教員を非難するのは当然です。最大の被害者は、この教員が担任する学級の子どもたちです。大人や社会に対する不信や不安は、理想や正義の軽視や否定につながりかねません。学校や教育への信頼は地に堕ちます。
地方公務員法33条に「職員は、その職の信用を傷つけ、又は職員の職全体の不名誉となるような行為をしてはならない」とあります。非違行為*をした教員は地方公務員法違反も問われ、懲戒処分を受けることになりますが、それでことは終わりません。失った信頼を取り戻すために学校を始めとする関係者は膨大な非生産的エネルギーの消費を強いられます。私がこの新聞記事を読んで「でっかいストレス源」と言ったのはそのことを指します。
この教員は処分決定まで勤務から外されますから後任が必要ですが、年度末に正規教員を求めることは困難です。校長は保護者に対する説明や区教委・都教委への報告を求められます。学校に押しかける報道関係者への対応も必要です。学校全体が落ち着かなくなりますから当該学級だけでなく、全校児童への配慮も欠かせません。正義や真理を学ぶ場である学校で、こんな非生産的で理不尽なことのために膨大なエネルギーと時間を費やすことを強いられるのです。事の重大さを知れば知るほど、暗澹たる気持ちになります。
一体彼は何を考えていたのでしょうか。私は、何も考えていなかったと思います。少しでも自分の職責や社会的身分を思えば、こんなことをするはずがありません。恐ろしいほど想像力が欠如しています。これから捜査を通していろいろな事実が判明し、あれやこれやの理由や動機が明らかにされるでしょうが、想像力の欠如こそ最大の原因であると考えます。
夜の8時過ぎに銀座に繰り出す国会議員の想像力の無さにも呆れるばかりですが、最も豊かな想像力が求められる教師という仕事を考えると事態は重大です。想像力を支えるのは考える力です。
ミナさんが「学びを深めるには、立ち止まって考える時間が必要ですが、大学の教職課程は詰め込みすぎで、それが難しい状態」と書いていました。それが想像力に欠ける先生を生み出しているとしたら教職課程のあり方や教員採用の方法も改めて問題にしなくてはなりません。
思えば、日本の誇る「日本型学校教育」を支えてきたのは人間性豊かな想像力あふれる教師たちでした。社会のあらゆるところで劣化が進んでいます。今こそ「考える先生」の育成が急務です。(イデちゃん)
*非違行為:非法行為と違法行為のこと。行政職員などが、公的もしくは私的に法に反している行為をさす。
「わいせつ教員」は考えていたか
今朝、読売新聞朝刊を見て、仰天しました。
〈児童買春の疑い 小学校教諭逮捕 警視庁〉
逮捕された教員は、私がよく知っている小学校に勤めています。年明け早々、関係者から「新型コロナウイルスに感染した教員」と聞いていたために、その名をよく覚えていました。
記事を読んでさらに驚きました。
〈昨年9月、新宿区歌舞伎町のインターネットカフェで、SNSで知り合った女子中学生(14)が18歳未満と知りながら、現金2万円を渡してわいせつ行為をした疑い。容疑を否認しているという〉(1月30日付読売新聞朝刊14版より)
この教員は、あるクラスの担任です。昨年9月からコロナ感染などで休んだ以外は、子どもたちの前で「先生」として立っています。国語や算数はもちろん、道徳も教えてきたでしょう。
私は「道徳オタク」を自称しているので、すかさず学習指導要領を確認しました。たとえば小学校3、4年で学ぶ道徳の内容項目を見ると、最初は「正しいと判断したことは、自信をもって行うこと」(善悪の判断、自立、自由と責任)、次に「過ちは素直に改め、正直に明るい心で生活すること」(正直、誠実)……。
クラスの子どもたちはこのニュースをどう受け止めたのでしょうか。読んでいるうちに悔しくなり、学習指導要領を閉じました。
これからいろいろな事実が判明することでしょう。その中では、教員採用や教職課程のあり方も改めて問題にしてほしいものです。
でも何より知りたいのは、この教員の思考回路です。彼は考えたでしょうか。先生は、子どもたちにどう見られているか。自分の行為で子どもたちは傷つかないだろうか――自分を客観視し、これからの行いを考えていたでしょうか。
「考える先生」を育てる仕組みをつくりましょう。このブログの初回でうたった「屋根のない学校」で。学校だの、大学・学部だの、自治体だの、という既成の壁をぶち破った大空の下で。(マツミナ)
考える先生を育てよう
「日本型学校教育」の海外展開を中古車の輸出に例えたら、目ざとく見つけた友人から早速メールが来ました。「エジプトでは、学級会や掃除、日直などの特別活動を中心とした日本型教育を採用する小学校が増えている。サウジアラビアでは小中学校や高校に、日本の道徳教育をモデルにしたモラルエジュケーションが導入されている」と教えてくれました。
10年ほど前、モンゴル国の教育関係者が、特別活動や学校給食を自国の教育に導入するために、東京23区内の小学校を参観に来たことがあって、特別活動“Tokkatsu”が注目されていることは承知していました。
教員が教科指導、生徒指導、部活動指導等を一体的に担う「日本型学校教育」のよさと、教員の勤務実態をはじめとしたさまざまな課題は表裏一体です。現状のままの指導体制でこれまでと同様の効果を上げていくことがどう考えても困難な「日本型学校教育」をそのまま輸出したのでは、いずれはその国々も今の日本と同じ状況に遭遇することになるのではないでしょうか。老人の杞憂であればいいのですが。
ところで、前に今川義元の「むごい教育」について書きましたね。杉並区立済美教育センター主任研究員がこんな指摘をしていますので紹介します。
「杉並のように学校の裁量を拡大してさまざまな教育資源を拡充する方向で施策展開をしていくと、典型的にぶつかる壁があります。
『一斉一律に管理・監督されるから考えなくなる』という状態から、『個別具体に支援してもらえるから考えなくなる』という状態への移行です。行政依存による思考停止の新たな形態とも言えるこのことは<支援>を施策や事業として具体化するに当たっても、(略)避けて通れない問題です。このことを理解するための補助線として、水泳指導を例にしたいと思います。
『区として中止の基準を一律に決めてほしい』」
『教育委員会が決めてくれなければ学校は動けない』」
(山口裕也「教育は変えられる」講談社現代新書 2021年)
義元の「むごい教育」は現代にも生きていました。私は校長先生たちに「むごい教育」をしてしまったようです。「ICT活用指導力を養成することや,学習履歴(スタディ・ログ)の利活用などの教師のデータリテラシーの向上に向けた教育などの充実を図っていく」ためのベースには「考える力」が不可欠です。「考える学生」「考える先生」「考える校長」を育てましょう。 GIGAスクールの時代に「お払い箱」になるのは「考えないセンセイ」ですから。
「考える先生」は不要か
今日午後、東京に雪が降りましたね。背中を丸めて足早に行き交う大人たちの横で、一本の傘の下で肩を並べて歩く小学生二人とすれ違いました。黒いランドセルを背負い、黄色い帽子をかぶった男の子たちの表情は、なぜかうれしそう。「つもるといいね」。そんな声が耳に入ってきました。非日常的な毎日の中の、そこだけは前と変わらない風景でした。中教審の「令和の日本型学校教育」答申は、この子たちの日常と未来をどう変えていくのでしょうか。
理解し難い答申でした。たとえば、いま学校や先生は大変なんだとその窮状を書き連ねながら(12ページ)、「ICTの利活用」という仕事を増やそうとしている。なぜでしょうか。
「個別最適な学び」のために、子どもの実態把握が大事ということはわかります。でもなぜ「その際,ICTの活用により」と方法を限定しているのでしょうか。具体的には、学習履歴や生徒指導上のデータ、健康診断情報等の蓄積・分析・利活用を挙げています。さらっと書いていますが、データの分析と利活用は大変ですよ。先生たちが子どもと向き合う時間をさらに奪う結果にならないでしょうか。「教師の負担を軽減」につながるのでしょうか。実現可能性に疑問はないでしょうか。
コロナ禍で、公立小中学校のICT利活用レベルが低いことが再認識されました。ホームページの更新をしていなかったり、連絡方法は紙の「お便り」中心だったりする学校は珍しくありません。愚息の小学校では、令和3年の今も、平成31年度の年間行事予定がホームページに貼り付けられていました。
蛇足ですが、愚息は始業式の日程がわからず、うろ覚えの記憶を頼りに出かけ、「誰も来てなかった」とスゴスゴと帰宅しました。もちろん、連絡帳に書かなかった愚息が悪い。
現役の先生たちだけでなく、教職課程の大学生にもICTを習得してほしいようですね。
「ICT活用指導力を養成することや,学習履歴(スタディ・ログ)の利活用などの教師のデータリテラシーの向上に向けた教育などの充実を図っていくことが求められる」
大学の教職課程はすでに詰め込みすぎです。先日、ある国立教育大学の学生たちが「授業が多すぎてパンパンです」とこぼしていました。学びを深めるには、立ち止まって考える時間が必要です。けれども、それが難しい状態というのです。
学生時代に考える時間を持たなかった人でも、教壇に立つと「考える先生」になれるのでしょうか。それとも「考える先生」はそもそも求められていないのでしょうか。(マツミナ)
「令和の日本型教育」に質問
1月26日、中教審が「『令和の日本型学校教育』の構築を目指して~全ての子供たちの可能性を引き出す、個別最適な学びと、協働的な学びの実現~」と題する答申を公表しました。詳しい読みは今後出回る専門家の解説に委ねることとして、ここでは市井の老人からの質問を挙げておきます。
*その1「令和の日本型教育」の推進
文科省の説明(中央教育審議会 > 初等中等教育分科会 > 初等中等教育分科会(第106回) 配付資料 > 資料3-2 次世代の学校指導体制の在り方について(最終まとめ)〈本文〉 > 1.我が国における「学校」の現状を切り貼りすると、「日本型教育」の特徴とは学校教育を「教員が,教科指導,生徒指導,部活動指導等を一体的に行う」ことで「学力面では,OECD・PISA調査等の各種国際調査を通じて世界トップレベルとなっているとともに,勤勉さ,礼儀正しさなど道徳面,人格面でも評価されて」おり「海外展開が要望されるようになっている」。しかし、「こうした教員の献身的な取組は,日本の学校教育の高い成果に貢献している一方で,教員に大きな負担を強いている状況にあり」、「現状のままの指導体制で,これまでと同様の効果を上げていくことは困難になっている」。だから今の時代にふさわしい「令和の日本型教育」を推進しなくてはならない――ということかな。
そこで質問です。日本型教育の「海外展開が要望されるようになっている」とのことですが、それって中古の自動車を発展途上の国に輸出して儲けるのと似てませんか。
*その2「個別最適な学び」と「孤立した学び」
ICTの活用や少人数指導により「個に応じた指導」を充実させ、個別最適な学びを実現するとともに、個別最適な学びが「孤立した学び」に陥らないよう、探究的な学習や体験活動を通じた「協働的な学び」を行うことによって、「集団の中で個が埋没してしまうこと」のないようにすること。そのために「これまで以上に子供の成長やつまずき、悩みなどの理解に努めること」と言われても、現場は忙しくてこれ以上仕事を増やすことは無理です。千手観音や聖徳太子のようにはいきません。
二つ目の質問です。先生の数、もっと増やしてくれますか。もちろん非常勤ではなく、正規雇用の先生です。
*その3「GIGAスクール構想と先生の仕事」
「GIGAスクール構想で1人1台の端末が整備されれば、学習履歴など教育データの活用、全国学力・学習状況調査のCBTでの実施、デジタル教科書・教材の普及促進、不登校児童生徒への支援などに生かすことができる」。「教師や学校は、変化を前向きに受け止め、求められる知識・技能を意識し、継続的に新しい知識・技能を学び続けて、教師自身がICTを活用した指導など新たなスキルを習得できるように」がんばりなさい。そして、足らなければ「多様な知識・経験を有する外部人材」の力を借りなさい。
三つ目の質問です。GIGAスクール構想に乗れない先生はお払い箱ですか。(イデちゃん)
言葉を紡ぐやりとり
しいのきとしいのみをどう扱ったものか悩んだ小学校1年生の言葉は、やりとりから紡ぎ出したともいえますね。唐代の詩人も、先達とやりとりしたのでしょうね。下書きをパソコンで打った学生はやりとりしたのでしょうか。
私が手書きでの課題提出を思いついたのは、剽窃対策のためでした。新聞記者時代の経験を踏まえています。あちこちの大学で問題化していた剽窃を取材したことがありました。
インターネットで検索した誰かの文章をコピー&ペーストする行為は、泥棒です。書いた人に大変失礼だし、自分の未来にも傷をつける恐ろしい行為です。そこまでは想像つくけれども、締め切りが目前にあると、つい……ということでしょうか。学則で剽窃を厳しく罰する大学もありましたが、根絶できたと聞いたことはいまだにありません。
手書きを導入した結果、予想以上の収穫がありました。コピー&ペーストと違って書き写すのは手間がかかります。何行にもわたる文章を書き写すのは骨が折れるから、そのうち学生は要約をするようになりました。よく読んで文意をつかみ、簡潔にまとめようとする。自分が書いていた文章の流れにはめ込むために。そこで、一つ一つの言葉にまで、ひっかかりが生じます。あれ、なぜ著者はこの言葉を使ったのだろう。さっきは違う言葉を使っていたような気がする――。書き写したり、要約したりと文章と奮闘しながら、学生は著者とやりとりを始めていたのです。
中には辞書を引いて言葉を増やすことを思いつく学生もいます。「センセー、いい辞書があったら紹介してください」と聞いてくれることもあります。待ってました、その一言。私が薦める辞書は、「新明解国語辞典」(三省堂)。「火炎瓶」の作り方や使い方、さらにはかぞえ方まで書いているユニークな辞書は、ほかにはありません。辞書は時代の変化も語ってくれます。先日出された8版で「恋愛」を引いてみたら、LGBTへの配慮でしょうか、『特定の異性に』(4版)から「異性」が消えていました。『特定の相手に対して他の全てを犠牲にしても悔い無いと思い込むような愛情をいだき、常に相手のことを思っては、二人だけでいたい、二人だけの世界を分かち合いたいと願い、それがかなえられたと言っては喜び、ちょっとでも疑念が生じれば不安になるといった状態に身を置くこと』(新明解国語辞典8版より)
この熱い書きっぷりたるや。辞書の編集者たちは、きっと学生を広くて深くて楽しい言葉の世界に誘ってくれることでしょう。
手書きをきっかけに、たくさんのやりとりが生まれるはず、と期待しているのです。甘いかな。(マツミナ)
考え、悩み、ことばを選ぶ
先週末、関東甲信越地方に大雪警報が出されました。急用で長野にいた私は帰路の雪を心配していました。少し前に起きた関越道や北陸道のような大渋滞になったら大変です。高速道路の入り口で冬用タイヤ装着のチェックを受けましたが、明け方降った雪は既に除雪されており、渋滞なく帰ることができました。途中、立ち寄ったサービスエリアは駐車している車も疎らで、霧立ち込める妙義の山塊は山水の水墨画を見るようでした。
さて、「意味もろくに調べず論文を書く学生」の「言葉に対する愛着のなさ」を嘆くミナ先生にいい話を教えましょう。小学校の校長の時に出会った1年生の算数の時間の一場面です。
グループの3人で話し合いながら、繰り上がりのあるたし算の問題を作っていました。
「しいのきが8本ありました。それから、しいのみが9……」
「9ほん? じゃないよね」
「9こ、だよ」
「そうだね」
「……しいのみが9こありました。ぜんぶで、なんこになるでしょう」
「ちょっとまって、なん本じゃないの。」
「だって、しいのみは9こだよ。」
どうやら単位の違いに戸惑っているようです。
さあ、どうするとながめていると、
「じゃあ、ぜんぶで、いくつになりますかってしたら?」
苦心惨憺して出した結論、決して正解とはいえないけれど、この発想のやわらかさは大したものです。なるほど。お主、なかなかやるな、って感じで、いい気分になりました。(S区立K小学校「学校だより」1996年11月号校長巻頭言から一部転載)
今だったら迷わず「いいね」です。
「頭の中をかき回し、言葉や文字を引きずり出す」のは大変な作業です。唐の詩人は月下の門を前にして、「推す」がいいか「敲く」とすべきかと呻吟し、先達に助けを求めました。小学1年生も考えました。「本」にするか「個」にするか、that is the question. 考え、悩み、3人のやりとりの末、選んだのが「いくつ」だったのです。
「主体的、対話的で深い学び」の推進なんて掛け声が聞こえ始める以前、25年も前の話です。(イデちゃん)
「格別大事に」されている学生
今川義元の「むごい教育」には、大いに考えさせられました。
「朝から晩までうまいものを食わせ、冬は暖かくし、夏は涼しくなるように、格別大事にすることだ」。これなら、たいていのヤツは骨抜きにされますね。
学生の論文を読んでいると、ひょっとしたら「うまいもの」はスマホやパソコンで、「格別大事に」してくれるものはSNSではなかろうかと思い至ったのです。
学生の論文の共通点は、言葉に対する愛着のなさです。例えば、学生が出してきた論文「職種の研究」でこんな記述がありました。
〈営業職に必要な要素をインターネットで検索すると「細かいことに気づく配慮」が挙げられていた。この資質は技術職としてプログラミングを設計する際にも必要とされる。…略…ニーズに応えられるために必要なこのスキルは、技術職と営業職で共通している〉(下線はマツミナ)。
下線部の「要素」「資質」「スキル」は「同じ意味」として書かれているようです。おそらく「同じ言葉の繰り返しは避けたい」と考えたのでしょう。それは評価してもいいけれど、インターネットで検索した程度であることを臆面もなく論文に書いて、しかも意味もろくに調べずに書く感覚に驚きました。学生本人に確認したら、この予想が当たっていたので、がっかりです。
言葉を雑に扱う理由の一つは、スマホなどで言葉を打つことが習い性になっているからと見ています。スマホは、思いついた言葉をサッと出してくれます。しかも使い手の傾向を読み取って、「予測変換」までしてくれます。
そんな雑に扱われた言葉でも、LINEやインスタなどに載せると、なぜだか「いいね!」という好反応をもらえます。承認されるのが当たり前になったら、ますます言葉を磨かなくなるのではないでしょうか。つまり頭を使わなくなっているのです。
ところが、手で書く時は違います。頭の中をかき回し、言葉や文字を引きずり出さなければならない。何度も書き直さなければいけないし、順序を入れ替えたりするのは一苦労です。時間がかかる作業です。だからこそ「ClassQ」では、学生に手書きを課しています。機器ではなく、自分の頭を使ってほしいからです。自分の目で文字を見て、手が真っ黒になるほど書いて消して、音読して首をひねるという全身運動で、言葉と格闘してほしかったのです。
ところが、学生にしてやられました。下書きをパソコンで打って、原稿用紙に写していたのです。「格別大事に」してくれるものの力は格別強い、ということなのでしょうか。(マツミナ)
「格別大事に」されている学生
今川義元の「むごい教育」には、大いに考えさせられました。
「朝から晩までうまいものを食わせ、冬は暖かくし、夏は涼しくなるように、格別大事にすることだ」。これなら、たいていのヤツは骨抜きにされますね。
学生の論文を読んでいると、ひょっとしたら「うまいもの」はスマホやパソコンで、「格別大事に」してくれるものはSNSではなかろうかと思い至ったのです。
学生の論文の共通点は、言葉に対する愛着のなさです。例えば、学生が出してきた論文「職種の研究」でこんな記述がありました。
〈営業職に必要な要素をインターネットで検索すると「細かいことに気づく配慮」が挙げられていた。この資質は技術職としてプログラミングを設計する際にも必要とされる。…略…ニーズに応えられるために必要なこのスキルは、技術職と営業職で共通している〉(下線はマツミナ)。
下線部の「要素」「資質」「スキル」は「同じ意味」として書かれているようです。おそらく「同じ言葉の繰り返しは避けたい」と考えたのでしょう。それは評価してもいいけれど、インターネットで検索した程度であることを臆面もなく論文に書いて、しかも意味もろくに調べずに書く感覚に驚きました。学生本人に確認したら、この予想が当たっていたので、がっかりです。
言葉を雑に扱う理由の一つは、スマホなどで言葉を打つことが習い性になっているからと見ています。スマホは、思いついた言葉をサッと出してくれます。しかも使い手の傾向を読み取って、「予測変換」までしてくれます。
そんな雑に扱われた言葉でも、LINEやインスタなどに載せると、なぜだか「いいね!」という好反応をもらえます。承認されるのが当たり前になったら、ますます言葉を磨かなくなるのではないでしょうか。つまり頭を使わなくなっているのです。
ところが、手で書く時は違います。頭の中をかき回し、言葉や文字を引きずり出さなければならない。何度も書き直さなければいけないし、順序を入れ替えたりするのは一苦労です。時間がかかる作業です。だからこそ「ClassQ」では、学生に手書きを課しています。機器ではなく、自分の頭を使ってほしいからです。自分の目で文字を見て、手が真っ黒になるほど書いて消して、音読して首をひねるという全身運動で、言葉と格闘してほしかったのです。
ところが、学生にしてやられました。下書きをパソコンで打って、原稿用紙に写していたのです。「格別大事に」してくれるものの力は格別強い、ということなのでしょうか。(マツミナ)
むごい教育
MMOのミナ先生にしごかれている学生の困った表情が見えるようです。がんばれ若者!愛の鞭は痛くて優しいのだ。
今日は優しくて怖い話を一つ。
かの今川義元が、幼少の徳川家康を人質として迎えた時、「この子に『むごい教育』をしてやれ」と言ったそうです。家臣がいぶかって、「むごい教育とはどういうことをするのか」とたずねると、「朝から晩までうまいものを食わせ、冬は暖かくし、夏は涼しくなるように、格別大事にすることだ」と答えたとか。そして、「そうすればたいていのヤツはだめになる」と……。
さすがに天下をとった家康、結果はその通りにはなりませんでしたが、義元の言、大いに考えさせられるものがあります。
最近の子ども達は歯応えのある固い食べ物を敬遠し、ハンバーグのような軟らかいものを好む傾向があるそうです。軟らかいものばかり食べていると噛みしめる力が不足して、歯や歯茎、あごへの刺激が薄れ、そのために歯並びが悪くなったり、奥歯の成長が遅れたりするとも聞きます。
また、あごの運動は脳に対して効果的な刺激をもたらしており、噛む力の減退は消化不良や肥満の原因となるばかりでなく、脳の発達にとっても好ましいことではないという報告もされています。
困難や苦痛に対する耐性(こらえ性)のない子どもの増加が指摘されていますが、こうした食べ物の変化と何か関係があるのかも知れません。
「固い食べ物」を「固い本」に置き換えてみましょう。
最近の若者は読み応えのある固い本を敬遠し、S N S上の軟らかいものを好む傾向があるそうです。軟らかいものばかり読んでいると考える力が不足して……。
固い本を読むことは脳に対して効果的な刺激をもたらしており、読む力の減退は理解力減退の原因となるばかりでなく、脳の発達にとっても好ましいことではない。
考えたり、表現したり、主張したり、議論したりする力の低下が指摘されていますが、こうした読み物の変化と何か関係があるのかも知れません。
学生を鍛えましょう。そして、学生を教える先生も「むごい教育」をしないように鍛えなくてはなりませんね。(イデちゃん)