idematsu-qのブログ

屋根のない学校をつくろう

社会の風が学生を変える

 

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添削の後はスイーツ(マツミナ)

 授業後に学生たちが書く「リフレクションシート」を見るたびに、時代を感じます。「読み手への配慮」が年々、薄れているような気がします。自分の書いたものにみんなが「いいね」をしてくれると思っているのでしょうか。

 

 まず字が汚い。行の下半分に小さくて薄く、乱暴な字を書き連ねています。

 ノートがわりのメモも散見されます。リフレクションシートで狙っているのは、自分の気づきを表現することです。手を使って文字を書けば、何を学んだか、学ばなかったか、わかるはずです。適切な言葉を選び出して使い、論理的に書こうとすれば、文章のトレーニングになります。だから、A4サイズのリフレクションシートの9割は書きなさい、と伝えているのですが、2、3行で終わらせる学生もいます。名前すら書いていない学生もいます。

 オンライン授業になっているため、リフレクションシートは書いた後、写真に撮って送るよう伝えています。小さくて薄い字だけでも相当読みづらいのに、真っ暗だったり、曲がっていたりすると、全く読めません。送る前に確認をしていないことがわかります。ひょっとしたら「自分が送ったものを先生が読むのは当たり前」と考えているのでしょうか。

 エントリーシートでこんな文字と文章を書いたら、読んでもらえないと学生は知っているでしょうか。そもそも小中学校や高校で、どんな指導を受けてきたのでしょうか。先生たちは何を添削していたのでしょうか。どこから手をつけたものか、頭を抱えてしまいます。

 

 そうした学生をしばしば、社会の風が変えてくれます。もう2年以上、「質問力を磨く(Class Q)」で学んでいる学生もその1人。今では、濃く大きく丁寧な文字で、わかりやすい文章を書けるようになりました。

 きっかけは、Class Qに参加しているある企業経営者からの「ダメ出し」でした。ある日、学生は何かの企画書を書き、経営者に読んでほしいと頼みました。それに対する経営者の回答は、

 

「読みたくない。字が汚いから」

 

 学校の先生にはおそらく言えないセリフでしょう。突き返されて初めて、学生は自分の書いたものを客観的に見ることができました。「読みたくない状態」だと知ったのです。 

 自分の書いたものを他人が読んでくれる。それは当たり前ではなく、ありがたいことです。みんなが「いいね」をしてくれるわけではないと知った時、学生は変わる機会を手にできます。(マツミナ)

社会の風が学生を変える

 

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添削の後はスイーツ(マツミナ)

 授業後に学生たちが書く「リフレクションシート」を見るたびに、時代を感じます。「読み手への配慮」が年々、薄れているような気がします。自分の書いたものにみんなが「いいね」をしてくれると思っているのでしょうか。

 

 まず字が汚い。行の下半分に小さくて薄く、乱暴な字を書き連ねています。

 ノートがわりのメモも散見されます。リフレクションシートで狙っているのは、自分の気づきを表現することです。手を使って文字を書けば、何を学んだか、学ばなかったか、わかるはずです。適切な言葉を選び出して使い、論理的に書こうとすれば、文章のトレーニングになります。だから、A4サイズのリフレクションシートの9割は書きなさい、と伝えているのですが、2、3行で終わらせる学生もいます。名前すら書いていない学生もいます。

 オンライン授業になっているため、リフレクションシートは書いた後、写真に撮って送るよう伝えています。小さくて薄い字だけでも相当読みづらいのに、真っ暗だったり、曲がっていたりすると、全く読めません。送る前に確認をしていないことがわかります。ひょっとしたら「自分が送ったものを先生が読むのは当たり前」と考えているのでしょうか。

 エントリーシートでこんな文字と文章を書いたら、読んでもらえないと学生は知っているでしょうか。そもそも小中学校や高校で、どんな指導を受けてきたのでしょうか。先生たちは何を添削していたのでしょうか。どこから手をつけたものか、頭を抱えてしまいます。

 

 そうした学生をしばしば、社会の風が変えてくれます。もう2年以上、「質問力を磨く(Class Q)」で学んでいる学生もその1人。今では、濃く大きく丁寧な文字で、わかりやすい文章を書けるようになりました。

 きっかけは、Class Qに参加しているある企業経営者からの「ダメ出し」でした。ある日、学生は何かの企画書を書き、経営者に読んでほしいと頼みました。それに対する経営者の回答は、

 

「読みたくない。字が汚いから」

 

 学校の先生にはおそらく言えないセリフでしょう。突き返されて初めて、学生は自分の書いたものを客観的に見ることができました。「読みたくない状態」だと知ったのです。 

 自分の書いたものを他人が読んでくれる。それは当たり前ではなく、ありがたいことです。みんなが「いいね」をしてくれるわけではないと知った時、学生は変わる機会を手にできます。(マツミナ)

新聞で「誰かの人生」を知る

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散歩の途中で、さくらんぼ狩り。もちろんお許しを得て(マツミナ)

 生活の中から「新聞を読む」時間が消える日ですか? そう遠くはないでしょう。いえ、すでに来ているかもしれません。

 毎学期、授業の初回に新聞を読んでいるかどうかを尋ねます。「読んでいる」学生はほとんどいません。そうした学生は必ずこの質問をしてきます。「どの面から読んだらいいですか」。もちろん、どの面からでもいい、パラパラとめくって目を引いた記事から、と伝えています。

 

 私自身は、一面にさっと目をお通した後、読売新聞ならば家庭欄の「人生案内」を読んでいます。読者からの人生相談に精神科医や弁護士、評論家が答えるコーナーです。実にさまざまな人生模様が語られていて、このコーナーなしに私の朝は始まりません。

 今日(5月2日)の「人生案内」は「亡き夫の両親が過干渉」。小学生の子ども2人を残して他界した夫の両親と今度どう付き合ったらいいかという内容でした。小さい子どもを抱えて大変だろうと義父母は数百万円の札束を抱えて来たこともあったようです。相談者自身は公務員で、貯蓄もあり、お金に困っていない。そもそも他人から援助を受けることをよしとするしつけを受けていないこともあって、対応に困っています。

 

 みんな懸命に生きているけれど、お互いチグハグで、うまく噛み合わない。これが社会なのだな、と実感させてくれます。新聞は、そんなことも教えてくれる「知の泉」です。(マツミナ)

新聞の読み方が変わる

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近くの自然公園は野草の宝庫(イデちゃん)


 新聞の読み方は人それぞれで、読む人の数だけ読み方があるかもしれません。私は最初に1面に目を通し、トップ記事を読みます。関連記事の掲載ページが記されていたら、そこに飛んで記事の幅や奥行きを掴みます。次に最終面の1ページ前(全24ページなら23ページ)に飛びます。トップ記事の解説や関連記事がここに載っていることもありますが、大概は「昨日の出来事」で構成されおり、内容はテレビやラジオと競合しています。このページの記事を「3面記事」と言うのは、新聞が4ページ構成だった頃、1面・2面で政治・経済関係の硬い記事を扱い、3面には社会(世間)で起きた事故や事件を載せた名残りだと聞いたことがあります。 

 それから、2面に戻って、順番に各ページに目を通してから社説や解説を読み、最後に1面のコラムを読みます。面白い特集が掲載されている時は、午後、改めてゆっくり読むことにしています。

 

 以前、役所で仕事をしていた頃は、A,Y,M,S,N,Tの各紙の全ページに1時間以内で目を通していました。「読む」と言うより「見る」という感じです。学生が教わった「見出しで全体をつかみ、写真やグラフなどでイメージをふくらまる」方法とよく似ています。社説やコラムも一通り目を通して、気になるものは時間がある時に、丁寧に読むようにしました。

 その時に注意したことは同じ題材を扱った各紙の論調の違いです。会社によって捉え方や評価が異なり、記事の内容や組み立てにも違いがあります。一つの出来事の表裏を読んで、見方や考え方の幅を広げるようにしました。特に議会開催中は、議員から記事に関連した質問が出されることが予想され、答弁の準備が必要でしたから、必ず全紙に目を通すようにしました。

 

 30余年ほど前、私は八丈島の小学校の校長をしていました。東京から約300km離れた島に、新聞は毎朝、飛行機で運ばれてきます。最初の便に乗せられてきた朝刊が私のところに届くのは正午過ぎです。天候が悪くて飛行機の欠航が続くと、数日分まとめて配達されることになり、新聞が「旧聞」になってしまいます。そんな訳で、島に来てから新聞の読み方が以前と変わりました。ニュース記事よりも解説や特集、シリーズ物をよく読むようになったのです。これらは速報性を主眼としていませんから、一日二日届くのが遅れても情報としての価値が減るわけではありません。島外の出来事を早く知りたければテレビがあります。遅配のもたらすタイムラグが新聞の読み方を変えました。

 

 子供の頃、最も身近な「知の泉」は新聞でした。プロ野球日本シリーズの記事の中にあった「覇権」という文字の読み方と意味を父に教わったことを覚えています。「打率」の意味と計算方法を知ったのも新聞です。私にとって新聞は国語辞典であり、算数の教科書でもあったのです。学校で教わる以上のことを新聞から学びました。

 最近の若者は新聞を読まなくなったと聞きます。若者だけではありません。電車の中で新聞を読んでいる人を見かけることもなくなりました。シートに腰を下ろして辺りを見渡せば、10人中9人がスマホの画面を見ています。新聞に求めるものや読み方が変わり、生活の中から「新聞を読む」時間が消える日が来るかもしれません。(イデちゃん)

学生に学ぶ

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授業後のスイーツは格別。いつでも美味しいけれど(マツミナ)


 授業をするたびに、学ばせてもらっているのは私だな、と痛感します。失敗を思い出させ、改善する道筋も教えてくれます。授業後に学生が提出してくるリフレクションシートは、学びの宝庫です。

 

 一昨日の授業で、新聞を短時間で効率的に読むための方法を伝えました。見出しで全体をつかみ、写真やグラフなどでイメージをふくらませてから記事を読むといいと。

 それに対して、1人の学生がリフレクションシートにこう書いてきました。学生は、長文を読むことが自分の課題だと考えているようでした。

 

 「理解するためには読む順序が大切になる。まず全体を見て、イメージしてから詳しく本文を読む。今回もその順番に従って読んだが、先生に言われた通りに読んだだけだった。ここではこういうことを言っていると頭の中で要約しながら読み進めるべきだ。早く読んで理解するには、トレーニングを重ねることだ」

 

 はっとしました。私の教えた方法は、ふだんの習慣そのままだったと気づきました。新聞記者としてつけてきた習い性です。

 記者時代、文字だけの記事では読者の理解に限界があるため、できるだけ写真や地図、グラフなどのビジュアル素材を用意していました。そのためか記事を読む際も、見出しの後にビジュアル素材で全体構成をつかむ癖がついていたようです。

 「要約しながら読む」は速読、短時間での理解には重要です。ならば見出しから前文、それから写真やグラフという順番で目を動かしていく方が理にかなっています。

 早速、今日の授業で「訂正」しました。学生のリフレクションシートの指摘とともに。

 

 そういえば、記者時代も「お詫びと訂正」を書いたものでした。イベントの紹介原稿を書いた時に、その会場の電話番号ではなく、当時自分がいた支局の電話番号を書いてしまったことがありました。朝からじゃんじゃん電話がかかってきて、終日応対に追われました。

 私は失敗から学べているだろうか。そんなことまで学生たちは考えさせてくれます。

(マツミナ)

透明人間にコートを着せよう

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ジャーマン・アイリス やっと咲きました(イデちゃん)

 先日、「運転免許証更新のための検査と講習のお知らせ」という葉書が届きました。免許証の更新期間満了日の年齢が75歳以上になる人は、更新手続き前に、認知機能検査と高齢者講習を受検・受講する必要があると書かれています。認知機能検査により「記憶力・判断力に心配なし」という判定を受ければ「高齢者2時間講習」に進むことができます。そこで、運転適性検査、双方向型講義、60分の実車指導を受け、晴れて免許更新ができるのです。高齢者の運転事故が多発しています。これくらい徹底しないと危ないと思われているのでしょう。

 

 さて、思い出し話の第2弾です。今日は透明人間になった男の話です。「学生には見えない研究者の姿」を読んで、昔見た映画のこんな場面を思い出しました。透明人間は自分には周りの人が見えていても、周囲の人からは見えません。なぜ目の前にいる自分に気づいてくれないのだろうかと考えた末に、気づきます。「そうだ、自分は透明人間なのだ」と。そこで、彼はコートを着て帽子を被り、自分の姿が相手に見えるようにしたのです。

 

 「なぜ同じキャンパス内にいる大学教員たちの『研究者』としての側面が目に入らないのでしょうか」(マツミナ)。それは、もしかしたら大学の先生たちが「透明人間」だからかも知れません。「目の前にいるのに見えない」のは、目に見える姿で存在していないからなのではありませんか。そうだとすれば、学生に研究者の姿が見えないのは当然でしょう。

 

 「鉄腕アトム」に登場する「お茶の水博士」のように、研究室で白衣を着て、試験管やフラスコの中を見つめていれば、誰が見ても「研究者」に見えるでしょう。でも、人文科学や社会科学の研究者が分厚い原書を広げ、気難しい顔をして読んでいるだけでは、本人は研究者を自認していても「透明人間」のようなもので、周りの者に気づいてはもらえないかもしれません。見えるようにするには、透明人間が「コートを着て帽子を被った」ように、「研究者」と書いた名札を首からぶら下げればいいのです。

 

 大学の先生にとって研究と教育は仕事の両輪のはずです。大学教員という立場にありながら研究論文を書いたことがない先生が増えていると聞きます。自分の専門分野を持ち、学生を指導しながら一緒に研究活動をしていれば、研究とはどういうもので、何をするのかなんていうことは説明しなくてもわかります。研究者」と書いた名札を首からぶら下げるということはそういうことです。透明人間のままでは研究者の姿は見えません。「目の前にいるのに見えない」のは、学生に見る目がないだけでなく、研究者の側にも責任があると思います。


 認知機能検査を受ける後期高齢者の言いたい放題で顰蹙を買いそうなので、最後にちょっと真面目な話をします。「国から研究費助成を受けている研究者は、国内外を問わず、全ての研究資金の受け入れ状況を開示するよう政府が決定」し「研究者が虚偽申告をしたら、研究資金の返還要求や応募制限がかかる」とのこと。今は「研究資金」の受け入れに限定していますが、今後「研究内容」にまで網がかけられるようになったら、ちょっと恐ろしいことになりそうですね。もっとも、今だって研究助成申請の段階で内容はチェックされているといえばそれまでですが。(イデちゃん)

学生には見えない「研究者」の姿

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ノースポール。こんな所で花を咲かせられる(マツミナ)


 目の前にいるのに見えない――といったら、何を思い浮かべますか。

 緊急事態宣言を受け上智大学は休講と決まりましたが、「質問力を磨く(ClassQ)」はオンラインでいつも通りの時間に集まりました。嬉しいことに、学生たちから授業をしてほしいという要望があったからです。数日後には正式にオンライン授業になることも考え、自由参加でZoomでのClass Qを開きました。

 

 この日の記事は、「海外研究資金の透明化 政府方針きょう決定 技術流出禁止」(4月27日付読売新聞朝刊)。

 国から研究費助成を受けている研究者は、国内外を問わず、全ての研究資金の受け入れ状況を開示するよう政府が決定するそうです。研究者が虚偽申告をしたら、研究資金の返還要求や応募制限がかかるなど、厳しい内容です。中国が世界の優秀な研究者を集めている「千人計画」を警戒し、安全保障に関わる先端研究が流出しないよう対策を強化することが狙いです。 

 

 なりきる立場は「研究者」。学生にとっては身近な存在のはずなので、学問分野や年齢など詳細の設定は学生に任せました。「研究者になりきって」この記事を読むと、どんな質問が出てくるのでしょうか。まず、どんな研究者を設定してくるのか、ワクワクしながら水をむけてみました。すると

「社会や世界をよくしたい。そういう思いで国や大学からお金をもらっている人」

「お金がないんじゃないかな」

「科学系の人」

「企業に雇われているかも」

「研究費を不当にもらっている人もいると思います」

「大量殺戮兵器のようなものを作る人」…。

 

 研究者像が、全く抽象の域を出ないのです。ふざけているわけではありません。休講中にもかかわらず、自主講座に出てくる熱心な学生たちですから。にもかかわらず、なぜ同じキャンパス内にいる大学教員たちの「研究者」としての側面が目に入らないのでしょうか。

 

 目の前にいるのに見えない。学生にとって研究者の存在がこんなに希薄になっているのは、なぜでしょうか。(マツミナ)

ミナさんの駅での出来事の話を読んで思い出したことがあります

 

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アンネのバラ。今年2度目の開花

 

 ミナさんの駅での出来事の話を読んで思い出したことがあります。私も似たような経験をしました。駅の改札口に、まだ駅員さんが立っていた頃の話です。小学校校長をしていた頃、学校だよりに書いたものを転載します。

       

                       

 

 夕方の駅は利用客で混み合っていました。帰りの電車に乗るために、改札口の方に歩いて行くと、

「もうっ! だめじゃないの」「お母さんの手をちゃんとにぎってなさいって言ったでしょ」

 若い女性の甲高い声が聞こえました。

声のする方を見ると、小さな男の子が引きずられるようにして歩いています。

 さっきのせりふからすると、手を引いているのは母親のようです。

 「よそ見してたらころぶわよ」「何度言ったらわかるの」

 べそをかきかき、お母さんの後をついて行く男の子の顔が何か言いたげにゆがんでいました。

 

 言葉にならない言い分を想像しながら改札口を通り抜ける時、駅員さんが硬貨の様なものでステンレスの台の縁を叩いているのが見えました。

 『コンコン、コンコン』

 よく通る音です。「何をしているのかな」と思いを巡らしながら階段の方へ向かうと、前方から目の不自由な男性が歩いて来ました。私は少し横に寄って道を開け、傍らを通り過ぎる彼を見送りました。

 『コンコン、コンコン』という音が消えたのに気付いたのは、階段を上り始めた時です。振り返ると、その方は駅員さんと一言二言ことばを交わして出ていきました。

 

 二人は知り合いなのでしょうか。見た限りでは初対面のようには思えません。駅の構内はいろいろな音が交錯しています。到着する列車の音、案内のアナウンス、行き交う人々の足音や話声。二人はそんな喧騒の中で、どんな言葉をやりとりしたのでしょうか。私は足を止めていた階段を再び上りながら考えました。

 もしかしたら、あの二人は知り合いかもしれない。

 だから、駅員はいつも駅を利用する彼に「お帰りなさい」とか言ったのかもしれない。

 そして、「ありがとう」「気をつけて」、そんなやりとりがあったかもしれない。

 もしかしたら、駅員は自分が改札口に立っていることを知らせていたのかもしれない。

 もしかしたら、あの「コンコン」は二人だけに通じる合図だったのかもしれない。

 

 もしかしたら、もしかしたら、勝手にそう思うことにしたら、なんだかとってもいい音を聞いたような気分になりました。 (平成六年六月 久我山小学校学校だより・一部改)

(イデちゃん)

大学の決断

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白雲木花言葉は「壮大」。確かに壮大な名前だ(マツミナ)


 物事は多面体です。人によって見え方やその価値の判断も異なることは珍しくないでしょう。今日、こんな場面に出くわしました。

 

 あるJRの駅で電車を降りると、ホームを挟んだ向かいの電車から白杖をついた女の人が出てきました。おぼつかない足取りです。初めて降りた駅なのでしょうか。慎重に杖をつきながら、点字ブロックを探し当て、手すりを伝って階段を下りていきます。

   ふと見ると、その女性を見ているスーツ姿の男性が4人。声をかけていいのかどうか、でももし転びそうになったらすぐに支えてあげられる距離に。私もその距離にいました。

 階段を下りて踊り場を歩き、次はエスカレーターに向かいます。点字ブロックが途切れているところで、見守っていた男性の一人がすかさず近寄り、すっと女性の腕をつかみました。女性はかなり驚いた様子でした。

 体の一部に触れるどころか、声をかけられても驚いてしまう、と目の不自由な方に聞いたことがありました。おそらく見守る男性陣もその程度のことは認識していたのでしょう。でもその思いを捨てさせるほど、男性は女性を心配したのでしょうね。この女性にとって、私たちそれぞれの対応はどうだったのでしょうか。

 

 緊急事態宣言に対する大学の対応にも、同じ疑問を抱いています。

 ある大学は緊急事態宣言発令前から掲載していた総長コメントを26日も掲載していました。そこでは「対面を継続する」と明言しています。対面を継続できるどんな感染防止策が施されているのか、その宣言からは読み取れません。とにかく学生を安心させたかったのでしょうか。

 「オンライン中心」で対面授業も行うと決めた大学があれば、「オンライン」のみの大学もあります。この場合の「オンライン」はZoomのような同時双方向型だったり、録画した動画や音声を配信する「オンデマンド」だったり、とそれぞれ異なるようです。

 一方、いまだに対応を決めかねている大学もあります。学内で議論となっているのでしょうか。公式サイトからはわかりません。

 

 いろんな学生がいて、授業をする教員の側も多様です。みんなそれぞれの事情を抱えています。多様な人たちが集まるキャンパスにおいて、どんな対応が最もよいのかは見解が分かれるでしょう。

 少なくとも、いきなり「決定」として出すのではなく、どのような議論があったのか、なぜこう判断したのか伝えてもらえれば受け止め方も変わってくるのかもしれません。(マツミナ)

 

大学の決断

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白雲木花言葉は「壮大」。確かに壮大な名前だ(マツミナ)


 物事は多面体です。人によって見え方やその価値の判断も異なることは珍しくないでしょう。今日、こんな場面に出くわしました。

 

 あるJRの駅で電車を降りると、ホームを挟んだ向かいの電車から白杖をついた女の人が出てきました。おぼつかない足取りです。初めて降りた駅なのでしょうか。慎重に杖をつきながら、点字ブロックを探し当て、手すりを伝って階段を下りていきます。

   ふと見ると、その女性を見ているスーツ姿の男性が4人。声をかけていいのかどうか、でももし転びそうになったらすぐに支えてあげられる距離に。私もその距離にいました。

 階段を下りて踊り場を歩き、次はエスカレーターに向かいます。点字ブロックが途切れているところで、見守っていた男性の一人がすかさず近寄り、すっと女性の腕をつかみました。女性はかなり驚いた様子でした。

 体の一部に触れるどころか、声をかけられても驚いてしまう、と目の不自由な方に聞いたことがありました。おそらく見守る男性陣もその程度のことは認識していたのでしょう。でもその思いを捨てさせるほど、男性は女性を心配したのでしょうね。この女性にとって、私たちそれぞれの対応はどうだったのでしょうか。

 

 緊急事態宣言に対する大学の対応にも、同じ疑問を抱いています。

 ある大学は緊急事態宣言発令前から掲載していた総長コメントを26日も掲載していました。そこでは「対面を継続する」と明言しています。対面を継続できるどんな感染防止策が施されているのか、その宣言からは読み取れません。とにかく学生を安心させたかったのでしょうか。

 「オンライン中心」で対面授業も行うと決めた大学があれば、「オンライン」のみの大学もあります。この場合の「オンライン」はZoomのような同時双方向型だったり、録画した動画や音声を配信する「オンデマンド」だったり、とそれぞれ異なるようです。

 一方、いまだに対応を決めかねている大学もあります。学内で議論となっているのでしょうか。公式サイトからはわかりません。

 

 いろんな学生がいて、授業をする教員の側も多様です。みんなそれぞれの事情を抱えています。多様な人たちが集まるキャンパスにおいて、どんな対応が最もよいのかは見解が分かれるでしょう。

 少なくとも、いきなり「決定」として出すのではなく、どのような議論があったのか、なぜこう判断したのか伝えてもらえれば受け止め方も変わってくるのかもしれません。(マツミナ)

 

白馬は馬に非ず

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草取りしてたら、見〜つけた(イデちゃん)


 「白馬は馬に非ず」は詭弁的命題の代表のように言われますが、「酒の飲めない居酒屋は居酒屋に非ず」というのはいかがでしょう。

 新型ウィルスの感染拡大に伴う3度目の緊急事態宣言が発せられました。酒類提供飲食店での酒の提供が止められ、酒を出さなければ8時まで営業してよろしいということになりましたが、居酒屋の主人が泣いています。

 「居酒屋は酒飲みに来るところ。8時まで営業してもいいと言われたって、酒を出さない居酒屋に客が来るわけがない。酒の飲めない居酒屋は居酒屋ではない」と。

 焼き鳥だけ食べに来る焼き鳥屋、ソーセージだけ食べるビヤホール、コップ酒抜きでおでんだけ食べて帰るお父さん。ありそうでなさそうな話が聞こえてきそうです。

 

 「部活の大会参加は部活にあらず」というのもあります

 東京都はGW中の全ての部活動を中止にし、競技団体が主催する大会は生徒や保護者の同意書を得て、条件付きで認めることにしました。学校で行う部活動は感染拡大の恐れがあるからやってはいけません。でも、健康観察すれば大会参加は許可しますっていうことは、酒を飲まなければ居酒屋に行ってもいいというのと大して違いはありません。「試合をしなければ大会開いてもいい」と言えば受けたのにね。中体連も高体連も部活の総元締めです。そこが主催する大会は部活動の一環でしょ。「部活の大会参加は部活に非ず」と言いたいのでしょうが、詭弁です。

 

 東京都はゴルフ練習場やバッティングセンターについては「応援する人がいなければ営業しても構わない」と決めたそうです。打ちっぱなしのゴルフ練習場で「テイクバックをゆっくり」とか「頭を動かさないように」などとアドバイスしている人をよく見るけど、あれは応援とは言わないでしょ。改めて「応援する人がいなければ構わない」なんていうほどのことではありません。もっとも、緊急事態宣言中でも営業できるように「応援してくれた」御仁がいたのかもしれませんが。

 

 学校では運動会、修学旅行は延期や中止。時差登校や自宅学習、オンライン授業の準備で大忙しです。昨年の教訓は生かされたのでしょうか。どこかの自治体では、えらい人が「一斉全校休業」と大号令を発したかと思えば、一夜にして取り消され、半分オンライン、半分登校対面授業ということになったようです。朝令暮改に学校も面食らったことでしょう。

「子供の学びを保証せよ」と迫られて「全校休業」は引っ込めたものの、意趣返しするかのように「日本は個人の自由を保証しすぎる。国は自由を制限することができる法律を作るべき」なんていうのも「詭弁」扱いにしたいですね。「危弁」でもいいかな。

 読者の皆さんにお尋ねします。「子供がいない学校は学校に非ず」っていうのは詭弁でしょうか。(イデちゃん)

上司が間違っているときに

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ナポレオン。毎朝散歩で通りかかるお宅でいただいた。ほんのり甘い(マツミナ)


 イデちゃん、メンターとしてサポートしてくれてありがとうございます。「考える先生」をめざす学生は、笑顔で歩き始めたようですね。

 「生徒の立場では全く気にしないようなことでも、見学者の立場で見るとかなり多くのことに気づき、ひっかかることがあった」――このリフレクションシートの気づきも、ワクワクします。「ひっかかり」をどうするのでしょうか。

 

 先日、企業人と学生が一緒に学ぶ、上智大学の「質問力を磨く(ClassQ)」を開きました。もとは上智大学が昨年度から始めた「プロフェッショナルスタディーズ」で学んでいた企業人です。講座が終わった後も意欲あふれる人たちがいて、毎月1回第3火曜日夜に集まっています。今回は、この春就職した上智の卒業生たちも参加しました。そこでこんなやりとりがありました。

 卒業生の一人が浮かない顔をしていました。聞くと、「上司が明らかに間違っている。でも私は入ったばかりなので…」。そこで、企業人に尋ねました。「上司が間違っているときに、どうしますか」

 「私は言う。はっきりと」と言うのは、社長を補佐する役職の男性でした。この男性にとって「上司」は社長や会長らトップ層しかいません。補佐に選ばれている人であれば、社長たちとも人間関係ができている。むしろ「間違っていると言えるのは、自分だけ」という使命感もあるかもしれません。持って回った言い方ではなく、ずばりと言うそうです。

 中間管理職の男性は違う対応をしているようです。

 「私は言わない。黙っている」

 上司と部下に挟まれている立場では、確かに発言が難しそうです。かえって事態をこじらせるかもしれません。こじらせた経験がそう言わせている可能性もあります。

 代の若手社員は「遠回しに指摘する」と話していました。直截な表現はせず、やんわりと。上司が気を悪くしないように気を使うけれど、でも言う。部下がいない分、ほんの少し気楽かもしれません。

 いずれにせよ、立場によって対応は変わるようです。

 かつての私は、はっきりと言っていました。後先考えず。その結果、かえって苦しい思いを抱え込むことにもなりました。でも、またそういう機会があったら、やはり言うでしょう。ただし、今なら「質問」します。上司の行動や発言の意味や由来を。ひょっとしたら「間違っている」と思っている自分の方が間違っているおそれもありますから。「質問力を磨く」を通して得たたくさんの出会いで、私もちょっとは成長したかもしれません。

 

 「考える先生」をめざす学生は、「ひっかかり」をどう表現して解決の糸口を見つけるでしょうね。(マツミナ)

何もかもが新鮮な1日だった

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北アルプス千曲川・菜の花(イデちゃん)


 4月22日、いよいよ「考える先生」プロジェクトの学校訪問が始まりました。T君は訪問先の中学校で教職員に紹介された後、一人で教室に向かい授業を見て回りました。私は2時間目から合流し、一緒に英語や数学の授業を見ました。

おっと、いけない。長年身についた習性から、つい「授業を見た」と書いてしまいましたが授業を参観しにきたわけではありません。正確には「学校での先生や生徒の様子を観察する」ことですから授業はその一部に過ぎません。他にも見ることはたくさんあるのです。

 

 さて、参観1日目、T君の目にはどんな景色が映ったでしょうか。リフレクションシートに書かれたことや訪問校の校長とのやりとりから、いくつか拾ってみることにします。

 

 紹介された朝の職員打ち合わせの印象をこのように書いています。

「先生という立場上、要点を分かりやすく簡潔に伝えるのが上手いなと思った」

 なるほど、面白いところに気づきましたね。学生の話し方とは当然違うでしょう。先生方も同じように感じているか、今度聞いてみたらどうですか。先生自身は意外と意識していないかも知れませんよ。

 

 次に、1年生の教室では「私服の生徒が授業を受けているのが新鮮」で「会話の様子から教室全体で仲が良い」と感じたようです。そして、校長とのインタビューでは「3年生は高校生のようで、ちゃんとしている生徒が多い。こういう授業風景いいなと思った」と話していました。

 「いいなと思った」風景を覚えておいて下さい。「いいもの」や「いい場面」との出会いを見逃さずに受け止める感覚(センス)を大切にしましょう。「ものを見る目を養う」事につながります。

 

 それから「1年生は大きな声でよく話す。2、3年生になると発言が少なくなり、声量も少ない」と感じたようです。

いいところに気づきましたね。これは日本の中学生に共通する特徴でもあります。

 「1年間で1年生がどのように変化していくか注目したい」

 学年が上がるに連れて、何が彼等の声を小さくさせ、なぜ発言が減っていくのか、追いかけて下さい。日本の教育の重要な問題点に迫るような大変興味深い事情につながるかも知れません。

 

 「生徒の立場では全く気にしないようなことでも、見学者の立場で見るとかなり多くの事に気づき、引っかかることがあった」

視点を変える、見る位置を変えるということはそういうことです。これからが楽しみですね。

 

 「何もかもが新鮮な1日だった」

解説無用ですね。一日ご苦労様でした。

ノートを開いてメモをすると

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やっと咲いたレモンの花 (マツミナ)


 新学期早々の「質問力を磨く(Class Q)」を見渡していると、感慨深いものがあります。初めて履修する学生と並ぶと、ここで苦労しながら学び続けている学生の成長がはっきりとわかるからです。

 

 違いの一つは、メモを取ることです。

 学生には、Class Qではアウトプット重視と伝えています。アウトプットの一つが、メモを取ることです。板書をそのまま写すことは、Class Qで求めているものではありません。目や耳を通してつかんだ情報を、自分の脳を通過させる中で取捨選択し、後で話のポイントがわかるように書く。それがClass Qの求めるアウトプットです。そうしたアウトプットをするために、注意深く聞き、読むというインプットが始まります。

 今でこそ人の話にあいづちを打ちながら、メモを取る手を動かしている学生も、かつては受け身の姿勢で聞いているだけでした。「1年生の時と比べると、今は3倍の量のメモを取れるようになった」と入学してからずっとClass Qで学んでいる4年の学生がふりかえっていました。

 

 学生の書く文字も変わってきています。履修し続けている学生のノートでは、薄く小さい字を見かけなくなりました。課題を書く文字も、濃く、大きくなっています。

 字を書く行為は、読み手に対する配慮も育てます。「俯瞰する力」ともいえるでしょう。まわしよみ新聞の授業後に書かれたリフレクションシートに表れていました。

 「今日は班に分かれてさまざまな新聞を作って発表した。しかし、雑多に配置された新聞を『読みたい』とは思えなかった。買ってもらい、読んでもらうために新聞社がどれほど工夫をしているか、体感できた。『読み手』を意識して文章を書いていこう」

 

 他チームとの比較ではなく、本家の新聞と見比べる。こんな力がついていたとは。自分で文字を書くことが、学生自身を育てていることがよくわかります。

 Class Qで学び始めた学生は、学期が終わる頃どんな字を書いているでしょうか。楽しみです。(マツミナ)

 

笑顔と奇妙なひっかかり

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7チームのオリジナル新聞(マツミナ)


 いまの学生にとって、新聞を読むことはかなりハードルの高い課題です。そこで、今学期は「まわしよみ新聞」から始めました。新聞を使ったワークショップです。気になった記事を切り抜いて紹介し、1枚の台紙に貼り合わせ、新しい新聞をつくります。新聞を気軽に楽しめ、共通の話題ができるから話も弾む。大阪市民がコミュニケーションツールとして開発したのが始まりだと聞いています。授業用に、代表者が紙面について1分間で説明する、というアレンジを加えました。

 事前に、ハサミとのり、クレヨン、サインペンを持参するよう伝えていました。そんな持ち物を大学の授業で用意するように言われたことがない、と学生たちは不審がっていました。4人が1組となり7チームがそれぞれ車座で、怪訝な表情で始まりました。

 

 始まって5分もたたないうちに、教室は笑い声で満たされました。まずお互いの関心の共通点に気づきます。当日朝刊1面の「来春の採用 2極化」、経済面に掲載されていた「ネット就活 学生不安」は全チームで切り抜いていました。1年生が多いにもかかわらず。

 それ以上に学生たちに強い印象を残したのは、自分と他人の考えが違うことです。リフレクションシートを見ていると、「違うことに驚いた」記述が目立ちました。

 「メンバーそれぞれが異なる対象に関心を持ち、異なる新聞の読み方をしていることに気づいた」「他人の考えを聞くと、自分の偏りにも気づけて面白かった」

 異なる視点、考え方の存在に気づいたことで、行動を変える必要も実感したようです。

 「自分の主張だけをして満足するのではなく、他の人の意見を知る、知ろうとするということの大切さを感じました」

 

 学生たちの笑顔と同時に、奇妙なひっかかりも残りました。

 多様な人の存在がわかり、その中に身を置くことの面白さも実感したにもかかわらず、なぜか「枠」を求めてくるのです。全てのチームがそれぞれ質問してきました。

 

 「台紙からはみ出てはいけないんですよね」

 ――そんなルールはないよ。

 「どっちがいいんですか」

 ――自分たちで考えてごらん。

 

 そのやりとりを、一人の学生はこう表現していました。

 「正解がないはずのことも、正解に近づけようと無意識に考えてしまい、自分の意見を出すことができないのかもしれない」

 ささいな一コマでしたが、学生たちの歩いてきた道を思い起こさせるには十分でした。(マツミナ)