idematsu-qのブログ

屋根のない学校をつくろう

大学を選ぶ、先生を選ぶ

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ドイツアヤメ 存在感あるね(イデちゃん)

 コロナ禍のなかで、学生が大学を選ぶ視点が変わった。大学が学生とどう向き合ってくれるかを、受験生は冷静にみていたと思う。実家を離れて都市部などに単身で行く学生もいるわけだから、不安にどう寄り添ってくれるかは重要だ。たとえば地方出身の学生が多いからと、食券を配って、朝昼晩、学食にいつでも食べにきていいという取り組みをしている私学があり、ここは学生の満足度がすごく高い。食堂にアクリル板を一人ずつ置いて、食事の後は自習してもいい、という取り組みをしている大学もある。そういうところに学生は安心感を持つと思う」(萩生田文科大臣)『大学ランキング2022』

 

 コロナ禍で大学に行くことができず、自宅等でオンライン授業を受けざるを得ない学生が悲鳴をあげています。学校に行きたい、友達に会いたい、サークル活動やイベントに参加したい。高い授業料を払っているのだから授業をやってほしい。

 どれも切実な声です。大学とは無縁の老人でも何とかならないものか心が痛みます。そういう気持ちで文科大臣のインタビュー記事を読めば、上の発言もわからないわけではありませんが、「大学ランキング」と銘打った雑誌に載せる内容かどうかは疑問です。「コロナ禍のなかで、学生が大学を選ぶ視点が変わった」先にあるのが「食券を配って、朝昼晩、学食にいつでも食べにきていいという取り組みをしている」大学というのでは、あまりにも寂しくありませんか。

 

 福岡市教育委員会は、今の方式では適性のある学生を十分採用できないとの考えから、筆記試験と面接を課さない特別選考の導入を決めたと朝日新聞デジタル4/18が報じていました。

 記事によれば、これまでは1次で教養などの筆記試験、2次で面接と模擬授業を行い、採否を決めていました。今後は、教育実習の評価と大学推薦で採否を決めるとしています。

 

 筆記試験に向けて過去問を解きまくり、法令等を丸暗記し、模範論文を頭に叩き込み、面接試験用にお辞儀の仕方や発言の仕方まで特訓を受けてきた受験者からは、個性も良さも悪さも見えなくなってしまいます。みんな同じようにお辞儀する、画一化された姿にうんざりするだけで、少しも魅力を感じません。学生の適性を確かめることができないという指摘はわかるような気がします。

 

 でも、問題がないわけではありません。教育実習の仕組みを抜本的に見直し、内容と評価基準は市教委が一律で定める。その上で受け入れ先の校長が学生の指導力や協調性などを評価するようですが、どんな評価基準を定めるのでしょうか。 

 「期待される教師像」や「望ましい教師像」のようなものを定めて、教育実習中にその可能性や到達度を測るような評価基準は、学生を型にはめることになりかねません。「標準モデル」を物差しにして教師の適性を測るようなことはしないほうがいいと思います。

 

「考える先生」プロジェクトは予め用意した「考える先生像」に近づけるために教えたり働きかけたりすることではないと言ったのはそういうことなのです。(イデちゃん)

お母さん、子どもに紙と鉛筆を

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タツナミソウ。どこかの庭から飛び出してきた?(マツミナ)


 今日は、家電量販店にiPadを見に行ってきました。何を隠そう、私はApple愛好者。デスクトップ型パソコンにノートパソコン、iPad-proも持っているにもかかわらず、新機種が気になっていたのです。

 結論から言うと、商品を見るどころではありませんでした。私の横に立っていた女性と店員の会話につい聞き入ってしまったからです。女性が買おうかどうか迷っていたのは、一番シンプルなiPadでした。

 

 「どなたがお使いになるのですか」

 「子どもに使わせたいんです。来年小学校に上がるので」

 「どんなことをさせたいのですか」

 「字を書けるようにしたいし、絵も描かせようと思っています」

 「それなら、こちらで十分です。お子さんは今、何を使っているのですか」

 「私のスマホを使っています。でもYouTubeばかり見ていますが」

 

 こういう問い合わせが多いのでしょうね。店員は慣れたものです。でも傍らで聞いている私は、落ち着いてはいられません。 

 いや待ってよ、お母さん。お子さんにはまず紙と鉛筆を渡してくださいよ。鉛筆だけではなく色鉛筆、ペン、クレヨン、絵の具、いろんなものを手に持って、紙の上に自由に世界を広げるのがどれほど楽しいか、知ってもらってくださいよ。

 第一、iPadは子どもが自由に絵を描くには狭いですよ。大きな字をたくさん書いて並べるほどのスペースはないですよ。

 

 「Society5.0時代に生きる子供たちにとって、PC端末は鉛筆やノートと並ぶマストアイテムです」――2019年12月19日に萩生田文部科学大臣が出したメッセージです。「個別最適化」と「創造性を育む」ことを掲げて、1人1台端末と、高速大容量通信ネットワーク整備の費用が盛り込まれた令和元年度補正予算案の閣議決定を受けて出されました。

 鉛筆やペンを持って書くことと、PCで打つことでは脳の働き方が異なってくるのは、いろいろな研究データが証明しています。持たせるだけで「個別最適化」「創造性を育む」が実現されるわけではありません。何にどう使わせるか、誰がどう支援するかが問われます。

 メッセージを見たときにも危うさを感じました。今日、こういう形で各家庭に浸透していることを目の当たりにして、ぞっとしました。親にしてみたら、子どもが心配です。うちの子が教室で使えなかったらかわいそうと考えたのかもしれません。

 

 こうなったら私にできるのは念じるだけ! 「お母さん、子どもに紙と鉛筆を~」

 女性は結局、買わずに帰ってしまいました。Appleさん、ごめんなさい。でもやっぱり言いたい。子どもにはまず紙と鉛筆を。(マツミナ)

ゆっくり行く者は遠くまで行く

 

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ヒメオドリコソウ 主のいない庭にも春は来る(イデちゃん)


 「考える先生」を目指すT君へ

 

   先日はお疲れ様でした。校長先生や副校長先生との初めての出会いはいかがでしたか。校長室での私たちのやりとりをメモをとりながら一生懸命聞いていた君の緊張した表情を思い出しながら、これを書いています。

 

「朝の一番初めのところから見たいです。何時に来ればいいですか」

「職員の打ち合わせが8時20分から始まり、その後担任は各学級に行って学活を行います」(校長)

「では、それまでに学校に来ればいいですね」

乗り出すように尋ねる君に強いやる気を感じました。

 

 「誰にとって『良い教師』なのか」

 いいところに目をつけましたね。教師の仕事は一人ではできません。必ず相手がいます。一番分かり易い相手は生徒ですね。では、生徒にとって「良い教師」とはどんな先生なのでしょうね。時間をかけて考え求め続けて下さい。急ぐことはありません。時間はたっぷりあります。

 

 「これからの1年は自分の課題設定次第なのだと理解し、覚悟を決めました」

課題を設定するために大切なことはあなたの「立ち位置」です。どんな視点から何を見るか、あれこれ試行錯誤してみることです。初めから視点を固定しないで、いろいろな場所から眺めてごらんなさい。生徒の位置から見ると先生はいつも前を向いています。そう、生徒以外の誰かになると見え方が変わりますよ。

 

 ところで、「みる」という行為を表す漢字はどれくらいあるのでしょうね。見る、観る、視る、診る、結構ありますね。それぞれ違う意味を持っています。また、見る位置の高さの違いから「俯瞰」「虫瞰」というのもあります。「みかた」もいろいろありますね。

   さあ、どこから、何を、どのようにみましょうか。私も一緒に「みる」事にします。50年も自分の周りにあって見慣れたつもりの風景が違って見えるかも知れません。とっても楽しみです。

   ゆっくり歩きましょう。「ゆっくり行く者は遠くまで行く」っていうでしょ。

                       君の伴走者イデちゃんより

火がついた  

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オキザリス。どこかの庭から飛び出して、道端を彩っていた(マツミナ)

 「考える先生」プロジェクトに参加した学生が、中学校を訪問したその日にリフレクションシートを書いてきました。わざわざ「質問力を磨く(Class Q)」のリフレクションシートを使って。欄外には「考える先生プロジェクト」と大きく書かれています。授業時と同じように、三つのキーワードを書き込むことから始まっていました。

 第1のキーワードは「教師像」。学生の前でイデちゃんや校長先生たちが話していた内容が響いているようです。「良い教師の型にはめられて育成されてきた教師は、現場で役に立っていない」――。学生はその言葉を聞きながら、「誰にとって『良い教師』なのか」を考えていました。生徒にとってか、保護者か、それとも上司となる校長や副校長にとってか。

 第2は「課題」。校長から「とりあえず、やってみたら」と声をかけられ、これからの1年は自分の課題設定次第なのだと理解し、覚悟を決めました。

 「1年間で少しでも多く学ぶためには、自分自身に課題を与え、1回ごとに絶えず振り返り続ける必要がある」

 最後は「視点」。学生は、これまで教えを受ける「生徒」として学校に身を置いていました。でもこれからは、自分を教え、育てるのは自分。だから「生徒以外の誰かになりきって」、学校での日常を見ていかなければいけないと考えたようです。新たな視点の必要性に気づいたのですね。

 

 当初、私が構想していたのは、教員採用・管理に当たる管理職対象の研修でした。大学で授業を持つうちに、学生たちがもっと早い段階、小中学校や高校で、その学ぶ心に火をつける機会があったらよかったのに、という思いが日に日に募っていたのです。それぞれの個性に合わせた、伸ばし方があったはずなのにと。それは、新聞記者として10年以上教育問題を取材していた経験でも考えていたことです。教職課程はガチガチに作り込まれ、文科省も本気で変えようとしているようには見えませんでした。

 私の企画に対して、半世紀以上も現場にいたイデちゃんの判定は「ムリ」。そもそも「対象」の設定からしてなっていなかったようです。「教員を採用・管理する管理職」といっても地教委の人事部、管理主事、教職員課、人事課、指導課、試験室…と多岐にわたる。地域ごとに求める人材像が異なり、しかも肝心の学校現場には採用・任用の権限がない。つまり、労多くして得るところはない、という訳です。企画書に嬉々として(?)赤を入れるイデちゃんと対話を重ねて出てきたのが、今回の「考える先生」育成プロジェクトでした。

 

 初回リフレクションシートはこう結ばれていました。

「来週から本格的に始まる。よいスタートダッシュを切りたい」

 学生の心に火がついたようです。(マツミナ)

 

 

 

メンターも成長します

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アメリカフウロ。下を向いて歩くのも楽しい(イデちゃん)


 ミナさんからの報告の続き、公立中学校でのやりとりです。

 「ところで、何をどうすればいいのですか」

 「何もしなくていいです。教える必要はありません」

預かる側にしてみれば、この学生をどう扱ったらいいのか、何を教えてあげたらいいのかと考えるのは当然です。学校の先生は教えるのが商売ですから。

 「自分で調べればわかるような質問には答えていただかなくて結構です。『君はどう思うの』って聞き返してください」

 二十歳そこそこの青年は中学校の校長室で交わされるやりとりをどのように聞いていたのでしょうか。 

 

 「そうなんだ」「だよね、わかる」

 よく耳にする若者の会話です。気心の知れた仲間同士の、相手の気持ちに立ち入らない、薄い皮に包まれたような中身のない会話に慣れてきた若者には、聞いたことのないやりとりだったかも知れません。

 校長室の大きなテーブルの対面に座って、校長と話す私の顔を見ている彼の表情から「自分はどんな扱いをされるのか」という緊張が伝わってきました。

 

 「教育実習生ではありませんから、授業の真似事はしなくて結構です。生徒と馴れ馴れしくさせないでください」

 学生を預かる校長、副校長も同じです。じゃ、どうすればいいのだろうという疑問と狼狽が表情に浮かびます。

 「しばらく、学校の中で、生徒や先生の様子を見させておいて下さい。そのうち、何か見えてくるでしょうから。何か思うことがあったら質問するでしょう」

 「学校にいればいろいろ見えるでしょう。多分、初めは物珍しさに惹かれて見ているだけでしょう。そのうちに、見る位置や見る対象が定まってくるかも知れません。初めに見たい、知りたいと思っていたものと違うことを見たくなったり、知りたくなったりするかも知れません。私たちの役割は、一人の学生の変容・成長のプロセスを、伴走しながら邪魔しないように観察し、学生自身が自分の変化や成長を自分で確かめる方法を一緒に考えることです」

 

 校長先生はそんな私の説明を受け止めてくれました。

 「とりあえず、やってみたら? 遠慮はいらないから。自由にやってほしい」

とんだ迷惑話を聞き入れてくれた中学校の校長・副校長に大感謝です。

 

 前にも書きましたが、このプロジェクトは予め用意した「考える先生像」に近づけるために教えたり働きかけたりすることではありません。自分自身で「考える先生像」を描き、それに近づくために何をすればいいか考え、自分を育てる取り組みです。私は20歳の学生が何を考え、何をして、どのように変容するか近くで見ていたいと思います。そして、彼とのやりとりを通して自分自身もどのように変わっていくか楽しみです。メンター・イデちゃんも成長するのです。(イデちゃん)

「とりあえず、やってみたら?」

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こってり甘い栗のケーキ。こうでなくちゃ(マツミナ)


 「考える先生」を目指す学生を連れ、プロジェクトの舞台となる公立中学校に行ってきました。もちろん、イデちゃんも一緒です。着慣れぬスーツ姿の学生の表情はこわばっています。あれ? 髪の色が黒く変わっている。染めたの
ね。「はい、やっぱり…」と学生は言葉少なに返事します。相当緊張しているようです。

 

 校長、副校長の二人が校長室で迎えてくれました。二人には事前に学生が書いた「1年間の課題と目標」を届けてありました。

 学生は自分の課題を「リーダー性のなさや安定感の欠如」と考えています。その課題を解決するために、ここでの過ごし方を記述していました。概略を紹介します。

 

 〈1年間を通して

  朝の会から放課後まで見れるものは見る

  生徒との関わりを大事にする

  授業を見学させてもらう

 

  4月 生徒を知る

  5月 生徒を知る、生徒に知ってもらう…〉

 

 毎週1回通う中で、生徒といかに距離を縮め、信頼を得るかを一生懸命に綴っています。目指すは「生徒や保護者から相談してもらえる先生」のようです。

 関係者が顔を揃えたところで、実務的なことを確認しました。

 ・学生は来るたびにその日の気づきをリフレクションシートにまとめ、提出

 ・学校側も気づいたことをまとめ、共有する

 ・メンターは随時、学校を訪問し、学生の様子を把握

 ・中学校の生徒には学生を「インターン」と紹介する

 ・居場所として、校長室か職員室などを提供

 

 実務を詰めるほど、学生の顔がこわばっていくようです。やっと笑みが見えたのは、校長の一言でした。

 「とりあえず、やってみたら? 遠慮はいらないから。自由にやってほしい」。

 学生の力みきった肩が少しほぐれたように見えました。

 

 学習指導要領こそないものの、大学教育でも「自由」の入る余地は限定されています。大学は3ポリシー(入学者受け入れの方針、教育課程編成・実施の方針、学位授与の方針)の策定と公表が義務付けられています。どんな授業を配置するかはその中で決まります。それぞれの教員はこれを受け、年間のシラバスを書きます。シラバスを書くのは新年度の始まる2、3か月前。どんな学生が履修するのかもわからない状況で書くために、学生と授業のレベルが合わないことも珍しくありません。必修が多いことも、最近の大学教育の特徴でしょう。学生の自由に任せたら、学位授与の方針で示した「モデル」にたどり着けないからでしょう。自由や個性を重んじるはずの大学が、型に嵌めようとするのは不思議です。型にはめるのは考えなくていいから気楽かもしれません。

 

 今日、学生は上履きを持参していました。脱いだ革靴をビニール袋に入れ、背負っていたリュックにしまっていました。学校を訪問する際には何が必要なのか、学生は事前に考えたようです。

 「考える先生」を育てるプロジェクト、始まりました。(マツミナ)

 

 

 

「考える先生」を育てるプロジェクトが始まります

 

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朝の浜辺 さて、どんな足跡を付けようか(イデちゃん)


 学生たちは気づき始めていますね。「関わること」「やりとりすること」の魅力に。魔力と言ってもいいかもしれません。人や社会に興味を持ち、怖がらず、恥ずかしがらずに話してみれば、いろいろなことが見えてきます。以前「そのうちに見えてくる」と書いたのはそういうことです。

 

 いよいよ今週から「考える先生」を育てる取り組みが始まります。正確には「『考える先生』を育てるプログラムのプロトタイプ(原型)を創るプロジェクト」ですが、長すぎるので「考える先生プロジェクト」とします。「原型を創るためのプロジェクト」ですから、確かなプランがあるわけでもありません。

 「何を気楽なことを言っているのだ、そんなことでプログラムができるわけがない」と笑う向きも多いことでしょう。これまでに何人もの大学の関係者からご指摘やらご心配をいただいています。シラバスだのカリキュラムだのといった小道具がないのですから当然です。何をしたらいいのか歩きながら考えるつもりです。

 

どうしたら「考える先生」が育つのか私たちもよくわかりません。「こうすれば考えるようになる」と銘打ったHow-to本が書店に山積みです。私たちは「考える先生」になるためのノウハウを教えようなどと、おこがましいことをするつもりはありません。まずは小学校や中学校に行って一日生活する中で、目に映る景色をみる(見る、視る、観る、眺める)ことから始めてもらう予定です。

 

教育実習ではないから、「授業の真似事」はしません。学校の先生から教科の内容や指導法を教わることもしません。生徒や先生が何をしているのか、よく「みて」ほしいのです。学校では生徒同士、先生同士、先生と生徒、その他、様々な人と人とが関わっている様子も「みる」ことができます。最初は何が何だかわらないことの方が多いでしょう。それでいいのです。だんだん見えてきますから。そうすると自然に「なぜだろう、どうしたのだろう、どうなっているのかな……」などと疑問が湧いてくるはずです。話はそれからです。

 

 目に見える変化を確かめることは難しいことではありません。体重や身長のように計測して前回の数値と比較すればわかります。でも、感じたり考えたりしたことは文字や言葉、行動などに置き換えないと外からは見えません。見えるようにすることは結構厄介なことです。それは自分自身のことでも同じで、意外と自分のことはわからないものなのです。

 私たちの役割は、一人の学生の変容・成長のプロセスを伴走しながら邪魔しないように観察し、学生自身が自分の変化や成長を自分で確かめる方法を一緒に考えることです。歩きながら考えるということはそういうことです。予め用意した「考える先生像」に近づけるために働きかけることではありません。

さて、さて、この先どうなることやら。筋書きのないドラマの幕開きです。(イデちゃん)

希望という名の

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小さな鳥が水面の風景を揺らす(マツミナ)

 今日は上智大学での「質問力を磨く(Class Q)」初回。1年ぶりの対面授業です。抽選を乗り越えてきた学生が集まりました。

 

 今回初めて、図書館内の会議室で開講しました。「三密対策」で教室が不足しているための窮余の一策だそうです。図書館内の会議室と聞いた瞬間に、アイデアが浮かびました。学生に「辞退するチャンス」をあげようと思ったのです。

 

 Class Qでは毎学期、約半数の学生が履修中止をします。教養科目で2単位だから、ラクに単位を取れる「ラクタン」だと目論む学生にとっては「コスパが悪い」授業だからです。

 チームワーク中心の授業で途中で履修中止されると、チームの学生には迷惑千万。それなら初回で辞退してもらおう。そこで授業の半ばに「今の自分を紹介できる本を、図書館の棚から持ってきて。履修をやめる人は戻らなくていいよ」と送り出しました。みんなの前での退室は難しいけれど、これなら気楽に去ることができるはずだと。

 

 結果から書くと、全員戻ってきました。好きな本、気になる本を手にして。「どこに何があるかわからなかった」1年生は手ぶらで。

 なぜ戻ってきたのでしょうか。多くの学生は、自分を変えるチャンスにしたい、質問力を鍛えたいという思いをリフレクションシートに書いていました。

 「目を合わせて人と対話をすることを難しい、恥ずかしいと感じていることに今日気づいた」

 「世界には問題が溢れていますが、私は問題意識を感じたことがありません。目を向ける勇気がなかったからです」

 「質問力がないのは、発想力がないからだと思っていた。(略)でも自分は人の話に興味を持つことができていなかったからだとわかった」

 コロナ下でのオンライン生活が、学生の何かを変えたのでしょうか。強い決意をリフレクションシートに綴る学生もいました。

 「学期末に先生を倒したい。『あっ!』と言わせたい。(略)考えることをやめてはいけない。先生に勝ちたいという気持ちとしんどいという気持ち。その間で揺れ動くことになる未来が垣間見えた」

 「単位が欲しいとかではなく、得るものがあるという期待のもと、来週この授業に来よう」

 床に車座で、呼ばれたい名前でお互いを呼び合い、対話を重ねる、という授業スタイルは、楽しいけれども学生を困らせたようです。

 「スカートで来てしまい、座りづらいなあと感じたので、火曜日はパンツデーにしようと決意しました」

 

 暗いニュースの多い日々に、こうした学生がいることは「希望」そのものです。

 確かに林達雄先生は書いていました。

 「大学の教師でいちばん滑稽なことの一つは、性懲りもなく四月の学期初めになると学生のことごとくが本格的な知識的熱意に燃え学問の蘊奥を極めようとして教室に集まってくるという錯覚に陥ることである」(「十字路に立つ大学」より再掲)

 私は甘いかも。でも希望は捨てない。新学期が始まりました。(マツミナ)

小さな親切 大きなお世話

 

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1本の苗木が10年でこんなに育った(イデちゃん)


 「生徒と私的SNS禁止 文科省 防止指針通知」ですか。

そういえば昔「悪書追放」「俗悪番組指定」「読んではいけない、見せてはいけない」の大運動がありましたね。それから「ゲームのやりすぎは体に悪い」「時間を決めて遊びましょう」っていうのも。最近は「LINEで悪口を言わないようにしましょう」とか「スマホの正しい使い方を学びましょう」なんていう呼び掛けもありました。

 

 でも、これらはどれも「青少年の健全育成」という大義名分のもとに、大人が子供の健全な成長を心配して始めたことです。今度は「生徒との私的SNS禁止」ですか。まさか国が音頭をとって「先生の健全育成」を始めようというわけではないでしょうね。悪い冗談だよと思いきや、文科大臣は本気のようです。先生もずいぶん子供扱いされたものですね。

 

 「教師という職業がICTを駆使しながら,個別最適な学びと協働的な学びの実現を通じ,全ての子供たちの可能性を引き出す創造的で魅力的なものであるという姿」を描いて欲しいと中教審に諮問したばかりの文科大臣が、一月もしない間に今度は「生徒と私的なSNSを禁止せよ」という通知を出さなくてはならないなんて、頭の痛い話ですね。

 

 ところで、子供たちに「スマホの正しい使い方」を指導してきたセンセイ方はどう受け止めているのでしょうね。ミナさんならずとも心配になります。まさか「SNSの正しい使い方を考える会」とか作って、「学校にいる間はスマホを校長先生に預けましょう」「家では10時になったらスマホのスイッチを切りましょう」「毎週ログをチェックして不正な使用を監視します」などと余計な考えを巡らす気じゃないでしょうね。最近のセンセイの劣化ぶりを見ていると、冗談ではなくそんなことを言い出しかねないような気がします。

 

 誰が思いついたか知らないけれど、こういうのを「小さな親切 大きなお世話」というのです。世のセンセイ方は子供扱いされて黙っているのですか。怒るべきです。「子供扱いするな、大きなお世話だ」と。#「センセイの魂」でも立ち上げて教師の矜持を示したらいかがですか。(イデちゃん)

何を「考える」先生か

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スイーツなら、いくらよくばってもいいね(マツミナ)


 読売新聞の4月10日付朝刊1面の記事を読みましたか。

 

〈生徒と私的SNS禁止 教員わいせつ 文科省、防止指針通知〉

 

 わいせつ行為をさせないために、文科省が全国の教育委員会に指針をまとめて通知したそうです。その一つが、記事の見出しにもある私的SNS禁止です。

 「無料通信アプリLINEなどで私的なやりとりを交わしているうちに親密になり、わいせつな行為に及ぶケースが多いとして、教員と児童生徒のSNSの私的なやり取りの禁止を明確化するよう各教委に求めた」(4月10日付読売新聞)

 

 萩生田文科大臣の諮問文にも表れてましたが、文科省は基本的に現場の教員を信用していないようですね。全国の教員はみんな「わいせつ教員」レベルだと認識しているのでしょう。

 わいせつ教員の最大の問題点は「考えない」ところにあります。自分の行動で子どもたちをどれだけ傷つけるか、子どもの親たちをどれほど不安にさせるか、自分の頭で考えない。

 ひょっとしたら、こういう指針をつくることで「どうしたら見つからないか」「この指針の抜け道はどこにあるか」を考えさせようとしているのでしょうか。

 

 こういう指針を先生たちはどう受け止めて、学校現場で運用していくのでしょうか。「国のルールだから先生たちはSNSを使えない」と説明するでしょうか。

 そういう先生を子どもたちはどうみるのでしょうか。「先生は自分の頭で考えなくて、国のルールしか口にしない」「ルールで縛らないと、先生はまともな大人になれない?」「ルールがあれば、自分の頭で考えなくていいから楽でいい」…。

 考えない先生を縛るルールが、考える先生と子どもたちも縛っていく。不思議な国、ニッポン。

 

 ところで #教師のバトン はSNSを活用した文科省の施策ですね。使わせてみたり、規制してみたり。考えさせますねえ。 (マツミナ)

難解というより難題と読む

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朝の定期便(イデちゃん)

  昨日、ミナさんが紹介していた大臣の諮問文、読めば読むほど難題ですよ。

 〈教師に求められる資質能力については,これまでの中央教育審議会における答申においても,使命感や責任感,教育的愛情,教科や教職に関する専門的知識,実践的指導力,総合的人間力,コミュニケーション能力等が挙げられているところであり,令和3年答申においては,これらの資質能力に加え,ファシリテーション能力,ICT活用指導力等が挙げられているところです〉

 〈教師という職業が,ICTを駆使しながら,個別最適な学びと協働的な学びの実現を通じ,全ての子供たちの可能性を引き出す創造的で魅力的なものであるという姿を描き出しつつ,各学校種・教科等を横断して全教師に求められる基本的な資質能力を,「何ができるのか」という観点も踏まえ,できるだけ具体的に明らかにしていただきたいと思います〉

 

 「こんな先生がいい」「あんな先生がいい」と、井戸端でおしゃべりするのとは違います。<全教師に求められる基本的な資質能力をできるだけ具体的に明らかにしていただきたい>という諮問を受けて、答申される教師像が「おばけ」みたいな、「超人」みたいなモデルにならないか心配になってきました。そんな「スーパーマンみたいなセンセイ」をほんとに育成できるのでしょうか。無理難題という方が合ってるかもね。

 

 中教審文科省が「期待される教師像」を描き、教育委員会(採用する側)が具体的なモデルを示せば、養成する大学(採用してもらう側)は示された条件に合わせて教育しなくてはなりません。今でさえ満杯状態の教員養成課程のカリキュラムがさらに厳しくなりそうです。

 ある大学の先生が話していたことを思い出しました。

 「教員養成課程の学生はやらなくてはならないことがたくさんあって、余計なことをやっている暇がないのです」「なんとか枠にはめ、形にして採用に結び付けないといけない」

他人事ながら「大変だなあ」と嘆息しましたが、それでいいのだろうかとも思ったのです。多くの人の心に残る「いい先生」は、概ね「枠にはまらない」先生のような気がします。話が脱線したり、教科書にないことを教えてくれたりとか、気持ちに余裕があって、人情味もある先生といった感想をよく聞きます。

 

 世の中が世知辛くなり寛容さがなくなってきたようで、先生や学校への期待や要望が厳しくなりました。脱線や無駄は許されなくなり、効率とコストが重要視されます。<ICTを駆使しながら,個別最適な学びと協働的な学びの実現を通じ,全ての子供たちの可能性を引き出す創造的で魅力的な>先生が求められる時代の到来です。

 

 お尋ねします。「教員の質の向上に向けて、教育大学や教育学部における免許取得を中心とした現行の教員養成システム(新卒中心)から、様々な経験や学びを持つ民間企業等経験者が子どもの学びに関する専門性(子どもの心身の発達・学習の過程等)を追加的に学べば、教壇に立てる開かれたシステムへと抜本的な転換を図ることを検討すべき」という指摘は「教員養成系の大学や学部は当てにしない」と言っているように聞こえませんか。(イデちゃん)

文科省文書を添削する

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おしゃれな器。四隅のクリームをすくいきれず、悔し涙…(マツミナ)


 今日は、文科省文書の読み解きに結構な時間を費やしました。その結果、妙に頭が痛くなりました。一つの文章が長いため、意味をつかみにくいのです。

 例えば、萩生田大臣が3月12日、中央教育審議会に出した諮問「『令和の日本型学校教育』を担う教師の養成・採用・研修等の在り方について」。難解です。

 

 〈教師に求められる資質能力については,これまでの中央教育審議会における答申においても,使命感や責任感,教育的愛情,教科や教職に関する専門的知識,実践的指導力,総合的人間力,コミュニケーション能力等が挙げられているところであり,令和3年答申においては,これらの資質能力に加え,ファシリテーション能力,ICT活用指導力等が挙げられているところです〉(157字)

 

 いつも学生には、一文の長さは40~50字と伝えています。それ以上になると、主語と述語がよじれてしまうからです。この文章を書いたのが学生なら、三つに分けるよう伝えます。まずは「教師に求められる資質能力については以下の答申が出されています」などと切らせますね。

 1文で「~において」を2度も使うのはどうかな、とも言うでしょう。同じ表現を繰り返すと、稚拙な印象を与えます。ついでに「資質能力」についても、なぜこの表現を使ったのか尋ねますね。資質は「生まれつきの性質や才能」で、能力は「特定の仕事を成し遂げることができるかどうかという観点から見たその人の総合的な力」です(いずれも新明解国語辞典)。能力は訓練のしようがあるけれど、「生まれつき」の資質をどうしろというの? 学生が相手ならば、そう尋ねるでしょう。

 

 〈教師という職業が,ICTを駆使しながら,個別最適な学びと協働的な学びの実現を通じ,全ての子供たちの可能性を引き出す創造的で魅力的なものであるという姿を描き出しつつ,各学校種・教科等を横断して全教師に求められる基本的な資質能力を,「何ができるのか」という観点も踏まえ,できるだけ具体的に明らかにしていただきたいと思います〉(147字)

 

 「教師という職業が、…創造的で魅力的」ですか? まずは中教審のメンバーに、#教師のバトン を読んでもらうといいでしょうね。現場の先生たちが赤裸々な実態を伝えています。ところでこの文章の主語は「教師という職業」でしょうか。述語は何かしら。

 そういえば、入試改革のキーワードの一つは「書く力」でしたね。誰の「書く力」が問題だったのやら――。ああ、やっぱり頭痛。「明らかに」なんてできませんよ。意味がわからないから。本日はこれで終わり。(マツミナ)

誰かを幸せにする人

 

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スッポンか? 珍しい生き物と出会えて幸せな気分(マツミナ)

 この時期になると読みたくなる文章があります。

 

 「大学の教師でいちばん滑稽なことの一つは、性懲りもなく四月の学期初めになると学生のことごとくが本格的な知識的熱意に燃え学問の蘊奥を極めようとして教室に集まってくるという錯覚に陥ることである」(林達雄「十字路に立つ大学――困った教授、困った学生」より)

 

 今朝、大学の事務局から連絡がありました。入学準備教育やマラソンQに、本来なら「質問力を磨く(Class Q)」を履修できない学部の学生も混じっていたそうです。そのうちの一人が履修を希望したのですが、原則的には登録できません。そのため、学生の親御さんが「何とか履修できるようにしてほしい」と電話してきたようです。親御さんが電話してきたというところに引っかかりを感じたけれど、学ぶ熱意のある学生がいるのは、とても嬉しい話です。

 

 先日、嬉しい出会いがありました。靴屋の店先で、歩きやすそうな革靴を見つけました。レジに持っていくと、若い女性スタッフがじっと靴を見つめ、何やら思案顔。ややあって「ここに傷があるのです」と示してくれました。確かに目を凝らせば、1ミリぐらいの傷が見えます。「なるほど」とは答えたものの、全く気がついていなかったし、このぐらいはいいとも思っていました。

 女性スタッフは、店に同じ商品の在庫がないことを伝えたうえ、「代わりの商品をお探ししますので、少しお待ちいただけますでしょうか」と断って、電話を始めました。どうやら他店舗や倉庫のようです。時間がかかりそうだけれど、大丈夫ですか、とこちらに断りを入れながら、電話に頭を下げながらあちこちにかけていました。

 20分ぐらい経ったでしょうか。1週間ぐらいかかるけれど、2店舗から取り寄せられることになったと説明してくれました。

 少しでもよい品を客に渡すための一生懸命なその姿にすっかりファンになってしまいました。買いたかった靴がしばしお預け状態でも、幸せな気分です。

 

 林達雄の教え子には、小説家の坂口安吾がいました。「学問の蘊奥を極めようとして教室に集まってくるという錯覚」かもしれないけれど、学生たちには誰かを幸せにする力を持った人に成長してほしいと願っています。(マツミナ)

悪貨は良貨を駆逐する

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大きくなりました。直径170センチ(イデちゃん)


 「いい先生」って言葉は、確かに「マジックワード」ですね。中身は人によって異なります。自分にとって「いい先生」であっても、他の人はそう思っていないかもしれません。「部活命」で盆と正月しか休まなかった先生を「いい先生」という人もあれば、受験指導の達人を「いい先生」ということもあります。道を踏み外しそうになった時に助けてくれた先生は一生忘れることができない「いい先生」でしょうね。

 「良い(いい)」の基準は人によって違います。極端な言い方をすれば「いい先生」というのは「私」にとって「いい先生」であればいいのです。ですから「私」の数と同じだけ「いい先生」像はあるのです。それを一つにまとめて「いい先生のモデル」を作って、こんな先生になれというのは野暮な話です。#教師のバトンが胡散臭いのはそういう匂いがするからでしょうね。

 

 新学期早々から先生が足らないようです。採用しすぎて持て余している自治体もある一方で、先生がいなくて少人数学級編成ができない学校があるとか。そこで、文科省は全国の不足状況を調査すると言い出しました。調査結果を踏まえて、その先どんな話になるのか気になります。

 

 財務省財政制度等審議会の歳出改革部会(2020年10月26日)の資料にこんなことが書かれています。

 「教員の採用倍率は低下しているが、中途採用(民間企業等勤務経験者)の割合も低調。優れた知識経験等を有する社会人等が教員として活躍するために設けられた『特別免許』の授与件数も少ない」「教員の質の向上に向けて、教育大学や教育学部における免許取得を中心とした現行の教員養成システム(新卒中心)から、様々な経験や学びを持つ民間企業等経験者が子どもの学びに関する専門性(子どもの心身の発達・学習の過程等)を追加的に学べば、教壇に立てる開かれたシステムへと抜本的な転換を図ることを検討すべき」

 

 教育大学や教育学部も舐められたものですね。まさか文科省財務省の軍門に下るとは思いたくありませんが、両者の力関係からするとなるようになるかもしれません。そうしたら、人材派遣会社が「資格不要、試験簡単、誰でもなれます、センセイに♪」なんてキャッチコーをテレビに流すようになるかもしれませんね。冗談ではなく。

 

 悪評高い教員免許更新制度はとっくに形骸化しています。高度な専門性を維持するために知識や技術の更新が必要だという理由で始めたものの、講習に要する時間の割に大した中身がないと不評を買っているようです。文科大臣は教員免許更新制度を見直すと言っていますが、もしかしたら、「先生の品質管理」を今よりもっと厳しくしないと「ヤバくなる」時がくるかもしれません。

 

  件の資料にはこんなことも書かれています。

「教員定数の増は採用倍率の更なる低下を招き、教員の質の低下が懸念される」

 少人数学級を導入すれば教員の数を増やす必要があり、そうなると採用倍率は低くなるので教員の質は低下すると言いたいのでしょう。

 世間にはこんな話もあります。「教員採用試験の競争率が3倍を切ると優秀な教員の割合が一気に低くなり、2倍を切ると教員全体の質に問題が出てくる」そうです。

 

 「悪貨は良貨を駆逐する」時代がきそうです。教育大学や教育学部のセンセイ方、舐められっぱなしでいいのですか。(イデちゃん)

可能性のかたまり

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チームごとに書いたホワイトボード

 「あなたにとって、いい先生とは」と問われても困るなあ。私にとって「いい先生」は、わかったような気にさせるけれど、実は全然わからない「マジックワード」です。時代や地域、さらには人によって意味が異なる扱いにくい言葉なので、私自身は使いません。でも、あえて定義するなら「子ども(生徒や学生)の可能性を信じる先生」としますかね。

 

 昨日は帝京、上智の学生たちと、「マラソンQ」を開きました。入学前にオンラインで「質問力を磨く」を受講していた新入生たちも参加しました。

 読売新聞の記事を自分以外の誰かになりきって読み、質問をつくるのは、いつもと同じ。違うのは、図書館で参考図書を必ず1冊読み込んで、質問を磨き、作り直す点です。それも5時間かけて。

 昨日の記事は、「匿名の悪意ママ襲う 感染源扱い 非難1日数百件」。

 昨年亡くなった志村けんさんに「コロナをうつした」として、北新地のクラブのママに対し、1日数百件の非難メッセージが殺到した事件を報じていました。これをコロナ感染者の視点で考えます。

 出てきた質問は「なぜ根拠のない話を広めるのか」「どうして人はSNSで中傷するのか」「なぜSNS上でストレスを発散するのか」……。表現は異なるけれど、どのチームにも共通するのは、SNSにこうした内容を書き込むのは「悪意」のある「ネットリテラシーのない若い人」でした。

 これは先入観のなせるワザです。「SNSに書き込み=悪意」と思い込んでしまったのでしょう。実際は「正義感」から書き込むケースもあり、中には「年配者」もいますから。そのことを学生に指摘すると、全員がリフレクションシートにこの言葉を書き込んできました。

 「誹謗中傷というだけで、悪意と決めつけていた。実際はその人にはその人の考えがあってしたことかもしれないのに」(2年生)、「反論できなかった。全てのチームが自分の先入観を根拠にした発表になっていたからだ。どうしたら色メガネを外すことができるか」(3年生)

 「潜入感」という新語でつづってきた1年生も複数いました。忍者やスパイみたいにするりと入り込み、そのまま居座る感情でしょうか。この言語感覚、面白い。しかも、この表現を使った学生はいずれも「潜入感を4年間かけて追究したい」「潜入感をなくした目で物事を見極めたい」と熱く決意を記していました。

 

 誤字脱字、一体なんと読んだものかわからない文字もあります。それでもどのリフレクションシートも、ひたむきに学ぶ姿そのものです。卒業時には、どんな文章をどんな文字で書く学生になっているのでしょうか。学生は可能性のかたまりだと実感します。(マツミナ)