idematsu-qのブログ

屋根のない学校をつくろう

ムラの中での調和

 

f:id:Question-lab:20211016220740j:plain

栗の季節ですねえ(マツミナ)

 

 ノーベル物理学賞を受賞した真鍋淑郎さん(90)の「日本に帰らない理由」、妙に説得力がありましたね。私は朝日新聞デジタルで読みました。

 「日本では、いつもお互いのことを心配しています。とても調和の取れた関係性で、上手く付き合うことが最も重要なことの一つです。他人に迷惑をかけるようなことはしません」(2021年10月6日朝日新聞デジタル

 

 読みながら、ジョニー・デップ主演の映画「MINAMATA」の一場面を思い出していました。水銀中毒による水俣病に苦しむ人々の姿にカメラを向けるユージン・スミス(デップ)に対し、化学会社チッソの社長が札束を渡しながら、撮影をやめるよう迫る場面です。

 

 「社会全体の利益の前では、(水俣病は)無に等しい」

 「(水俣病は)日本人に任せておきなさい。ヨソ者の出る幕はない」

 

 ウチとヨソ。とはいえ、日本人なら全てがウチの構成員になれるわけではありません。それは水俣病で苦しむ目の前の人々を「無に等しい」と言い切っていることからわかります。ウチはさらに小さな単位、ムラに分けられます。そのムラには厳格なルールがあります。調和を乱さないことです。ムラの論理が、個人の尊厳よりも優先されると社長は語っているのだと受け取りました。

 調和を保つためには、余計なことは考えてはいけない。思考は止めておいた方が、ムラの中で生きていくためには大事なのです。真鍋さんの指摘した「調和の取れた関係性」は、ムラで生きていくための知恵なのです。

 

 真鍋さんは日本の研究について、こうも語っていました。

 「最近の日本の研究は、以前に比べて好奇心を持って研究することが少なくなっているように思います」

 ムラで生きていくのに、好奇心は持たない方が安全だからでしょうか。「調和の取れた関係性」によって、私たちは何を得て、何を失っているのでしょうか。(マツミナ)

 

真鍋博士が日本に帰りたくない理由

f:id:Question-lab:20211015202926j:plain

峻峰剱岳を望む 立山天狗平より(イデちゃん)

 

 今年のノーベル物理学賞を受賞することになった米国プリンストン大学の真鍋淑郎博士は、受賞の知らせを受けて行われた記者会見で「なぜ国籍を変更したのか」という質問に対して「私はまわりと協調して生きることができない。それが日本に帰りたくない理由の一つです」と答えたそうです。

今朝、某テレビ局のワイドショーがこれを取り上げていました。記者会見での博士の回答を整理したフリップが用意されていました。

フリップには概ね次のようなことが書かれていました。

・「日本の人々は、非常に調和を重んじる関係性を築く」

・「他人を邪魔するようなことは一切やらない」

・「日本人が『はい』と言うとき、必ずしも『はい』を意味するわけではない」

・「他人の気に障るようなことをしたくない」

 

 件の「私はまわりと協調して生きることができない」という発言は会見の最後にされたということです。会場の笑いを誘ったというこの発言を記者たちはどう理解し、なぜ笑ったのでしょうか。

 ワイドショーでは、何人かのコメンテーターが「博士はなぜ日本に戻って来ないのか」ということについて、それぞれの立場から意見を言っていました。コメンテーターは博士がアメリカに行ったことに対して肯定的な意見を言っていましたが、「会場の笑い」について触れたものはありませんでした。 

 

 私はこの最後の発言は「他人の気に障るようなことをしたくない」という博士の謙譲の気持ちを表したものではないと推測しました。会見の場には日本人の記者もいたはずです。彼らも外国人記者たちと一緒になって笑っていたのでしょうか。博士の「日本人が『はい』と言うとき、必ずしも『はい』を意味するわけではない」という発言を聞き逃していたのでしょうか。博士の高尚なアイロニーに気づかず、同調して笑っていたのであればお粗末な話です。

 

 「なぜ、アメリカを研究の本拠地にしたのか」という問いも「なぜ日本に戻らないのか」という問いも大して違いはないように聞こえますが、「戻らない」にはより強い意志が働いているように感じます。

 「調和を重んじる」ことが優先され「まわりと協調して生きること」を強要される日本に戻りたくないという博士の訣別の言葉を、笑って誤魔化してはなりません。これは「『主体的な学び』の重要性が指摘され、小学校から大学までの授業は変わったはずです。でも、学生が相変わらずテーマ設定に困っている現実」(2021.10.6「卒論のテーマをください」)の底流にあるものと根が同じだからです。(イデちゃん)

 

 

「人生案内」で考える  

f:id:Question-lab:20211014235544j:plain

今日のコーヒーは妙に苦い(マツミナ)

 

 我が家の朝の会話は、しばしばこの一言で始まります。「今朝の人生案内はどうだった?」 人生案内とは、読者から寄せられた相談に学者や作家らがコメントする読売新聞朝刊の人気コーナーです。

 昨日話題にあがったのは、30代の男性会社員からの相談でした。彼は裕福な家庭の一人っ子として育ち、両親の望み通りに就職し、結婚し、今では子どももいます。ところが、相談者はゲイ(男性同性愛者)で、社会的な対面を保つために上司から紹介された女性と結婚したのです。妻と知り合う前から相談者には彼もいます。「彼といる時だけが私らしくいられる時間。彼と別れるのは家庭を捨てるのと同じくらい、私にとってつらいこと」と書いています。 

 さすがにこのままではいけない、「自縄自縛」だと思い、どうしたらいいのか方向性を示してほしい、という相談です。

 端的に言えば、不倫の相談です。だから、こうした相談では、回答者は概して蔑ろにされている妻(あるいは夫)に謝罪するよう厳しく書いていました。ところがこの日の回答者はなぜか歯切れが悪い。「あなたにはいろんな選択肢がある」「まずは自分の本音を見つけ出さないと、自縄自縛を解くことはできない」と相談者に同情的とすらとれる内容を書いています。妻については「このまま真実を知らされないのはあんまりかと思います」。最後まで妻に謝罪するよう求める言葉は出てきませんでした。

 相談者がLGBT性的少数者)であるというフィルターが、判断を鈍らせたのでしょうか。社会的に肩身の狭い思いをしている人は、他者を蔑ろにしてもいいのでしょうか。その根拠は何でしょうか。他の事例に当てはめても、そうした理論は成り立つでしょうか。妻や子どもはこの人生案内を読んだら、どう受け止めるでしょうか。

 「質問力を磨く(Class Q)」の学生に考えてもらうことにしました。来週発表の宿題です。「妻」「相談者本人」「子ども」の三者になりきると、どのような問題が浮かび上がるか。性的少数者をめぐる社会の現状、倫理学、法律を踏まえて考えてきてください、と伝えています。

 学生は真剣な表情で記事を読んでいました。(マツミナ)

聞こえるということ

 

f:id:Question-lab:20211013212959j:plain

糸かけ曼荼羅。先生や仲間と一緒に作っています(マツミナ)

 

 このところ難しい話が続いたので、今日は小休止。映画の話といきましょう。

 

 先日、映画「サウンド・オブ・メタル~聞こえるということ」を観てきました。聴覚を失ったロックバンドのドラマーの失意と再生の物語です。その過程で描かれているのは、「聞こえるということ」の意味、そして「書く」ことの深さでした。

 

 映画では冒頭から字幕をフルに使い、「聞こえるということ」の騒々しさを伝えていました。「ジューサーの音」「コーヒーをドリップする音」などと書かれた字幕が、私たちの日常生活は音であふれていることを改めて実感させてくれます。騒々しいけれど、こうした音から突然隔絶されたら、冷静でいられるわけがありません。音楽で身をたてているドラマーの主人公にとってはなおさらです。

 そんな主人公に冷静を取り戻させたのは、「書くこと」でした。恋人の勧めで暮らすことになった聴覚障害者共助コミュニティーのリーダーに促されたことでした。リーダー自身も毎朝、5時に実践していました。聞こえない中で、ただ書く。それが主人公に変化をもたらします。

 

 主人公は後段、再び騒々しい世界に引き戻されます。耳の手術で脳内に受信装置が埋め込まれ、音が聞こえるようになるからです。脳内に金属を埋め込んで感受する音の、なんとやかましいこと。元の世界に戻ったというのに、主人公の苦悩は深まるばかりです。いかにして主人公は平穏を手にするか。

 ラストシーンの表情は、「聞こえないということ」の価値を余すことなく伝えてくれます。おすすめの作品です。(マツミナ)

 

 

改めて「考える」を考える

f:id:Question-lab:20211012170025j:plain

富山地方鉄道立山線(イデちゃん)

 

 「良い先生」と「いい先生」の違いはなんでしょうか。不思議なもので「良い」先生と漢字で書くと「厳格で指導力のある教師」といった感じに見え、「いい」先生とひらがなで書くと「人間味のある魅力的な先生」といった感じになりませんか。

 前回の「いい先生のモデル…」では、そこのところを意識して書き分けたわけではありません。T君のシートに「良い先生」と書かれていたものを、そのまま転記したのですが、ミナさんの指摘の通り「良い」なのか「いい」なのか、ちゃんと考えてみる必要があるかもしれません。

 

 ところで「『いい先生』は『誰にとって』という文脈の中で語られるときに、異なる像を結ぶことになる」と指摘されています。私も以前こんなことを書いていたことを思い出しました。

 「『いい先生』って言葉は、確かに『マジックワード』ですね。中身は人によって異なります。自分にとって「いい先生」であっても、他の人はそう思っていないかもしれません。『部活命』で盆と正月しか休まなかった先生を『いい先生』という人もあれば、受験指導の達人を『いい先生』ということもあります。道を踏み外しそうになった時に助けてくれた先生は一生忘れることができない『いい先生』でしょうね。

 『良い(いい)』」の基準は人によって違います。極端な言い方をすれば『いい先生』というのは『私』にとって『いい先生』であればいいのです。ですから『私』の数と同じだけ『いい先生』像はあるのです。それを一つにまとめて『いい先生のモデル』を作って、こんな先生になれというのは野暮な話です」(「悪貨は良貨を駆逐する」2021,4,7)

 

 今年度の「考える先生」育成プロジェクトの目的は「『考える先生』を育てるプログラムのプロトタイプ(原型)を創る」ことです。「考える先生」のモデルを作ることではありません。「考える先生」とは「考えることができる先生」です。ですから「考える」ことは手段であり目的でもあるのです。

 T君はこんなことを書いています。

 

 「S校長先生との対話の中で『考える先生』って何?と問われた時すぐに応えられなかった。また、『じゃあ、考えない先生って何?』と問われた時も全く何も言えなかった。自分の中にぼんやりとしている『考える先生』が何かわからないまま『考える先生』を目指していることに気付かされた。『考える先生』はA Iの進化が加速する予測困難な時代で子供たちを導ける先生というふうに答えたが『何を持っていれば導ける?どこへ導くの?』と問われ、これも答えに詰まった。ふわふわした雲のようなものを今までずっとつかもうとしていたのだ。『考える』ということ自体を自ら考えなくてはならない」。(6月24日付T君のリフレクションシートより)

 私も「考える」ということ自体を自ら考えます。(イデちゃん)

「考える」は目的か、手段か

f:id:Question-lab:20211011103150j:plain

西に向かって(マツミナ)

 

 「考える先生」育成プロジェクトに関するやりとりを読みながら、「そうか」と「そうか?」を繰り返しています。その中で浮かんだ二つの質問を書いておきます。

 まずは「みんな違ってみんないい」でいいのか。「いい先生」モデルを押し付けるのではなく、自分で考えていく、というのはごもっとも。ただ、「いい先生」は「誰にとって」という文脈の中で語られるときに、異なる像を結ぶことになるでしょう。それはT君のリフレクションシートにも書かれていました。

 「生徒にとっての「良い先生」と、それ以外の人にとっての「良い」先生は全く異なる姿をしているんだなと感じた」

 

 リフレクションシートを読んだとき、今年3月に行われた米中外交トップ会談での、中国の外交担当トップ、楊潔篪共産党中央政治局委員の発言を思い出しました(3月23日付読売新聞朝刊)。

 「米国には米国式の民主主義があり、中国には中国式の民主主義がある」

 台湾や香港、新疆ウイグル自治区に対する中国の対応は、「中国式の民主主義」という表現におさまるものだったのか…。強い衝撃を受けました。

 生徒にとっての「良い先生」も、千差万別でしょう。さらには保護者、校長ら管理職、教育委員会文科省、社会全体も、それぞれの文脈で「良い先生」を語るでしょう。時代背景によっても変わります。「みんな違ってみんないい」でいいのかどうか。「良い先生」と「いい先生」は同じなのかどうかさえ、判然としません。

 

 もう一つの質問は、「考える先生」育成プロジェクトの目的は何か、です。「考える」こと自体が目的なのでしょうか。それとも、「考える」ことは手段に過ぎず、「いい先生」モデルを学生自身に構築させることが目的でしょうか。後者だとすると、そこでまた「どの文脈での『いい先生』なのか」という問題は常につきまといます。

 

 イデちゃんの知人から送られてきたメールは、プロジェクトを考えていくうえでのヒントになるかもしれません。

 「今の学生に教えない、自分で考えろというのはキツくないかな」

 この文章に主語を補ってみました。ひょっとしたら「キツい」のは学生ではなく、周りの「私たち」かも。焦ったくて見ていられない、待っていられないからキツいのではないでしょうか。

 プロジェクトはまだプロトタイプ、たたき台にすぎません。面白くなってきました。(マツミナ)

「いい先生」のモデルは自分でつくる

 

f:id:Question-lab:20211010205646j:plain

雲海に沈む夕陽 立山天狗平(イデちゃん)

 

 「後半戦に入った考える先生プロジェクトの課題」を読んだ知人から、S校長と同じような点を危惧する指摘がきました。彼はもっと直截で「今の学生に教えない、自分で考えろというのはキツくないかな。T君だって色々考えていると思うよ。放し飼いにしておかないでそれを引き出し、せめて方向付けくらいしてやってもいいのではないか」と書いていました。

 

 私が「教えないで欲しい」とお願いした理由は、このプロジェクトは「考える教師」とはどのような教師なのか自分で考え、モデルを自分自身で作ることを目指しているからです。中教審教育委員会が既に示している教師像を示して、学生をそれに近づけるために指導したり教えたりしようとは思っていません。ですから「教えないで、なぜそういう疑問をもったのか尋ねてほしい。そして、二人のやりとりを繰り返すことを通して、T君自身に考えさせていただきたい」とお願いしたのです。

 

 実際、T君のリフレクションシートからは、彼が自問自答しながら考えを深めようとする芽生えを見ることができます。1年生の校外学習の事前指導の際の先生の対応をこのように捉えています。

 「先生が話していても私語が止まらない場面があった。学校外に生徒を出すのだから静かにさせ、話を聞かせるというのは教員として当たり前のことであろう。しかし、それに対して注意した先生は一人しかいなかった。私は後ろで事前指導を見ていたが、何故、他の先生は誰も注意しないのだろうと終始疑問に思っていた。生徒たちからすれば怒らない先生は『優しい先生』と認識しているかもしれない。もし先生の方が『怒らない=優しい』と解釈しているならば、それは『優しい』ではなく『甘やかし』だろう。今回の事前指導以外にも授業中にどんなにうるさくても注意しない先生がいた。生徒たちからは『優しくて良い先生』と認識されているらしいが、傍観者の私からすればそれは全く『良い』先生ではない。然るべき場面で然るべき指導を怠れば生徒たちからは甘く見られる。先生の威厳が失われるでしょう。改めて生徒にとっての「良い」先生と、それ以外の人にとっての「良い」先生は全く異なる姿をしているんだなと感じた」(6月3日)

 

 T君は「生徒たちからすれば怒らない先生は『優しい先生』と認識しているかもしれない」が先生には威厳が必要だと考えているようです。そう考えた根拠は多分、自分の中学生の時の体験からでしょう。私たちは「先生の威厳」が「厳しい指導」だけで保たれているわけではないことを知っています。でも、それを教えようとは思いません。教えてもらってわかったつもりになっても困るからです。

 「私の考える『良い』教師像の一要素に生徒理解がある。生徒を理解するためにはどの立場から何をすればよいのか?どこまで理解してあげればよいのか?まだはっきりしていないことが多い。今後も考え続けていきたい」(6月10日)

 そうです。T君、良い先生のモデルは自分で作るのです。(イデちゃん)

テーマを見つけられないのは、学生の問題か

f:id:Question-lab:20211009214607j:plain

塩麹に2日漬け込むだけで別格の味わい。カボスを添えて(マツミナ)

 

   ゼミの教授に「卒論のテーマをください」と求める学生は、特殊な事例ではないと見ています。新聞記者時代に取材した大学で似たような話をしょっちゅう聞いていたからです。

 「自分の知識と経験をフルに使い、オリジナルなテーマを見つけ出す力が衰えている」――。嘆く大学の先生たちに同情する一方で、内心では、そうした力が衰えているのは学生だけだろうかと首をかしげていました。国公私立、どの大学を取材していても既視感のある取り組みばかりが目についていたのです。

 

 初年次教育はその一例です。新入生を対象にした教育プログラムで、大学での学び方を手取り足取り教えていました。高校と大学では学び方が違うことを伝えることが眼目で、もとは1980年~90年代にアメリカの大学で広がっていたプログラムが輸入されたと聞いています。

 初めは、現状に対する問題意識を抱えた大学人たちの意欲ある取り組みでした。ノートの取り方、レポートの書き方、時間割の組み方…。どれも目の前の学生たちが困っていることを把握して、そこから対策として練り上げた内容でした。授業を取材するたびに、そこに込められた熱い思いに感動したことを覚えています。

 いつからかそれが「横並び」で広がっていました。しかも判で押したような内容で、中でも「プレゼンテーションやディスカッション」が大人気。2018年度には631大学、全体の85%を占めるほどに広がっていました(文部科学省調査「大学における教育内容等の改革状況について」2018年度より)。

 横並びのきっかけとなったのは、中央教育審議会の答申でしょう。2012年にこんな答申を出しています。

 「従来のような知識の伝達・注入を中心とした授業から、教員と学生が意思疎通を図りつつ、一緒になって切磋琢磨し、相互に刺激を与えながら知的に成長する場を創り、学生が主体的に問題を発見し解を見いだしていく能動的学修(アクティブ・ラーニング)への転換が必要である」(新たな未来を築くための大学教育の質的転換に向けて~生涯学び続け、主体的に考える力を育成する大学へ)。この答申を受け、文科省がディスカッションやプレゼンテーションを盛り込んだ初年次教育の有無を尋ねているのですから、広がったのは当然なのかもしれません。

 

 そうした大学で学ぶ学生が独自のテーマを見つけるのは、そう簡単ではないでしょう。でも、希望はあります。「質問力を磨く」や「考える先生」に参加している学生がいるのですから。学生は成長したがっているのです。(マツミナ)

後半戦に入った「考える先生」プロジェクトの課題

f:id:Question-lab:20211008212848j:plain

秋のキャンバス(イデちゃん)

 

 「考える先生」を育てるプロジェクトで、4月からT君の学校参観を引き受けていただいているS校長から次のような指摘をいただきました。

 「前半の学校観察では、自分自身の学校生活体験をもとにした気づきや問題意識が中心で、思考の深まりを感じさせるものにはなっていないと感じています。12月までの約10回の学校訪問も、これまでと同様に自由に観察する環境を提供するだけでよいのか少し心配になってきました。当初の計画の通り、中学校現場をフィールドとして提供するだけでよいのでしょうか。前期と同じことを続けていては、『考える先生』を育成するためのヒントはなかなか得られないのではないかと危惧しています」

 

 「前半の学校観察では、自分自身の学校生活体験をもとにした気づきや問題意識が中心で、思考の深まりを感じさせるものにはなっていない」のはなぜでしょうか。

 T君は参観校の生徒たちの様子を観察し自分の中学生の時と比較しています。気づきや問題意識は、当時とどこが違うかに止まり「なぜ違うのか」「なぜ変わったのか」というところまでは踏み込んで考えていないように思います。

 T君が参観するたびに書いているリフレクションシートには「僕の学校は制服だったので最初は慣れなかった」等の記述があります。T君は私服の生徒たちに違和感を覚えたようですが「なぜ制服ではないのか」考えた形跡はありません。制服の問題は日本の学校教育を考える上で欠かすことができない視点であるのですが、それについて自分で調べたり考えたりしてはいないようです。

 

 私は参観を開始するに当たり、S校長に「T君の質問にすぐ答えを教えないでほしい。その代わりに、なぜそういう疑問をもったのか尋ねてほしい。そして、二人のやりとりを繰り返すことを通して、T君自身に考えさせていただきたい」とお願いしました。

 ですから、T君が「なぜ制服ではないのか」とS校長に尋ねても、おそらく教えてはくれなかったでしょう。「考えてごらん」と言えばT君は考えたかもしれませんがS校長は「教えないでほしい」という私の無茶な注文を受け止めてくれました。

 S校長の「思考の深まりを感じない。このままでいいのか」という指摘は「考えさせるような働き掛けをする必要があるのではないか」という提案とも受け止められます。4月以来T君を見続けてきてくれたS校長の前期と同じことを続けていては、『考える先生』を育成するためのヒントはなかなか得られないのではないか」という危惧に応えるために対応策を考えなくてはなりません。

 

 課題を与え問題点を示して「考えなさい」と指示すれば、学生は考えるでしょう。でも、それではいつまでたっても「先生、卒論のテーマをください」という学生の状態です。「自分で課題を発見し、自分で答えを考える」学生をどうしたら育てることができるか。ミナさん、S校長、T君、そして関係する皆さんを交えて考えていきます。(イデちゃん)

一杯のワインから

f:id:Question-lab:20211007212815j:plain

たまにはのんびり(マツミナ)

 

 なぜ学生はテーマを見つけられないか――。

 昨日の続きを書こうと、これまでに出された数々の中央教育審議会答申を読み直しているうちに、すっかりうんざりしてしまいました。気分を盛り上げるため、3億年ぶりにワインを飲んだら、今度はすっかり夢気分。明日以降に書くことにします。

 

 皆さま、ごきげんよう。(マツミナ)

 「卒論のテーマをください」

  

f:id:Question-lab:20211006201747j:plain

疲れた時にはプリン(マツミナ)

 帝京・上智の両大学で開講している「質問力を磨く(ClassQ)」で、秋学期から「脳トレシート」を教材に導入しました。

 自分以外の誰かになりきって新聞を読む。ここまでは今までと同じで、その後の展開が異なるオリジナル教材です。山浦晴男先生の「ロジカル・ブレスト法」(「発想の整理学――AIに負けない思考法」ちくま新書)を参考に作りました。ロジカル・ブレスト法は、自分でテーマを設定し、そこから思考を広げていくところに特徴があります。

 これまでClass Qで使っていた「コンセプトマップ」は、記事からキーワードを拾い上げて書き込んでいけば何となく形になっていました。脳トレシートは、自分で思考の方向性を決めないと、何も始まりません。ここで、学生全員がはたと困り、口々にこう言いました。

 「テーマ設定ができない」

 その言葉を聞いているうちに、ふと、K大学教授から聞いた、学生との珍妙なやりとりを思い出しました。

 

学生「先生、卒論のテーマをください」

教授「卒論のテーマ? ここにはないよ」

学生「どこにあるんですか」

教授「あの山の、向こうかなあ…」

 

 教授は窓の外に目をやり、会話はここで終わったそうです。

 つい笑ってしまった私に向かって、教授はこう話してくれました。「笑い事じゃないんだよ。大学に学びに来て、自分の卒論のテーマも決められない。そんな学生を育てているんだよ、僕たちは」

 

 学生がテーマの設定に困るのはなぜか、いろいろな理由が考えられるでしょう。ただ確かなのは、テーマを自分で決めなくてもいい、誰かにテーマを決めてもらって学んできたということです。

 教授に話を聞いたのは、随分前のことです。その後、「主体的な学び」の重要性が指摘され、小学校から大学までの授業は変わったはずです。でも、学生が相変わらずテーマ設定に困っている現実は、何を意味するのでしょうか。(マツミナ)

 

  

通信制高校の見直し

 

 

f:id:Question-lab:20211005194856j:plain

いつも誰かがお世話している道祖神(イデちゃん)

 

 「文部科学省は、不登校経験者の生徒が増えるなど状況が変化している通信制高校の制度を抜本的に見直す方針を決めた。対面授業の義務付けを想定しており、(9)28日に有識者会議の初会合を開いて議論を始めた。近年の不祥事続発を受け、国の監督強化も論点となる。学校教育法や省令を改正し、2023年の新制度移行を目指す。

 通信制に在籍する生徒は約22万人に上り、増加傾向に。半数が小中学校で不登校だったとの調査結果があり、自宅学習へのサポートが必要だとの意見が浮上。働きながら遠隔で学ぶという現行制度の前提が変化しており、文科省は、一定時間は校舎で対面授業を受ける方向で検討する」(2021929日付東京新聞夕刊)

 

 この記事からは、何を見直そうというのかはっきり読み取れません。通信制高校で学ぶ不登校経験者の生徒が増増加して、働きながら遠隔で学ぶという前提が変化したからですか。それとも実際に授業をしないでやったふりだけして補助金もらっている不埒な「業者」がいるからですか。

 「自習中心の教育についていけない生徒が増えている」から「一定時間は校舎で対面授業」を受けさせれば「学習習慣」は身につくのでしょうか。有識者の方々がほんとにそう考えているのでしょうか。「リモート授業は出席と認めない」とする文科省の意と同様に「一定時間は校舎で対面授業を受けなければ履修を認定しない」ということになるでしょうか。

 通信制高校定時制高校と同様に、働きながら学ぶ勤労青少年が高校教育を受けることができるようにという目的から発足しました。1960年代以降の高度経済成長期に地方から都会の企業に就職した多くの中学校卒業者が定時制高校や通信制高校で学び、高校卒業資格を取得することができました。勤労青少年の向学心を支える教育制度だったのです。  

 

 半世紀以上が過ぎ、通信制高校で学ぶ生徒が当時と変わってきていることは私も承知しています。働きながら遠隔で学ぶという現行制度の前提が曖昧になっていることも確かです。だからと言って「学校に来て対面で学ぶ」ということに力点を置いて学校教育法や省令を改正すれば事足りるとは思いません。学び方は多様でいいはずですし、国が決めることではないと思うからです。(イデちゃん)

「責任感」が学生を考えさせる

f:id:Question-lab:20211003214307j:plain

栗の美味しい季節になりました(マツミナ)

 

 昨日は学生主催のマラソンQに参加してきました。「自分以外の誰かになりきって」新聞を読み、問いを立てるというふだんの授業の6時間版です。帝京大学の図書館も使って、たくさんの本を資料として活用しながら、延々と思考を深めていきます。

 ふだんは授業者。昨日は一参加者として学生と一緒にチームに入れてもらいました。その中で何が刺激となって学生は考えるようになるのか、知りたかったのです。

 

 その結果、考えさせる一つに「責任感」があることがわかりました。司会となった学生を見て気づきました。

 司会に課されるのは、6時間の構成、記事や担当者の配置の決定です。担当者の配置は、手伝ってくれる仲間を探して頼むというひと手間も発生します。司会の学生は「人とかかわるのが苦手」といつもこぼしています。それが、どうやら頭を下げて手伝ってもらったようです。見かねて周りが手を出したのかもしれませんが。

 記事選びからも、司会の学生が考えたことがわかりました。

 選んだ記事は「新車国内販売32%減 9月 部品不足で減産」(2021年10月2日付読売新聞朝刊)。経済面に掲載された2段扱い、小さな記事です。新車の販売台数が前年同月比32%減、31万8371台、3か月連続のマイナス。1968年に次いで、過去2番目に少ない販売台数でした。東南アジアで新型コロナウイルスの感染拡大でロックダウン(都市封鎖)が行われ、工場が稼働せず部品不足が深刻化。各メーカーが大幅に減産せざるを得なかったことが販売台数の少なさに表れたと書かれていました。これを経済産業省官僚になりきって考えるという設定にしてきました。

 

 司会の学生は、記事を決めるため朝5時に起きて、新聞を隅々まで読んで思考をめぐらせたそうです。日本の基幹産業の自動車の減産は何を意味しているのか、外国に工場を置くことの功罪、そうなると台湾頼りの半導体も問題だろうか、中国にも工場を置いている日本企業が多いから日中関係も考えなければ…。

 

 今回は約20人とこぢんまりとした規模でした。そのため時間にもゆとりのある設計になり、参加者も「楽しかった」「また参加したい」と満足感を口にしていました。

 終了後に学生からメールが来ました。

 「(他の学生にも)たくさん迷惑をかけました。でも司会者をしたからこそ見える景色や学びがありとても勉強になりました。朝早く起きて新聞記事を決めることや、立場を考える難しさを実感しました。でも楽しかったです。家に帰り、なにか喪失感がすごいです」

 

 仲間に迷惑をかけたことを自覚できた、喪失感を抱けるほどに熱中したということです。

 司会に指名したのは私ですから、追い込まれたに過ぎない、とも言えます。でも一歩ずつ。自分で手を挙げられるようになる日がくると信じています。(マツミナ)

  

 

屋根のなくなった学校

f:id:Question-lab:20211002205826j:plain

富士山 台風の翌日朝 雲なし(イデちゃん)

 

  9月30日、10月1日の2日間は台風情報から目が離せませんでした。

 「大型で強い台風第16号は……」という前置きに続いてテレビ画面に映し出される伊豆諸島の状況を見ていると、知っている場所が次々と出てきて様子が気になります。八丈島の藍ケ江の様子が映りました。10数mを超える高さの波が防波堤を乗り越えています。以前勤めていた小学校の前の道をまっすぐ下りて行った断崖の下にある小さな漁港です。海が穏やかな時は名の通り透き通るような藍色をした入江で、夏は突堤の内側で泳ぐことができます。

 

 沖に面した高い防波堤を高波が猛々しく越えて来る様子を見ながら、30数年前の出来事を思い出しました。

 1991年9月のことです。大型の台風が接近し八丈島を直撃するという予報で、その日は学校を臨時休校とし、校舎の保全に備えて男性の教職員を招集していました。台風が近づき強い風が校庭の周辺に植えられたビロウ椰子やカナリー椰子を揺らします。背の高いカナリー椰子は頭に近い辺りが大きく曲げられて、今にも折れんばかりでした。

晴れていれば職員室の窓から太平洋が見渡せます。水平線に入道雲が連なり、海と空の境目を大きな貨物船がゆっくりと進んでいくのが見えます。その日は海面まで垂れ下がった台風の雲が強い雨風を持ち込んで薄暗く、外の様子もよくわからないほどでした。

 昼近くになって朝から続いていた雨風が止み、ヤシの木の揺れも止まって静かになりました。外が明るくなり雲間に空が見えました。職員の一人が「台風の眼に入った」と教えてくれました。

 「吹き返しがくると危ないな」

 島に住んで長い彼が心配そうに言いました。「吹き返し」というのは台風の眼から出る時、風向きが今までと逆になることで、急に強い風が吹くそうです。

 心配したことが起こりました。突然、猛烈な突風が校庭の小さな石砂を巻き上げて職員室の窓を襲いました。窓ガラスは一枚残らず割れて室内に飛び散り、風は天井を打ち破ってトタン屋根をめくりあげて吹き抜けていきました。一瞬の出来事でした。職員室の隣の図書室と5・6年生の教室を見に行くと、どの部屋の窓ガラスも吹き飛ばされていました。

 外に出て校舎を見上げると、青いペンキを塗ったトタン屋根は無惨にめくり上げられ、一部はちぎれて吹き飛ばされて屋根がなくなっていました。

 

 一夜明けた今朝は台風一過の秋晴れ。八丈島で製パン業を営む友人に安否尋ねると「徹夜でパン生地を仕込み、手伝いの人を何人も頼んで、朝の1時からパンを焼いている」と返信がありました。台風のために東京からの定期船が何日も接岸できず、島に数軒しかない食品スーパーの陳列棚が空っぽになってしまったとのことです。開店までに間に合わせようと夜を徹してパンを焼く友人に、遠くからエールを送りました。(イデちゃん)

 

仲間と課題に取り組む学生たち

f:id:Question-lab:20211001164908j:plain

りんごの季節です(マツミナ)

 

 帝京大学の授業「質問力を磨く(Class Q)」で、秋学期から3人の学生に90分のうちの10分間を任せることにしました。3人は「課題チーム」と名乗っています。履修者がそれぞれ自宅で取り組んできた課題をお互いに見せ合う披露する時間を担当するチームで、本日はその2回目でした。

 課題は、社説を書き写す「社説の視写」、今学期から始めた「脳トレシート」の2種類。いくつかの班に分かれて、お互いに発表し、コメントをし合います。チームのメンバーはスライドを使いながら、この時間で何をしなければいけないのか、お互い披露することにどんな意味があるのかを懸命に説明していました。

 

 「わからないから投げ出すのではなく、わからないから取り組むんだよ」

 「わからないなりに、何が学べたか、言語化しよう」

 「仲間の取り組み方に、学び方のヒントがあるよ」

 「まずは自分の状況を見てもらおうよ。そこからだから」

 

 単なるおしゃべりの時間にしないために、短い時間をさらに細かく分けたり、初めて履修する学生と前からいる学生をバランスよく分けたりと、課題を続けようと思わせるための工夫を随所に盛り込んでいました。この10分間のために、どれほどの時間を費やしてきたことでしょうか。

 Class Qの課題は決して軽くありません。司会をしている学生たちも全員、課題には苦労してきました。手は疲れるし、時間はかかるし。バイトの休憩時間も使って取り組んだという話も聞いています。それでもやめることなく続いたのは、自分の現状への問題意識です。

 書いてきていない、読んできていないという状態のまま社会に出ていくわけにはいかないんだよ、自分たちは。ここで力をつけて行こうよ——

 学生たちは授業後に教室も取って、一緒に課題に取り組む時間も設けました。ひとりで課題に取り組めない学生も、仲間と一緒なら取り組めるようです。今日も10人以上の学生が、課題の用紙を持って、授業後も黙々と取り組んでいました。

 

 昨日、イデちゃんが書いていた「学校雇用シェアリンク」はどんなものになるのか、まだ見えません。企業に所属しながら教育現場に貢献できるという制度そのものの是非よりも、どんな人が担うのかによるだろうと考えています。目の前の子どもたちの課題を、一緒に考えてくれるでしょうか。解決するために力を注いでくれるでしょうか。それは今の免許制度の根幹にかかわるかもしれません。(マツミナ)