idematsu-qのブログ

屋根のない学校をつくろう

いい先生って?

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朝の訪問客(イデちゃん)

 忌野清志郎が歌った「僕の好きな先生」は、遅刻をする僕を口数少なく叱ってくれ、すてきな話をしてくれる、職員室が嫌いな先生でした。彼がどれほど先生を好きだったか、思いが歌から溢れて来ます。

 テレビ・ドラマ「ごくせん」(日本テレビ系)で 仲間由紀恵が演じる先生。おさげ髪にめがね、ジャージ姿のさえない女性教師が不良(死語だな)生徒を引き連れて、敢然と悪に立ち向かいます。

 そして、ご存知「3年B組金八先生」(T B S系)は中学校が荒れに荒れた70年代、体を張って中学生に立ち向かったおっさん教師。金八に憧れて先生になった人も結構いたようですね。ま、現実はドラマのようにはいかないけれど。

 

 ここで質問です。「それぞれの先生の担当教科は何ですか「僕の好きな先生」は実在した高校の美術の先生です。「ごくせん」の担当はなんだっけ?「金八先生」は中学の国語の先生でしたね。

 続けて質問②  「ドラマに出てくる先生が教科の指導をしている場面を見たことありますか」

 「金八先生」はたまに国語?と思われる授業をしていましたが、ほとんどは「人間とは」とか「人を愛するとは」とかいった類の説教(叱っているのではない。本来の意味の説教)をする場面の方が多かったような記憶があります。

 「ごくせん」は「オメーラ座れ、黙れ、聞け」がほとんどで、勉強を教えている場面あったかなあ。

 

 ところで東京都が求める教師像ってご存知ですか。

① 教育に関する熱意と使命感を持つ教師

② 豊かな人間性と思いやりのある教師

③ 子供の良さや可能性を引き出し、伸ばすことができる教師

④ 組織人としての責任感や協調性を有し、互いに高め合う教師

  (東京都教育委員会H Pより)

 質問3です。「3人の先生は東京都のお眼鏡にかなうでしょうか」

 ま、① ② ③まではO Kでしょうか。問題は④です。小説やテレビ映画に登場する先生が魅力的なのは、生徒には好かれるけれど権力・権威にへつらわず、我が道を行く格好良さにあるようです。あなたの評価はいかがですか。

 おまけの質問を一つ。 

 ③の「子供の良さや可能性を引き出し、伸ばすことができる教師」の具体的項目に「教科等に関する高い指導力」というのがあります。「金八先生」も「ごくせん」も教科の指導場面がほとんどないので、評価をしようがありません。教科等の高い専門性はあったのでしょうか。

 

 新学期が始まります。始業式の後、学級担任や教科担任が発表されます。「いい先生」に当たったと喜ぶ人もいれば「外れた」と嘆く人もいるでしょう。

 そこで最後の質問。あなたにとって「いい先生」ってどんな先生ですか。(イデちゃん)

就職偏差値

 

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都心のビルに咲いた人工の大きな花(東京・六本木で、マツミナ)

 長屋のご隠居さんに言わせると、#教師のバトン は無粋なのですね。

  「教師のバトンなんて名前からして粋じゃないねえ。真ん中が抜けていても竹輪は食えるけど、バトンなんて食えやしねえ」(長屋の隠居)

 その通りです。先生たちも、食えないバトンでは、なかなか若い人たちに渡せませんね。「就職偏差値」を気にする学生たちのことです。渡そうったって、受け取らないかもしれません。

 

 「就職偏差値」という言葉を最初に聞いたのは、いつだったか。東京都内のある大学のキャンパスで耳にしました。学生同士が、その場にいない仲間の噂話をしていました。

 

 「あいつ、△△テレビだってよ」

 「やべえ、就職偏差値高っ」

 

 初めて耳にした言葉を放置できず、つい会話に割り込み、解説を求めました。一部上場の有名企業、上場していなくてもマスコミやメディア露出度の高い企業は「就職偏差値が高い」と教えてくれました。

 以来、あちこちで学生の会話に聞き耳を立てているうちに、この言葉が結構な頻度で使われている割には、中身がない、イメージの域を出ていないことがわかりました。例えば、「就職偏差値が高い=いい企業」「低い企業=ブラック」といった具合です。

 実態と合っていないことを示す一例が今年3月、報じられていました。米ゴールドマン・サックスの実態調査で、入社1年目のアナリストの勤務時間が平均週95時間を超えていたことがわかったそうです。CNNによると、毎日の睡眠時間は5時間で、中には食事もせず、シャワーを浴びることもできず、朝から真夜中まで仕事をしていた人もいたということです(CNN 3月19日)。

 ゴールドマン・サックスは金融大手の超有名企業ですから、学生に言わせたら「偏差値がチョー高い」はず。こんな状態でも「いい企業」と言えるのか。それなら、日本の学校現場も「いい職場」ですね。

 偏差値は母集団の中での位置にすぎません。模擬試験の結果の「偏差値」ならわかるけれど、就職偏差値はさて。夢かうつつかもわからない幻想に惑わされず、労働条件や福利厚生に目を凝らして選んできてほしいと願っています。食えないバトンじゃ困りますから。(マツミナ)

 

そのうちわかる時が来る

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花筵愛でる人こそ楽しけれ(イデちゃん)


 
「#教師のバトン」炎上。文科省の発案者もこんなはずではなかったと思っているかもしれませんね。

 

 

 春日八郎が歌っていたっけなあ。「♪死んだはずだよ お富さん 生きていたとは お釈迦様でも 知らぬ仏のお富さん」(山崎正作詞「お富さん」)って。お釈迦様でもご存知ないことがあるのだから、凡人には思いもつかないことなんて娑婆には山ほどあるってことよ。

 「ひとつだけ願わくば、学校の先生ですからもう少し品の良い書き方をしてほしいなというのは私個人としてはございます」とかなんとか文科大臣が言ったとか。

 「♪愚痴はよそうぜ お富さん…」

 日頃、教育や教師について研究したり評論したりいている「応援団」の皆様も意外に思っているんじゃねーのかな。ほら「藪を突いて蛇を出す」っていうだろ。出てきた蛇に驚くのは野暮ってもんよ。この際どんどん突いて蛇退治でもおやりなったらいかが。それとも「知らぬ仏」を決め込むかい。

 「♪いきな黒塀 見越しの松に 仇な姿の 洗い髪」 

 粋だねえ、お富さんは。今の若い衆は春日八郎なんて大昔の歌手なんぞ知らねーだろうなあ。(長屋の隠居)

 

 

 先日、「考える先生」プロジェクトに参加を希望する学生と話しました。「学校に行ったら、あれも知りたい、これも勉強したい」と考えている真面目で素直な教員志望の学生です。「生徒との関係を深め、受験や学校生活で悩んでいることにも相談に乗ってあげたい」と思いの丈を話してくれました。

 意地悪な私が「そんなに簡単に人のことはわからないよ。わかろうと努力しなくてもいい。そのうちにわかってくるから。でも、世の中にはわからないことの方が多いかもね」と、まぜ返すと学生は困った顔になり、一生懸命に答えを探していました。

 わかることやできるようになることを目的とする学校では、わからないことやできないことを放置することは許されません。わからないことを教えてくれるのが先生の役目ですから「わからなくていい」という今まで聞いてきたことと反対のセリフは学生を困惑させたようです。

 「僕たちは、時間をかけずに早く正解を見つけることがいいことだと思っていました」という彼らの世代にとって、「そのうちにわかるよ」なんてと言われても、雲をつかむような話かも知れませんね。

 

 「考える先生を育てる」プロジェクトの行き先は「そのうちにわかる」試みです。参加したらどんなインセンティブがありますかと尋ねられても「ありません」としか言えません。「何ができるようになるか」と問われても「そのうちにわかる」としか言いようのない話です。

 だから若者に「世の中をそんなに簡単にわからなくていい。そのうちにわかってくるから」と言ったのです。学校に通っている間に何かが見えてくるはずです。初めの頃には見えなかったものがだんだん見えてきます。同じように繰り返される風景の中で、見落としていたことに気づく時が必ずきます。それまではわからなくていいのです。世間には教えても説明してもわからないことがあるのですから。

 

 「そのうちにわかる」ということは「そのうちに見えてくる」ということです。見えてきたら考えることです。「なぜだろう不思議だな」という問いかけはテレビの幼児番組の専売特許ではありません。(イデちゃん)

#教師のバトン 渡せる状態か

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ルバーブのケーキで、心に春風(マツミナ)


 
文部科学省内は大変なことになっているようです。学校法人改革が暗礁に乗り上げ、大学改革も迷走。そして今日、イデちゃんに聞きました。「#教師のバトンが炎上している」。

 「#教師のバトン」は今年3月、文科省SNSを使って始めたプロジェクトです。現場の先生たちに日々の思いをTwitterに寄せてもらうことで、「教職を目指す学生・社会人の方々の準備に役立てていただく」(文科省)ことを狙っています。

 背景にあるのは教員採用倍率の低下。2020年度の小学校教員の採用倍率は、過去最低の2.7倍でした。「ブラック職場」を敬遠し、なり手が減っているからです。子どもたちとの心あたたまるやりとりや、支え合う仲間たちとの日々を、先生たちがTwitterで発信してくれればきっと……。そんな皮算用をしたのでしょう。

 ところが、出てきたのは―― *以下はTwitterからの引用

 

 〈妊娠しましたが流産しました。妊娠前からあったパワハラも変わらず(略)メンタルが崩壊し、病気休暇となりました〉

 〈残業代なし 休日なし 平均勤務時間11時間以上 素人でも部活動顧問 上司は競争率1.1倍の管理職試験を勝ち抜いた無能またはパワー系 10年ごとの免許更新あり。死ぬほど忙しい中自腹で大学行け〉

 〈教員という仕事は日本で唯一の残業代が支給されないことが合法化されている職業です〉

 〈教員志望の若者へ 一生独身の可能性が有意に高い職場なので、今のうちに再考を〉

 

 こうした投稿に対し、萩生田大臣はこんなコメントをしました。

 「こんな職場に若い学生たちは来ない方がいいみたいなネガティブな意見もあって戸惑いも感じていますけど、ひとつだけ願わくば、学校の先生ですからもう少し品の良い書き方をしてほしいなというのは私個人としてはございます」

 

 もちろん、反論があがります。

 〈生きるか死ぬかの瀬戸際の人の声は、果たして下品なのでしょうか〉

 〈上品な労働環境にしてくださいよ。大臣、学校現場わかっていないですよね。1ヶ月でも現場に来てください〉

 

 学校現場の厳しさは繰り返し報じられてきたのに、抜本的な改革もせず、「Twitterで発信すれば何とかなる」と考えたのでしょうか。冒頭に書いた学校法人改革、大学改革にしても同じです。お茶を濁す程度で、真剣さがみえません。

 先生になりたいと意欲を燃やす学生は「質問力を磨く(ClassQ)」にもいます。願わくば、学生の熱い思いを受け止め、現職の先生たちが若い人に自信を持ってバトンを渡せる地盤整備を願いたいです。上品でなくてもいいから。(マツミナ)

教員人事異動

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ハナニラ(イデちゃん)

 今日の朝刊に東京都の教員人事異動の別刷が入っていました。見知った名前が並んでいます。新任校長の中に、30年前、新卒教員として迎えた若者の名前を見つけました。彼の歳を数え、自分の歳を数えなおして、改めて過ぎた年月の長さを思いました。

 新聞の見出しに「AI時代 新たなステージへ」とあります。「老兵は死なず、ただ消え行くのみ」ですね。

 

 長いこと人事に携わってきた身の悲しさで「あの学校にこの校長か」などと、つい見入り「なるほど」と腑に落ちるものもあれば、「?」と感じるものもあります。人事担当者の苦心の産物と思いたいところですが、様々な思惑が駆け巡るのも人情というものです。

 

 「人事はメッセージ」と言われます。適材を適所にとはいうものの、当事者にも関係者にも納得のいく人事はなかなか難しいことです。「なんで私がこんな学校に」「どうしてあいつがあの学校に」と思うのは人の性。さりとて一人一人に人事の経緯を説明するわけにはいきません。当人がどう受け止めるか、その人事を周囲がどう理解するか、辞令に込めたメッセージを読み取ってほしいと願い、そのうちわかる時が来ると静観するのも役目の一つです。上等な人事は説明無用と教わりました。

 

 先生も人の子。「不遇」と恨むこともあれば「得意」になる時もあるのが人事です。「河岸を変える」ことによって「水を得る」こともあります。人事は仁事と受け止め、得意の時は澹然と、失意の折は泰然として品格を卑しめないことが肝要です。もっとも、こういうことは学校では教えてくれません。「官僚たちの夏」(城山三郎)でもお読みください。

 

 さて、4月1日は新任教諭の発令も行われます。近頃は大学を卒業してすぐに教員になる人ばかりではなく、かなりの人が臨時的任用教員の経験があったり、社会人からの転身だったりします。辞令伝達式に並ぶ顔も様々で、一様に緊張してはいるけれど、経験はやはり顔に現れます。辞令を受け取る時の様子も、ゼンマイ仕掛けの人形のようにギクシャクした動きの人もいれば、お辞儀の仕方にも落ち着きが見られ、既に先生然とした人もいます。「ゼンマイ仕掛け」が大化けするか、「先生然」が見掛け倒しに終わるか、それは今後のお楽しみです。

 

 私は現職の時、新任発令の時、必ず挨拶に加えたことが三つあります。

 一つは、社会人としての常識(COMMON SENCE)を持ち、公民(市民)としての義務(CITIZENSHIP)を果たすこと。

 二つ目は、社会(現実)との繋がりを大切にして、社会から学び続けること。

 三つ目は、子どもの名前は人格と存在を表す。一人一人の名前を大切にすること。

 

 「いい先生になってほしい」とは言いませんでした。なぜでしょう。(イデちゃん)

主体的・対話的で深い学び

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生クリームはボウルごと持ってきてほしい(マツミナ)


   
2022年度から高校生が使う教科書の検定結果が公表されました。「主体的・対話的で深い学び」の理念が盛り込まれているそうです。自ら課題を見つけ、先生、あるいは生徒同士で意見を交え、考えを深めていく授業――そこまで想像しながら、ふと、学生とのやりとりを思い出しました。

 

 ある日の授業後、1年生の男子学生が「質問があるんです、マジな」と寄ってきました。何だろ、と促すと、続いて出てきた言葉は「先生はなぜ否定しないんですか」。

   その日の授業は、途中からずっと学生たちとのキャッチボールでした。「質問力を磨く(Class Q)」では、質問をたくさん出すためにコンセプトマップを広げることを勧めています。文章を単語に分解し、分類し、並べ替えていくことで、行間に隠れている言葉が浮上してくることがあるからです。これに対して、学生から「Cマップは何のために書くのか」「ゴールは質問作りだから、質問を作ってからマップを書く方が手っ取り早いのではないか」「どうしたら効率よくマップが書けるか」…。

 「余計な手間」を嫌い、一刻も早く「答え」にたどり着きたい学生は必ずいます。ゴールから逆算した方が早いという意見は、その発想の延長ですから、さもありなんです。そうした学生たちの問いに対して私からは、その質問が本当に問いたいことなのだろうか、「仮説」としておいた方が発想が広がり見落としていた行間に気づかないだろうか、そう返しました。納得していない顔を見つけては、考えを聞き続けていました。

   「マジな」質問をしてきた学生は、その様子を黙って見ていました。彼の観察によると、いつの間にか、教室内の学生の目がキラキラしていったそうです。誰も私から目をそらさず、次は自分に話しかけてほしい、意見をぶつけ合いたい、わくわく…。

 「俺は不思議だったんすよ、あの空気の変化が」と彼は首を傾げていました。「俺はサークルの代表をしているんだけど、意見が違うと(相手を)否定する。みんなそうする。でも、先生はしない」。その理由を知りたかったと言います。

   学生たちは否定されてきたと感じていたようです。先生に、親に、同世代の誰かに。言葉のキャッチボールを通して新しい投げ方を覚える前に、たたきふせる、ねじ伏せるという乱暴な技を身につけてしまったのかもしれません。そして、否定された人は、相手の意見をやはり否定する、その繰り返しだったようです。

 

 新しい教科書でどんな授業になるのか。少なくとも「否定された」で終わらない授業であればいい、と願っています。(マツミナ)

先生になる

 

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宝物の手紙

 新学期が始まります。新しい出会いが生まれます。入学や進級を機会に新しい自分を見つけたいと思う人もいるでしょう。夢とか希望とか未来とか、そんな言葉がふさわしく響く時間が少しでも長く続いてほしいと願っています。

 五十余年前、私は小学校の先生になりました。初めて担任した子どもの保護者から届いた手紙を今も大事に持っています。長い教師人生の始まりを「生気溌剌たる教師になれ」と励ましてくれた「宝物」です。

 

 

〈「わだち」の創刊号拝見しました。父兄の一人として感想らしいものを書き送ります。

 紙面に先生のフレッシュな教師としての願いが滲み出ていました。また、正直な自己反省もうかがわれてお人柄が偲ばれます。

 私自身、3人の子の父親として、日頃「初心忘るべからず」、子供を愛し、社会に責任を負い、そして自分に忠実に良心を貫き、正義感をごまかさないと念じて生きています。

 先生と子供達の前途にどんな道が拓け、どんな山河が待っているでしょうか。教師と両親の両輪がつくる「わだち」は何を軌跡するでしょうか。両者をつなぐ心棒はぐらつきがちです。これをどう設定し、かつ安定させていくか。とにかく御健康で精一杯おやり下さい。父兄や校長先生や同僚先輩のことなど、あんまり気にせず、自分をさらけ出し体当たりなさることを希望します。そこに自らなる謙虚さも反省も伴うはずですから。

 うちの二郎は末っ子で甘えん坊ですが、負けず嫌いでありボス的能力がありそうに観察しています。それでいて大変な照れ屋なのは私の幼少期にそっくりです。この一年どうか先生の思う存分のご指導によって「逞しさ」(精神的自律心と積極性)を少しでも培っていただければありがたいと思っています。学識・知識はその上で初めて役に立つものでしょうから。 

新しい先生は男の先生だったと喜んでいる二郎です。故郷の信州の山河は素晴らしい春を繰り広げていることでしょう。都塵に汚されることなく、いつまでも生気溌剌たる教師でありますようお祈りいたします。

 今日は二郎の誕生日でもあります。「わだち」を拝見し、一筆走らせた次第です。〉1970.4.25

 

 長い間にインクの色は薄くなり、便箋にはシミも滲んでいます。読み直し、考えました。「先生を育てる」ものは何か。見えてきたような気もします。これから始まる「考える先生を育てる」プロジェクトを通して、一人の若者がどのように変容していくか看取りながら確かめていくつもりです。(イデちゃん)

 

 

春の出会い

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明日も会おうね(マツミナ)


 毎朝6時に散歩をしています。この時期の早朝はさらに気持ちがいいですね。6時でも明るいから、たくさんの出会いを楽しむことができます。人、動物、そして植物が待っています。

 まずは植物。道端や塀の隙間から、たくさんの花や葉が顔を出しています。今朝は、スミレを見つけました。どうしてこんな所に。塀の継ぎ目から茎を伸ばし、葉を広げ、可憐な薄紫色の花を咲かせていました。このお宅の人にとっては迷惑かもしれないから、こっそり咲いているんだよ、と声をかけておきました。

 

 次なる出会いは、人の心に寄り添えると飼い主さんが教えてくれたゴールデンレトリバーくん。

 飼い主さんによると、ある日の夕方、散歩している最中、道端でランドセルを背負ったままうずくまっている小学生の男の子を見かけたそうです。飼い主さんはその後ろ姿をいぶかしく感じたけれど、黙って道の反対側を通り過ぎようとしました。これに対して、レトリバーくんは断固として動かない。それもほんの一瞬のことで、すぐにリードを握った飼い主さんごと引っ張って、その小学生の横に黙って座りました。うつむいていた男の子は、横に座ったレトリバーくんを見るやいなやその首に抱きついて、声をあげて泣き出しました。

 「不思議な光景だったわ。知らない子だったし、まさか泣いているとは思わなかったの」と飼い主さん。レトリバーくんには、その子の思いがわかったのでしょうか。

 しばらく泣いて、男の子はスッキリした顔で帰っていったそうです。

 

 新学期に向けての打ち合わせを始めました。「質問力を磨く(Class Q)」は私のほか、2人の頼もしい仲間がクラスを受け持ちます。この1年間をふりかえって一人が「この大学に来てよかったと思ってほしい」と言えば、もう一人は「社会で食っていける力をつけてほしい」。

 きっと山あり谷ありでしょうが、たくさんのすてきな出会いが待っていることだけは確かです。

 

 新学期が始まります。(マツミナ)

小さな商店街

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「だ〜れが生徒か先生か」 鳩の学校は神社の屋根の上(イデちゃん)


 
 自宅から歩いて駅まで行く途中に小さな商店街があります。古い街道に沿って肥料や野菜の種を売る店、葬式の花やちょうちんを扱う店、炭・燃料店、蕎麦屋などが並んでいますが、多くは看板だけで商いはしていないようです。ここに住み始めた頃は銭湯もありました。近隣からの買い物客で賑っていた頃が偲ばれます。

 

その一角に小さな和菓子屋があり、いつもは爺様一人で店番をしています。草餅、桜餅、ウグイス餅、おはぎなどの季節ものや、定番のみたらし団子や焼き団子が古びた商品ケースに並んでいます。毎日営業しているわけではなく、知らずに買いに行き当てが外れることもあります。

 

先日、駅からの帰りに立ち寄りました。店に入るとケースの後ろに座っていた爺様は「いらっしゃい」と言いながら立ち上がり、「今日は風が強いね」と迎えてくれました。

「明日は学校の卒業式だ、赤飯の注文があったよ」

近くにある小学校は、爺様が生まれる前からある古い学校です。もしかしたら卒業生かもしれません。

「天気が良くなるといいねえ、桜も咲いたし」

自分の子供はとうの昔に学校とは縁のない年になった爺様の、明日の天気を気遣う言葉に、住み続ける古い街への愛情のようなものを感じました。

 

注文した草餅と桜餅をパックに詰め、「はいよ。えーといくらになるかな」なんて言いながら輪ゴムで止めてくれました。

「袋代はいいや、めんどくせー」

「ありがとう」

「まいどっ」

5分もしない間のやりとりですが、外に出た時、なぜかいい気分でした。

 

広い駐車場を持つ大型小売店舗ができ、ずいぶん前から買い物は車に乗って出かけるようになりました。子供の頃よく母親に「お醤油が足らないから、ちょっとお使いに行ってきて」などと頼まれることがありましたが、昔々の話になりました。

古い商店街に残った間口一軒の小さな和菓子屋さん。日銭が入る間は続けると言っていたけれど、爺様の後を継ぐ人はいないかもしれません。小さな店が生き残ることが難しい時代ですね。(イデちゃん)

奪われた時間

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 八丈島では、卒業式に黄八丈を着るのですか。すてきですね。長い時の流れの中に、新たな一歩を踏み出す。門出にふさわしい装いです。今、私たちが失いかけているのは、その感覚ではないでしょうか。目に映るのは「今」しかないようにも感じます。

 

 先日、国立大学法人化(2004年)当時の国立大学長と話す機会がありました。日本の研究力のピークは2000年までだったとふりかえっていました。確かに「科学技術指標2020」(科学技術・学術政策研究所)を見ると、論文数、Top10%・1%補正論文数のいずれもその地位を低下させています=表=。元学長は、その理由をこう分析していました。

 「日本の学術研究は昔からお金がなかった。長い時間をかけて、少しずつ蓄積し、その中なら花を咲かせてきた。時間で稼いできたんだ。それが日本の学術の実態です」

 しかも、その「時間」の長さは、学問によって違うのだそうです。大学という一つの組織の中に、スパンの異なる学問を抱える部局が混在しているのです。法人化でその権限が強化されたとはいえ、学長が一律にそんな学内を管理することができるのでしょうか。

 「ガバナンスをいじれば奇跡が起こる――なんていうのは全くの嘘だね」

 こうもおっしゃっていました。

 

 改革に次ぐ改革で、大学からは時間がなくなりました。成果が出ないから、ますます焦燥感に駆られ、次の改革が打ち出されます。時間がなくなった大学から小中高校に送り出される先生もまた、考える時間を失ったままです。先生たちが向き合う子どもたちもまた…。

 

 「pisang zapra(ピサンザプラ)」 マレー語で「バナナを食べるときの所要時間」を示す名詞なのだそうです*。一体、どんなときにこの言葉を使うのでしょう。

 こんな感じでしょうか。

 「ちょっと待ってて」

 「どのぐらい」

 「ピサンザプラ」

 人によって、バナナの大きさによって、食べる時間は異なります。そんな事情を飲み込んだ、大雑把な時間感覚にあこがれすら感じます。(マツミナ)

 

 

*『翻訳できない世界のことば』(エラ・フランシス・サンダース、創元社刊)

 

 

卒業式

 

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30年前の卒業生に配った記念樹の花海棠。満開です(イデちゃん)


 「考えないことは怖いことだと、窓口お嬢がいつかわかってくれるといいなあ」と願うのは、私もミナさんと同じ。だけど「余計なことは考えるな」と教えられて育った呪縛を解くのは大変だろうな。複雑で自動化されたシステムは個人の考えが入り込む余地がなくなり、想定外の異変や異常が発生した時にはハングアップします。原発事故の時の東電の対応が典型ですね。個人が考え判断することは初めから想定してないのですから当然でしょう。手動に切り替えて対応するためには高度な知識と熟練を要します。コスパを考えればそんなことに金と時間をかけられません。余計なことはしない方が安く済むと思うのは浅知恵。結局は高い買い物になるのですが、先に立たないのが後悔ですから。

 

 昨日は近隣の小学校で卒業式が行われ、式を終えた何組もの親子に出会いました。母親より大きくなった少年の背に負われたランドセルが、大木に止まる蝉のように見えました。チェックのスカートにローファーが似合う女の子もいます。進学する中学の制服なのでしょうか、ちょっと大人びた姿が素敵でした。

 

 そういえば最近、卒業式に振袖を着る子供が増えてきたと聞きます。当日は朝早くから着付けをしてもらって式に備えるのですが、まだ子供のことですから途中でトイレに行きたくなって担任を困らせた、なんて笑えない話もあるようです。八丈島の小学校では卒業式に黄八丈を着るそうです。島の歴史が織り込まれた衣装をまとって卒業証書を受け取る時、この島の未来を支える人になれと願いを込めて着せてくれた黄八丈の重みを感じることでしょう。

 

 東京大学総長の卒業式告辞を読みました。歴代の総長の業績をたどり、これからの東大のあるべき姿を訴えています。コロナ禍によって欧米の大学が「世界を席巻してきた、学生を顧客ととらえる市場原理に基づく大学経営モデルに大きな疑問符が打たれ、経営モデルの転換を必死に模索している」中で、東大が主張してきた「グローバルな公共財としての大学、社会の変革を駆動する大学という高い目線で大学を新たな経営体とするという構想は、世界から新鮮な理念として受け止められ、輝きを放ち、評価されている」という自負から始まり、「事物の理を究めて知恵を深め、その共有を基盤に多様な人びとと力をあわせ、共感のもとでより良い社会を創っていく」ことを意味する「究知協創」という自作の4文字熟語を紹介し、「今後人類共通の課題に対して積極的に発信する『知のプロフェッショナル』の仲間として、皆さんとともに歩んでいきたい」と呼びかけています。

 大学商売の顧客ではなく、「知のプロフェッショナル」として生きよというメッセージを卒業生はどう受け止めたでしょうか。

 テレビで「東大王」とかいって、薄っぺらな知識の量を競っている東大生に伝わったかな。これから大学を目指す小中学生がモデルにして欲しくないと思うのは東大にいけなかった凡才のひがみですかね。(イデちゃん)

 

 

 

接客にも向かない「考えない人」

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幹からも花が(マツミナ)

 以前、このブログに書いた東京都杉並区のわいせつ教員の処分が発表されました。「免職」です。杉並区が独自に採用した「区費教員」だったのですね。本人の名前、学校名も記載されていました。「新宿区内のインタ ーネットカフェにおいて、ソーシャル・ネットワーキング・サービス上で知り合った当時14歳の女性が18歳に満たないことを知りながら、現金を供与して…」(杉並区ホームページから)。

 コロナ禍であること、クラスの子どもをはじめ、多くの人が傷つき、迷惑を被ることを考えていなかったのでしょうね。

 

 今日はJRのとある駅の窓口でこんなやりとりを目の当たりにしました。

 窓口を担当していたのは、若い女性です。客は、初老の男性。カードを出し、サインをしようとしたところ、窓口の女性はカードの読み取り機を男性の前に出し、「番号を入力してください」の一点張り。男性は「僕はサインでしかできないので。番号がわからないんですよ」と申し訳なさそうに断っていました。女性はひかず、「とにかく1回やってください」と押し切りました。男性が宙を見つめながら恐る恐る指を動かすと、「ピー」。番号が違ったようです。結局、男性はサインで決済していました。

 男性がほっと息をする間もなく、窓口の女性は追い討ちをかけます。

 「これからサインでの決済はできなくなりますから、カード会社に問い合わせてください」 

 コロナで大赤字のJRは、とうとうサービスもなげうったようです。客に合わせるのではなく、客に合わせさせる。しかも自分が正しいと勘違いしているお嬢様を窓口に座らせる。面白過ぎです。

 

 窓口お嬢の暴走は続きます。次は私の番です。子どもと一緒に子どもの定期券を買いに来ていました。習い事のためと説明すると、窓口お嬢曰く「子ども用定期券はありません」とにべもありません。JRのホームページに子ども用の定期券が記載されていましたよと返すと、窓口お嬢は慌てて奥に引っ込み、誰かに聞きにいったようです。後ろに上司を引き連れて戻ると「失礼しました」と一言。窓口お嬢が何もなかったかのような表情で、粛々と処理しているのを、上司は黙って見ていました。自社商品の知識がなくても、いいわけですね。上司は何のためについてきたのやら。

 

 考えない人が先生になると、たくさんの人を振り回し、最終的には取り返しのつかないことをしでかします。接客業でも、やはり多くの人に不快感をふりまき、最終的には…。考えないことは怖いことだと、窓口お嬢がいつかわかってくれるといいなあ。(マツミナ)

10年先の先生を育てる

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桜が咲いた(イデちゃん)

 桜が咲きました。古くから日本人と桜は特別の関係にあるようで、桜を愛でる歌、恨む歌、花を待つ歌、惜しむ歌など、桜を詠んだ歌が数多く残されています。

 西行は「ねがはくは 花のもとにて 春死なむ その如月の望月のころ」と詠みました。旧暦の如月はちょうど今頃です。桜は人の心を遠くに誘います。

 業平は「世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし」と詠いました。桜は心を騒がせます。美しい人に心を奪われた恋の切なさはいつの世も同じようです。

 「清水へ 祇園をよぎる 桜月夜 こよひ逢ふ人 みなうつくしき」(晶子)

 桜の花の下で逝きたいと思う人もいれば、桜に心乱れる人もいます。罪深い花ですね。

 

 昨年学校が一斉休業になり、失われた学びの時間と遅れた勉強を取り戻すために、9月を新学期にしようという議論が湧き上がりました。海外留学や教育の国際化のためにも是非やるべきだ。これまで何度も試みてできなかった大事業をやるには、千載一遇の機会である、といった声も聞かれました。

 一方で、桜の花と入学式は日本の伝統的風景だ、新学期は4月に始まるのがいいと、真顔で主張する御仁もいました。大学入試改革すらまともにできないような状態で、コロナ騒ぎのどさくさに紛れてやる話ではありません。結局、9月に間に合うはずもなく、いつの間にか沙汰止みになりました。

 教育は国家100年の計といいながら、その時々の社会事情によって、いいように振り回そうとするご都合主義に迎合しなくてよかったですね。熱しやすく冷めやすいのは国民性とはいえ、桜とコロナを一緒にしてはいけません。

 

 ところで、東京都では多くの区市で新年度の新規採用者が100人を超えそうで、「いつもなら見送るレベルの者まで採用しないと間に合わない」とかいう噂を聞きました。本気にするつもりはありませんが、気になる話ではあります。この30年で、雨後の筍のように教員養成系の大学や学部・学科が作られました。教員養成は商売になると見越して投資していたとすれば、大した経営手腕で、まさに先見の明ありです。

 

 では、これから10年、20年先はどんな予想をしているのでしょうか。新年度から始まる少人数学級の実施や指導法の改善のために教員の需要は一時的には増えるでしょう。しかし、少子化の進行は止む気配がなく、今後児童・生徒数は減少し続けます。また、I C Tの活用や学び方の改革によって、教員の役割や求められる資質は変わってくるでしょう。そうなれば、いつまでも大量採用が続くわけはなく、「量」より「質」の時代がやってくることは自明です。10年後に求められる教師の育成を今から始めても早すぎることはないと思いませんか。(イデちゃん)

 

 

エヴァンゲリオンと「パターン思考」 …ネタバレなしです!

 

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 緊急事態宣言の解除を待って、行ってきました!「シン・エヴァンゲリオン」。

 書きたいことがいっぱいありますが、ネタバレなんて無粋な真似はしてはいけませんね。ご安心ください。

 でも、このぐらいはいいかな。作品の特徴の一つは「観客の予想を裏切る」でしょうね。今でも鮮明に覚えているのは、劇場版2作目に登場した2つの殺戮シーンです。主人公が、主人公にとって大切な人と命のやりとりをせざるを得なくなった場面に流れていた音楽はなんと、「今日の日はさようなら」「翼をください」。

 ♪いつまでもたえることなくともだちでいよう…。

 小学校や中学校の卒業式で流れていそうなさわやかな曲調と、スクリーンに広がる痛々しい戦闘場面のギャップに唖然としました。次の瞬間、参りましたと頭を下げたくなりました。私はいつのまにか、こういう場面にはこういう曲、と頭の中でパターンを作り、待っていたのです。あれほど学生に「パターン思考」を戒めていたのに。

 

 パターン思考は、善意から生まれることもあるようです。最近読んだ「保育園に通えない子どもたち」*で再確認しました。貧困や虐待、障害など、社会の支援が必要な子どもが保育園や幼稚園に通えていない実態があることを指摘している力作です。著者のインタビューに答え、子どもの支援にあたる団体の方が答えていたことに、首を傾げてしまいました。

 保健・医療・福祉職の従事者が、外国人に対応できていないと前置きしたうえで、「そのために、医師、看護師、助産師、保健師、保育士の養成課程に、外国人対応のカリキュラムが必要だと思います」と話していました。

 子どもの幸せをみんなで守ることに異論は全くありません。でも、この方法論で効果を期待するのはかなり難しいでしょう。国家資格につながる課程は必修でアップアップです。大学設置基準の規定通りに1単位に求められる学習時間をとっていたら、学生は食事や睡眠時間すらろくにとれなくなります。カリキュラをこなすことに精一杯の人が、予期せぬことが次々に起こる現実に、臨機応変に対応することができるのでしょうか。

 こうして、大学のカリキュラムは膨らんできたのでしょうか。「こういう力が必要だ→カリキュラムに練り込め」というパターン思考の中で。科目が増えて、1日も48時間にのびたらいいのですが、そうもいきません。

 

 それにしてもエヴァンゲリオンは…。ご覧になったことのない方は、これまでの作品をぜひ見て、劇場にお出かけください。あの作品を語り合いましょう。(マツミナ)

 

*「保育園に通えない子どもたち――『無園児』という闇」(可知悠子著、ちくま新書

長い道のり

 

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夜來風雨聲 花落知多少(イデちゃん)

 

 二年ぶりに春の高校野球が始まりました。堂々とした体格の三年生に混じって、小柄な二年生の選手もいます。ピンチを迎え、マウンド上で仁王立ちする投手の目には、すでに大人のような強さがあり、バッターボックスを外して、サインを伺う打者の顔は、まだ子供のように初々しく見えます。今、この子たちの親ごさんはどんな気持ちで試合を見ているでしょうか。手に汗を握るというけれど、それどころではないかもしれません。早くこのピンチを乗り切ってほしい、ヒットを打って欲しい、せめて三振しないでと、気が気ではないと思います。打たせてやりたい、エラーしないで欲しい、試合の行く末より、目の前で我が子が立ち向かう、逃れようのない瞬間を、息も詰まる思いで見つめていることでしょう。私も親になったような気持ちになり、ドキドキしながら見てしまいました。

 

 「教職課程のある大学・学部は、免許を取るための科目と採用試験対策でガチガチで、好奇心のままに問うている余裕はない」(ミナ)という話を知人にしたところ、司法試験を目指す法学部や医師の国家試験を受ける医学部の学生も似たようなもので、教え、勉強させ、覚えさせ、練習させ、試験対策を徹底して、合格するまで面倒見なければならない。考えるなど

と余計なことをしている暇はないと言わんばかりでした。大学の先生も大変ですねえ。

 

 大学生になった時、偉そうな大学教授にこんな説教をされたことを思い出しました。

「小学校の先生はわからせる、中学は覚えさせる、高校は解かせる、大学は考えさせる」

「私の仕事は君たちに考えさせることだ。教わって覚えるばかりでなく、全てを疑い、自分の頭で考えなくてはいけない」と。

 未熟な私は「全てを疑う」ことには忠実に従い、「否定と解体」ばかり主張する「考えなし」(物事を深く考えないで行動すること)の学生でしたが、今思えば、この先生、結構いい話をしてくれたのです。「自分の頭で考えろ」と。半世紀も経つと大学の先生の仕事も変わるのですね。先生が変わったのではなく、学生が変わったのだと言いたい方もいるかもしれませんが。

 

 小学校の教育目標に「考える子」というのをよく見ます。先生の仕事は「考える子」を育てることです。でも、忙しくて考える暇がない学生が先生になったら…。その先を考えるのは止めておきます。

 「考える先生」育てるプロジェクトを進めるなんて言ったものの、何だかとんでもなく長い道のりになりそうですよ。ま、「千里の道も一歩から」で、がんばることにするかな。(イデちゃん)