idematsu-qのブログ

屋根のない学校をつくろう

真摯に反省し、しっかりやっていただきたい

 

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つかの間の青空(イデちゃん)

 覚えていますか。「♪やめられない、とまらない、◯ッパエビセン」というT Vのコマーシャル・ソングを。知っている人は「決められない、決まらない」に置き換えて歌ってみてください。後に続く歌詞はどうしましょうかね。

 

   やっと「無観客」が決まりました。まったく困ったものです。「決められない」人ばかりで。「五者協議」ではどんな協議を経て決まったのでしょうか。まさか、エライ人たちが集まって「どうしようか」「困ったね」「観客入れたら問題が起きそうだよ」「この際、止めときますか」「それがいいんじゃない」「そうしようか」「そうだね」なんていうような「お話し合い」の結果、「皆さん、ごめんなさい。観客は入れません」ということになったわけではないでしょうねえ。

でも「みんなで決めれば怖くない」とはいきませんよ。どんな資料に基づいて、誰がどんな発言をし、どんな議論の末に決まったのか知りたいですね。議事録はないのでしょうか。

 

 それに比べたら文部科学省の大学入試改革に関する有識者会議の提言はスッキリしています。英語の民間試験活用と国語・数学の記述式問題の導入について「実現は困難」と結論づけ、見送るように提言しました。新聞によれば「受験生の方々に大変、迷惑をかけた。文科省も真摯に反省をし、しっかりやっていただきたい」(7月10日付東京新聞)と文科大臣に苦言を呈したようです。

 

 オリンピックを開催するのは東京都だけれど主管するのはIOC組織委員会の委員長とオリパラ担当大臣で、「エライのはどちら?」。スポンサーやらTV放映権やら「お金のしがらみ」もあるし、偉い人が「コロナに打ち勝った証」なんて言っちゃった手前もある。もう「決められない、決まらない」でグチャグチャになった状態を「国民の方々に大変、迷惑をかけた」という人はいないのでしょうか。

 

 「学校連携観戦プログラム」も同様です。「行くか、やめるか」を決めかねて、悩みに悩んだ学校関係者も多かったはずです。緊急事態宣言が度々出されるような事態は歓迎しませんが、今回ばかりは都教委も中止の通知を出すことになり、一番ホッとしているのは校長先生でしょうね。「決められない」校長先生では困りますが、「どこかの誰かさん」が決められない「とばっちり」を受けるのはかわいそうです。 (イデちゃん)

決めないツケ

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なぜか鳥につつかれない木苺。美味しくないのかな(マツミナ)

 昨夜、4度目の緊急事態宣言に際しての総理会見をテレビで見ました。総理は、記者たちの質問に答えるつもりがあったのでしょうか。歯切れが悪すぎて、聞き取れないことが何度もありました。発音の問題ではなく、言うべき言葉を持っていないのかもしれません。いずれにせよ、学生の発表だったらやり直しを指示します。

 一夜明けて、朝刊には「5者会談 五輪1都3県無観客」(7月9日付読売新聞、東京14版)。オリンピック・パラリンピックについて問われ、総理は言っていました。この後の5者会談で決まる。決めるのはオレじゃない、と。虚ろな表情で。

 

 「質問力を磨く(ClassQ)」にも、「決めるのが難しい」と言う学生が少なくありません。たとえば、チームワークでメンバーの意見が合わなかった時に、何を基準にどう決めたらいいのかわからないと訴えるのです。判断材料を持ち寄って、何が最も大事なのか、徹底的に話し合えばいいのです。そうした手間を惜しんで、中にはジャンケンで発表内容やタイトルを決めるチームすら出てきます。その程度の発表ですから、当然、出来は無惨。他チームと並ぶと、一目瞭然です。

 周囲の発表を見て、自分たちのみっともなさに気づけばいいけれど、そううまくはいきません。いったん手抜きを覚えた学生は、メンバーを入れ替えた新しいチームでも同じように手抜きをしてしまう傾向があります。手抜きで乗り切れた、と思い込んでしまうのでしょうか。注意しても、なかなか理解ができないようです。そういう学生の最終論文は、見るべき点の乏しい内容になってしまいます。決められなかったつけは自分に回ってくるのです。

 

 コロナの感染拡大を止めたくて緊急事態宣言を出す。無観客にはしたけれど、オリンピックは開会する。何が大事なのかを決められず、とりあえず矛盾する二つの内容を打ち出した総理のつけは、どこに回されるのでしょうか。(マツミナ)

決めるのは誰?

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散歩の途中で見つけた元気な2匹

   昨日(7月7日)は新型コロナワクチンの2回目の接種日でした。私は9時からのグループだったのですが、前回同様少し早めの8時半頃、会場に入りました。すでに待合所には先客が3人ほどいました。順番カードを受け取って椅子に座り、準備の様子を見ていました。しばらくすると打ち合わせを終わったスタッフが必要書類の点検にきました。

 今回は私のような2回目の人と初めての人が混在しているようで、スタッフは予診表をチェックしながら、「2回目ですね。前回、体調に変化はありませんでしたか」とか「今日は1回目ですね。受付番号は先着順ではありませんので、ご案内するまでお待ちください」などと、一人一人に丁寧に対応していました。本当に気を遣う仕事です。思わず「ご苦労様です」と挨拶しました。

 開始時間になり、番号順に呼び出しが始まりました。ところが何回呼ばれても現れない人がいます。一緒に来たと思われる人が「トイレに行ったまま、帰って来ない」と説明しています。「ちょっと見てきますから」と言って探しに行きました。しばらくして戻ってきましたが「トイレにいないんです」と困惑した顔で訴えていました。どこに行ったのでしょう。

 20分後、私は接種を終え事後観察を済ませて待合所に出ましたが、件の人物はまだ見つかっていないようでした。どこに消えたのでしょうか。注射が怖くなって帰ってしまったのでしょうか。「七夕ミステリー」です。

 

 「五輪、都内無観客で調整」(東京新聞7月8日朝刊)。トップ記事の見出しです。「五輪観客数の扱いについては、東京などの重点措置の対応を決定した上で、東京都、大会組織委員会国際オリンピック委員会(IOC)などの代表による五者協議で決まると強調」(菅首相談)と続いていました。

 お馴染みの「五者協議」です。これまで何度も繰り返されてきた常套句に多くの読者が「またか」と思ったことでしょう。この期に及んで、まだそんなこと言っているのですか。一体誰が決めるのですか。そんな思いで記事を読んだことでしょう。

 会議を構成するそれぞれの組織のトップが曖昧な表現を繰り返し、自分の意見や考えを明らかにしないのはなぜでしょう。「手柄は独り占め」にしたいけれど「失敗の責任」は被りたくないと考えているのでしょうか。でも、いずれ分かります。大会が成功すれば誰かさんが「得意顔」で「自分の手柄」にし、何か混乱が起きれば「みんなで決めたことだから」と「頰被り」するはずです。「決められない」のではなく、「決めたくない」だけの話です。

 

 先日の「質問力を磨く(Class Q)」は、「学校連携観戦プログラム」に関する記事を題材にして「杉並区の小学校長」になりきって問いをたて、考えたということですが、「杉並区」という限定を学生はどう捉えたのでしょうか。その辺りの「議論」の形跡を知りたいところですが、ま、それはともかくとして、「学生校長」は判断をしたのでしょうか。

 本物の校長は決めたくなくても決めなくてはなりません。それが校長の責任ですから。自分の学校の観戦競技や会場までのアクセス方法は既にわかっています。最寄り駅の一つ手前で降りて会場まで歩かなくてはならないこと、飲み物やトイレや暑さ対策が不十分であることなどは「コロナ感染」拡大以前から問題視されています。緊急事態宣言」が発せられたらどういう制約が加わるかということも承知のことです。中止や延期、無観客を求める声が少なくないことも。一方で、教育的意義も理解しているはずです。判断に必要な情報は十分揃っています。さあ、決めてください。

  To be, or not to be, that is the question. (イデちゃん)

自分で判断できない校長

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UFOか⁉︎ 都心の病院に入院中の家人が送ってきました(マツミナ)

 「議論しないことは悪いことか」と言われたのですか。「悪い」か「いい」かで判断してしまうあたり、その学生さんは「いい子」ではないでしょうか。イデちゃんが「議論しないことは、悪いことだよ」と伝えたら、「議論しなきゃ」と思ったかもしれません。権威のある人の言うことを聞く、さらに言えば、指示を出してもらいたがる傾向は、多くの学生が待っているような気がします。

 

 昨日の「質問力を磨く(Class Q)」は、「学校連携観戦プログラム」に関する記事を題材にしました。子どもたちを引率してのパラリンピック観戦について、東京都杉並区の小学校長になりきって問いをたて、考えました。

 読売新聞の報道(2021年7月2日付夕刊)によると、感染が拡大する中、会場までのアクセスや場内に関する情報が少なく、自治体によって判断が分かれているようです。さて「Class Qの校長」たちの判断やいかに。

 

 目につくのは、国が考えるべき問題ととらえる校長です。

 「国は第5波を見据えて、もっと広い視野で感染リスクを捉えているか」

 この校長は、困っているようです。でも、何を知りたいのやら。

 オリンピック組織委員会に方針を求める校長もいました。

 「チャーターバスに関する方針を出さないのか」

 なぜ方針を出してほしいのでしょうか。バスを借りるのに、組織委員会の方針が必要なのでしょうか。

 保護者の意向も気になります。

 「本校児童の保護者の何割が、どのぐらいの思いの強さで児童に観戦させたいと思っているか」

 二つ以上の質問をくっつけた質問で、整理が必要です。保護者の「思いの強さ」でことを決めようとしているのでしょうか。

 

 共通するのは、自分以外の誰かの指示や発言を待っている校長像です。

 ある自治体の教育長から聞いた話を思い出しました。「『コロナ下で遠足に行くにしても行かないにしても、親に説明を求められる。教育長が方針を示してくれ』と言ってきたんだよ。校長なんだから自分で決めて親に説明すればいいのに」

 そういう校長を見て育った学生が誰かの指示を求めるのは、不思議ではないかもしれません。

 

 ここに書いたようなことは、教室で学生たちにも伝え、議論もしました。「いい」か「悪い」かではなく、自分の思考の「枠」や「型」を知るには、議論はいい機会です。(マツミナ)

 

議論することはいいことだ

 

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ハイビスカスとムクドリの親子

 「議論しないことは悪いことですか」 

知り合いの学生に「最近の学生は議論しなくなった」と言ったら、逆に問い返されました。私の言い方が議論しない学生を批判しているような口ぶりだったからかもしれません。予想しない反応だったので次の言葉が出ませんでした。

「議論しないこと」が、そのまま「悪いこと」に繋がるとは思いません。だからと言って「いいこと」だとは言えません。議論することは大切だと考えるのですが、彼はしなくてもいいことのように思っているようでした。意見の違う相手と面倒な議論なんかしているより、「あれやこれや」の情報の中から「正解」らしきものを探し出した方が手っ取り早いと考えているのでしょうか。

 「議論しないことは悪いことですか」という反問は「無駄なことをする必要がないでしょ」というメッセージだったのかもしれません。

 

 でも、本当に彼らは議論など不要だと思っているのでしょうか。「はい論破」と相手をやっつけて得意になっているような輩が相手では、まともな「やりとり」はできません。けれども、お互いを高みに引き上げようと思っている相手との議論や対話は意味深いことですし、何より楽しい時間です。

ミナさんがいうように「議論は相手を否定する」ことではなく、「議論は相手を尊重すること」だということに気づいてほしいと思います。そうすれば「議論を恐れ、逃げる」必要もなくなるはずです。

 「他のClass Qの仲間も動かし、話し合いを重ね」て課題に取り組んだClass Qの学生たちは、きっとそのことに気づいたことでしょう。やっぱり「議論することはいいこと」ですよね。(イデちゃん)

都議選2021

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今年の梅雨はなんだか重い(マツミナ)

 都議選が終わり、少しだけ静かな街が戻ってきました。毎朝、襷がけをした候補者を駅頭で見かけました。コロナ対策、格差是正、オリンピック・パラリンピックの開催の是非などについて熱弁を振るっていたようですが、足を止めて聞いていた人は今までになく少なかったような気がします。

 投票率をみて納得しました。42.39%。史上最低だった1997年の40.8%に次いで2番目に低かったとか。6割近い人が投票していません。こんな低投票率で選挙は成立するのかと怒るべきでしょうか。史上最低ではなかったからマシだったと見るべきなのでしょうか。

 

 このところ「質問力を磨く(Class Q)」では、ミャンマーや香港の問題をしばしば教材にしていました。言論の自由どころか、ものいえば拘束され、命まで奪われかねないという状況が新聞に書かれています。それでも戦っている人たちがいることを、学生たちは記事を通して読んでいました。戦わなくても手にできる選挙権を、学生たちはどう行使したでしょうか。

 明日の授業が楽しみなような、怖いような。(マツミナ)

  

「はい論破!」

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藤の実にさす梅雨の晴れ間の木洩れ陽

 熱海市で起きた土石流の映像を見て、そのエネルギーの大きさに驚きました。2日に「大雨もどうやら収まったようで安心」などと書いてしまった自分の浅はかさを反省しました。それにしてもSNSの威力はすごいですね。家を押し倒し巻き込んで、狭隘な川筋を猛スピードで駆け下る土石流の様子が、時間をおかずに世界中に拡散されるわけですから。一方で、あの瞬間には何人もの人の生死が関わっていたことを考えると、安全な場所で「凄い」と驚いて見ている自分がいたことも恐ろしいことだと思いました。

 

 小学生の頃学んだ故郷の偉人の一人に「吉田屋中村惣兵衛」という人がいます。私は小さい頃に父から「惣兵衛さん」(ソウベイさん)が作った堤防の話を聞いたことがありました。学校の授業で「1750年頃、石工の惣兵衛さんは飯田の殿様に頼まれて、度々洪水を起こし『暴れ天龍』と言われていた天竜川に堤防を作り、水害から田畑を守った」と教わりました。

惣兵衛さんが作った堤防は大きな石が何重にも積み上げられ、見るからに頑丈そうなもので「惣兵衛堤防」と呼ばれていました。堤防の上には古い桜の木が何本もあり春はお花見に人が集まりました。子供たちは堤防の下の流れが淵のようになっている場所で泳いだり、砂が堆積した砂州では「三角ベース」をしたりして遊びました。

 

 その「惣兵衛堤防」が、昭和36年6月に伊那谷を襲った梅雨前線豪雨(36災害)で決壊しました。当時、私は中学生3年生でした。何日も雨が降り続き、増水した天竜川の流れが堤防を乗り越える様子を少し離れた高台から父と一緒に見ていました。溢水が始まってしばらくすると堤防の内側から崩れ始め、瞬く間に、大きな石を積み上げた「惣兵衛堤防」が崩れて行きました。

 堤防に守られていた水田に濁流が流れ込み、丈が伸び始めた稲田を飲み込んでいきました。圧倒的な水の勢いに、見守っていた消防団の人たちはなす術もなく、奔流が広い水田地帯に荒々しく流れ込んでいく光景を今でもはっきり覚えています。

熱海市の土石流をTVで見ながら60年前の出来事を思い出しました。被害に遭われた方々に心よりお見舞いを申し上げます。

 

 閑話休題。先日、暇つぶしにインターネット・サーフィンをしていて「大学ゼミの討論で「はい論破!」を繰り返す痛い学生たちが増殖中」(YAHOO! JAPANニュース)という記事を見つけました。それによると「『はい論破!』『嘘つくのやめてもらえます? エビデンスないですよね?』『それってあなたの感想ですよね?』など」と相手をやり込め「建設的なディスカッションができなくなる」ということです。他にも「大学のゼミでは先輩の院生が知識をひけらかして学部生を論破してマウントを取る」といった記述もありました。

 

 「議論と『相手を否定する』を混同しているのです。その結果、議論を恐れ、逃げるようになっている学生が少なからずいます」というミナさんの指摘を思い出しました。その延長線上にあるのでしょうか。いずれにしても、議論の風景はいつからこんなに変わってしまったのでしょうか。(イデちゃん)

青は藍より出でて

 

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今日の甘味は格別(マツミナ)

 今日(7月3日)は帝京大学でマラソンQを開催しました。新聞記事を自分以外の誰かになりきって読み、問いを立てる。いつもの「質問力を磨く(Class Q)」の長尺版、5時間考え続ける授業です。授業ではあるけれど、学生に進行と運営を任せました。帝京、上智両大学から1人ずつを統括役として指名しました。

 結論から言えば、任せてよかったと実感しています。2人の学生の進行ぶりから、紙の新聞を教材にする意味、チームワークの重要性といったClass Qの肝を理解していたことを確認できました。

 

 今日、2人が教材に選んだのは読売新聞朝刊8面「国際課税10月最終合意へ 法人税15%以上など」。経済協力開発機構OECD)が、法人税の最低税率を世界共通で15%以上にすることなどを盛り込んだ新ルールについて、130か国・地域が合意したと発表した、というニュースです。ファーストリテイリングの株主になりきって問いを立てる、という設定です。ファーストリテイリング関連では、同じ朝刊の2面に「仏司法当局 ユニクロ捜査 告発が発端 NGOウイグル強制労働で利益』」が掲載されていました。ファーストリテイリングを出すのなら、どう見てもこちらの記事が本命のようです。なぜ8面を教材としてあげたのか…。

 種明かしは、マラソンQの終了直前でした。当初、教材として示そうとしたのは、やはり2面。でも、それではみんな「人権問題」としか捉えないだろう。まずは世界的な経済の枠組みについて考えてほしい。紙面をめくれば、2面の記事だけでなく、いろいろな記事が目に入るだろう。株主として、配当が増えるということだけでなく、SDGs、ESGも視野に、世界から尊敬される企業であることを求めないだろうか。新聞の総覧性、「なりきる」を通して得てほしい当事者意識を、マラソンQに注入しようとしていたのです。

 マラソンQの準備を通して、2人はそれぞれが抱えるチームで働くという共通の課題にも切り込んだようです。2人はいつもチームワークに苦戦しています。「(ワークに協力しない)タダ乗りが多い」「調べ物を頼んだのに、何もしてくれない」と愚痴をこぼし、仕方がないから自分ひとりで抱え込む、を繰り返していました。

 今回指名する際には、2人共通の課題について指摘しておきました。その言葉をどこまで認識していたのかはわかりません。結果的には、他のClass Qの仲間も動かし、話し合いを重ねながら今日を迎えたことがわかりました。

 青は藍より出でて…。いや、あまり褒めると天狗になるから、この辺でやめておきましょう。楽しい1日でした。(マツミナ)

授業時数に合わせて教員配置の弾力化を

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荒家にカンゾウが咲く(イデちゃん)


線状降水帯が発生して各地で大雨が降りました。TVでは知り合いが住んでいる南伊豆町や三宅島などの様子が報じられ、「観測史上最大」とか「土砂災害の恐れ」とか聞く度に案じていましたが、大雨もどうやら収まったようで安心しました。

今週、私は所用で長野に来ています。昨日も今日も晴れ間の多い日でしたが、蒸し暑さと網戸の隙間から入ってくる蚊に閉口しました。でも「大雨であばら家が雨漏り」なんてことにならなくてよかったのですが。

 

先日、「授業時数特例校制度」の導入を「胡散臭い」と書いたら、例の知人から「へそまがりジイさんはこの制度に反対なの?」と突っ込まれました。私はまるっきり反対というわけではありません。運用次第では学校教育の可能性を大幅に広げることができると考えるからです。でも、そのためには解決すべきいくつかの問題があるのですが、それが結構厄介なことなのです。

 

「特例校制度」を使って、各学校が自校の実情に合わせて学年・教科の授業時数を弾力的に運用することができれば、多様な教育課程を編成することが可能になるでしょう。仮に、上限1割の増減を小学校で6年間、中学校では3年間の総授業時数の中で運用するとします。そうすれば、学年を超えて入門期の国語を手厚くして言語指導を徹底したり、理解の差が広がり始める小学校3・4年生の算数の授業時数をこの学年に集中させたりとか、より児童・生徒の実態に応じた独自の教育課程を編成することができるでしょう。もっとも、そんなことをしたら「同年齢・同学年制」を崩して、「飛び級や」「原級留置」の便法に使う恐れがあるから、だめって言われるだろうけれど。

 

 授業時数を弾力的に編成するためには、今より教員の数を増やす必要があります。中学校は教科担任制ですから1割授業時数を増やした教科の担任はその分だけ「持ち時数」(授業時数)が増えることになりなす。小学校は全科担任制ですから学級担任の総授業時数の増減はありませんが、今後、教科担任制が進むとすれば中学校と同じことが想定され、負担増になります。持ち時数が増えても教員の標準定数を増やすことは簡単ではありませんが、「講師時数」(非常勤講師の授業時数)を増やすことができれば、負担増を回避してより柔軟な「時間割」を組むことができるはずです(これこそ「取らぬ狸の皮算用」って言われるかな)。

 

 授業時数の弾力化と合わせて「教員構成の弾力化」を進めないことには「授業時数特例校制度」が「絵に描いた餅」になりかねません。「つまみ食い」では多寡が知れています。文科省はこの際、教員の数をもっと増やして、「1割」と言わず、もっと大胆な弾力化ができるようにしたらいかがですか。(イデちゃん)

書くトレーニング

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大きくなるのを、毎日楽しみに待っています(マツミナ)

 今日から7月。もう1年の折り返し地点です。「質問力を磨く(Class Q)」も最終コーナーを回りました。最終課題も当然「書く」を重視しています。学生に課しているポスター制作、論文とも、テーマは「職種の研究」です。

 そのために、まずは企画書を「書く」。15の学生チームが企画書を作り、企業に職種についての取材協力をお願いします。趣旨や三つの質問のほか、日程、取材方法などの必要事項を書くよう事前に伝えましたが、さて。

 先日も協力企業の経営陣から「こんな企画書が来ています」と企画書が転送されてきました。「これがコンペならば、落とすレベル」とまで付記されています。もちろん「どうぞ落としてください」とお答えします。愛ある企業人のこと、ダメな理由もきちんと説明してくれます。学生諸君よ、今のうちに失敗していらっしゃい。

 

 最終論文は、手書きです。手書きにこだわるのは、まず剽窃対策です。パソコンであればコピー&ペーストで簡単にできる剽窃も、手書きだと手間がかかります。丸ごと書き写す。要約して短い文にまとめる。いずれにしても頭を使わざるを得ません。ここが狙い目です。

 パソコンの予測変換という機能も、困ったものです。自分の考えを表現するのにふさわしい言葉は、自分の頭で探し出してほしいのです。

 卒業して働き始めても、企画書、報告書、議事録、顛末書など書く機会がたくさんあります。その時に突然「書く力」がつくわけがないことは、Class Qに集まる企業人たちが話してくれます。「書くのが苦手で、そういう場面になるたびに困っているんですよ」。学生も企業人も「書く」に困っています。

 

 文科省は、大学入学共通テストへの記述式導入を断念したようです。共通テストに入れるのは断念しても、「書く」に力を入れた教育は本気で展開してもらいたいものです。それも小学校から。「思います」「感じています」などの感情だけでつづれる作文も結構ですが、論文、企画書、報告書などにつながる「論理的な文章」を書かせていただきたいと願っています。(マツミナ)

幽霊の正体その2

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庭のギボウシ(イデちゃん)

 「授業時数特例校制度」を導入して、小中学校は各教科の最低基準「標準授業時数」を「学校裁量」で最大1割まで減らし、別の教科に上乗せできるようになるっていうけれど、へそ曲がりの爺様にはなんだか胡散臭い話のようにしか聞こえません。主旨説明では「教科横断的な視点」とか「探究的な学習活動の充実」、「カリキュラムマネジメントに係る学校裁量の幅の拡大」といった何やら小難しい用語を並べてもっともらしく解説しているけれど、特例校に認められる学習内容を見ると「胡散臭さの正体」が見え隠れしています。続「幽霊の正体見たり枯れ尾花」といきましょうか。

 

 説明資料によれば特例が認められる内容は「現代的な諸課題に対応した教育(伝統文化教育、主権者教育、環境教育等)」「学習の基盤となる力(言語能力、情報活用能力等)の育成」の二つです。

 前者は今さら「現代的な諸課題」などと大上段に振りかぶらなくても、もともと「総合的な学習の時間(総合)」の定番分野だったのではありませんか。それに「教科横断的な視点」とか「探究的な学習活動」は「総合」の「専売特許」とも言えるような学習活動のはずです。設置当初110時間もあった「総合」の時間を大幅に減らしておきながら、今度は「探究的な学習活動」のための時間を「つまみ食い」で生み出そうっていう魂胆ですか。

 後者は文科省の資料によれば「2020年春以降実施の新学習指導要領では、AI(人工知能)の発達など予測困難な社会で通用する力を育成することが求められている」ためのようです。しかし、新学習指導要領で増加した学習内容を消化するために学校は手一杯で、これ以上授業時数を増やすことは困難です。そこで「学校裁量」で他教科の授業時数を「つまみ食い」して、「予測困難な社会で通用する力」となる「プログラミング」とか「英語」とかに回してもいいですよって言っているように聞こえるのです。「下衆の勘ぐり」でしょうか。

 

 学校が独自に編成する例として「伝統文化教育に取り組む場合、音楽や美術を増やし、言語能力の育成では、国語と社会を増やす授業編成が考えられる」(文科省説明資料)などと殊勝なことを言っていますが、算数・数学や英語の時数を削って音楽や美術に回したり、理科の時数を1割減して社会に回したりするなんてことが実際に行われるでしょうか。だって「伝統文化教育の充実のために算数削って音楽にします」と言っても保護者が納得するとは到底思えないし、これまで「理科離れ」だの「科学教育振興」だのと声高に叫ばれても、「社会科教育振興」なんて掛け声は聞いたことがないからです。どうやら幽霊の正体が見えてきたようですね。

 

 ところでミナさんは「文科省が『質の高い教職員集団』と見ていない学校」に、大事な授業時数に関する裁量を委ねることに矛盾を感じているようですね。私はあまり心配していません。今の学校が決して「質の高い教職員集団」とは思いませんが、文科省が何か新しいことを打ち出しても、しばらくすると「学校裁量はこうすればいい」とか「特例カリマネ事例集」なんて「アンチョコ」がすぐ出されるからです。

 来年の校内研究の目玉は「授業時数の弾力化とカリキュラムマネジメント」になりそうですから、年末まで待っていれば実践事例と関係資料が出揃うはずです。多くの学校は「我が校はそれから始めたって遅くはない」と思っていることでしょう。それに学力調査の結果次第では「学習の基盤となる力」だって変わるかもしれないでしょ。なんたって「予測困難な時代」ですから。(イデちゃん)

なぜ学校の裁量に委ねるのか

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なぜか鳥がつつきに来ない。美味しくないのかな(マツミナ)

 文部科学省は「授業時数特例校」制度を導入する方針のようです。文科省中央教育審議会に示した資料によると、特例校に認定された小中学校は、各教科の最低基準「標準授業時数」を最大1割まで減らし、別の教科に上乗せできるそうです。8月から特例校を募集し、来年4月から始める予定です。

 文科省はこれまで授業時数に目を光らせていた「はず」です。道徳についても、授業時数が守られていないことも教科化の背景にありました。それをなぜ緩和するのか。それも学校の裁量に委ねて。文科省の資料は「特例校制度の創設」の趣旨をこう示していました。

 

 「文部科学大臣が、学校教育法施行規則第55条の2等に基づき指定する学校において、学校や地域の実態に照らし、より効果的な教育を実施するため、総枠としての授業時数(各学年の年間の標準授業時数の総授業時数)は引き続き確保した上で、教科等横断的な視点に立った資質・能力の育成や探究的な学習活動の充実に資するよう、カリキュラムマネジメントに係る学校裁量の幅の拡大の一環として、教科等の特質を踏まえつつ、教科等ごとの授業時数の配分について一定の弾力化による特別の教育課程の編成を認める制度」

 

 相変わらず一文が長いです。227字。学生が書いてきたら、4分割するように伝えます。つまり、教科横断で探究的な学習の充実を狙ってのことなのでしょうか。

 

 今年1月、中教審は「令和の日本型学校教育の構築を目指して」と題した答申をまとめました。そこには「多様な人材の確保や教員の資質能力の向上により、質の高い教職員集団を実現」が理想として掲げられていました。それを受けて、萩生田文部科学大臣は3月、「令和の日本型学校教育を担う教師の養成・採用・研修等の在り方」を諮問しました。素直に読めば、文科省は「質の高い教職員集団」になっていないことを認めたテイルということです。だからこそ養成や採用のあり方を考えてよと、中教審にボールを投げた。つまり「質の高い教職員集団」ではない学校に大事な授業時数に関する裁量を委ねようというわけです。矛盾しているような気がします。

 

 教員という職業の魅力を伝えたいと文科省ツイッターで始めた♯教師のバトン は大炎上したようです。一体、文科省は学校をどうしたいのでしょうか。(マツミナ)

 

 

幽霊の 正体見たり 枯れ尾花

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梅雨の傑作(イデちゃん)

 台風が北上してきているようで、定まらない天気の日が続きます。停滞する梅雨前線を「線状降水帯」とかいうやっかいな代物が突っついてくれないように願うばかりです。

 早朝、家の周りを散歩していて巨大なキノコを見つけました。枯れたクヌギのカブの根元にいつの間にか生まれていました。いつもはカブトムシやクワガタを探す親子を見かけるのですが、さすがに月曜日の朝からそんな時間はないようで、暇な老人は一人で大騒ぎして写真を撮りました。長径約60~70cm,短径30~40cmで名前は不詳。

 

 

 6月24日の「記述式問題の導入は困難」で「受験生の『思考力・判断力・表現力』を問う問題をシステマチックに解析し、(略)そうした処理技術を駆使した技法で書かれた答案は、おそらくどれも似たような標準的な内容・構成になることが予想されます。そうなれば記述式問題を出題する意味がなくなってしまいます」と書いたところ、知人からこんな指摘をもらいました。

 

 「記述式問題の出題意図は論理的表現能力を測ることにあるのだとすれば、問題の処理技術を駆使して書いた論文のどこがいけないのでしょうか。論理的表現と論理的思考は表裏の関係にあり、論理的ということは構造的、つまりシスティマチックということでしょ。ですから、あなたが指摘する『どれも似たような標準的な内容・構成になる』のは当然の帰結です。出題の意図は『創造的・個性的な表現』を求めているわけではありませんから『記述式問題を出題する意味がなくなってしまう』という指摘は当たらないのではありませんか」

 

 つまり「創造的・個性的な内容」を「論理的に記述」することを求めているのではなく、与えられた問題を「論理的に思考・判断」して、答えを「論理的」に記述せよということだから、答えが「金太郎飴」になってもいいわけですね。そういえば、新しい高等学校学習指導要領で新設された「論理国語」では「論理的な文章や実用的な文章」を扱うことになっていますが、どちらも読者が内容を勝手に個性的・独創的に解釈したら困る文章です。

 ということは「思考力・判断力・表現力」を問うなどと一見高邁なことを言っているけど、大学入学共通テストで問いたかったのは「書いてある通りに正確に理解し、表現する能力」で、言い換えれば「決められた手順に従って(余計なことはしないで)、考え、判断し、論理的に表現する能力」ということだったのですね。

 そうだとしたら有識者会議が「マークシート方式の共通テストで思考力や判断力を問えるような作問の工夫を求める」と言った理由がよくわかります。手順に従って答えるのはマークシート方式の得意とすることですから。

 なんだ、そういうことか。「幽霊の 正体見たり 枯れ尾花」でした。真面目に考えて損した気分だな。(イデちゃん)

議論から逃げるな

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議論の後のスイーツは格別です(マツミナ)

 「才能がない」という嘆き言葉は、学びからの逃げ口上にぴったりです。「努力してもできない」と自分の努力不足を正当化するのに、これほどうってつけのものはないかもしれません。何をどのぐらい「努力」したのか不問に伏すことも許してくれる便利な言葉です。自分の足跡を見返せばいくらでもやり直しができるのに、「才能がないから」で終わらせている学生が目につきます。くやしいことに。

 

 「才能」だけでなく、「相手を否定しない」も逃げ口上として使われているかもしれません。議論と「相手を否定する」を混同しているのです。その結果、議論を恐れ、逃げるようになっている学生が少なからずいます。根拠を持って発言し、ぶつかり合うことで磨かれる好機を逸してしまうのです。

 先日、ある学生が私に議論を挑んできました。国際条約と日本の憲法、どちらを優先させるべきかと。その日の教材は、2021年6月18日付読売新聞「太平洋会議 マグロ漁獲枠増 提案へ 政府調整 資源回復強調」(東京14版)。遠洋漁業の乗組員になりきると、この記事からどのような問いが立てられるか。発問するにはまず国際会議の設置根拠となる条約の読み込みが必要でした。議論は、そこから発展したのです。

 戦後、長い年月をかけて議論されている大問題です。簡単に結論が出る話ではありません。でも学生は真剣な表情です。相手が誰であろうと、同じぐらいの熱量で臨むのが議論のお作法と心得ていますので、こちらも容赦はしません。その様子を傍らで見ていた学生のリフレクションシートを読んで驚きました。

 「いろいろな考え方があっていい、人の考えを否定してはいけないと学んできました。私はその考えに賛成です。でも今回の授業は違っていました」。学生の主張と真っ向からぶつかる先生はヒドイ、というのです。

 

 議論を厭うのは、学生だけではないでしょう。でも流れは変わっていくかもしれません。

 東芝株主総会で、取締役会議長の再任案が否決されました。新聞各紙は「異常事態」と表現していました。物言う株主(アクティビスト)以外の株主もノーを突きつけたようです。このニュースを、議論を厭う学生たちはどう受け止めたでしょうか。(マツミナ)

努力は才能に勝る

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桔梗は秋の七草のはず。「咲くのハヤクネ?」(若者のアクセントで)


 「努力」か「才能」か。誰もが一度は考える問題です。不思議なことに「自分の努力」と「他人の才能」を比較して論じることが多く、その反対はあまり見かけません。「自分の才能」と「他人の努力」を比べると自慢話になってしまうからでしょうか。考えた末は大概のところ「努力に勝る天才なし」とか「努力に勝る才能なし」とか言ったあたりに落ち着くようです。「才能に勝る努力なし」では「身も蓋もない」話になってしまいますからね。

 

 「質問力を磨く(Class Q)」の若者と、努力の体現者のような老人の仮想対話を通して「努力」と「才能」について考えてみます。

 

学生A「結局才能だ。努力するにも才能がいるし、地頭が良いという才能がある人はさらに登りつめることができる」

老人「長嶋? あぁ、あれはもう天才だ。それ以外、何もいうことはねえや」

学生B「『彼は才能があっただけ』という意見に僕は反対だ。小さい能力の差は努力の積み重ねの差だと考えるのに、大きい能力の差を見ると才能という言葉に逃げる人をたくさん見てきた」

老人「世の中、『努力=結果』ばかりじゃない。でも、努力しなけりゃ確実に結果は出ないんだよ。」

学生C「『才能』を盾にする人間は、そもそも努力をしていないから嫌いだ。努力しようともしない人に『才能』を語る資格はない。才能の差は努力で埋められると考えている」

老人「『才能がない』ってのは、甘美なる逃げの言葉だ。それくらいなら、他人を妬んでもその感情を『なにくそ!』と力に変えるほうが人を成長させるんじゃないかね」

 

 お気づきの方もいるでしょう。「老人」とは野村克也氏です。高卒でテスト生としてプロ野球に入り、首位打者1回、本塁打王9回、三冠王にも輝いた。現役引退後、ヤクルトスワローズ監督、阪神タイガース監督。東北楽天ゴールデンイーグルス監督を務めました。(発言と経歴はPRESIDENT Oline 2019年11月1日号参照)

 

 こうしてみるとやっぱり「努力」は「才能」に勝るというところに落ち着きそうですね。他人の数倍も努力をして結果を残した人の「努力しなけりゃ確実に結果は出ないんだよ」というセリフは、未だ成仏できずにいる私にもずっしりと響きます。

 ところで、今シーズン、ニューヨーク・ヤンキースから東北楽天ゴールデンイーグルスに復帰した田中将大投手が新人当時、「マー君神の子不思議な子」と評した野村監督の本音はどこにあったのか知りたいと思いませんか。もしかしたら、「努力しなくても確実に結果を出す」若者に対するジェラシーだったのかも。そうだとしたらもっと野村さんを好きになってしまうなあ。

 

若者D「…才能を持つ人は、幼い頃からたくさん興味を持ち、深く掘り下げることもできるかもしれませんが、一般人はそうではないです」

老人B「諦めるのはまだ早い。手本は君の隣にいます。気付けよ、さらば叶えらえん」(イデちゃん)