idematsu-qのブログ

屋根のない学校をつくろう

努力と才能

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今日は何にしよう。至福のひととき(マツミナ)


 「質問力を磨く(Class Q)」では毎回、授業最後に学生がリフレクションシートを書きます。授業での学びを振り返る時間です。その記述から、学生の心に何が響いているのかを読み取ることができます。

 先日のリフレクションシートでは、多くの学生が「才能」と書き込んできました。授業中に話題の一つとして紹介した「僕の『自学ノート』」(梅田明日佳著、小学館)に反応したようです。

 好奇心が学びの原動力になることを、著者の大学生、梅田さん自身の体験を通して楽しくつづっている本です。「自学ノート」は、小学校3年生の時、学校から宿題として課されたのが始まりとか。気になった新聞記事を切り抜き、感想を書くだけでしたが、そのうちに疑問に感じたことを調べたりするうちにどんどん世界が広がっていったようです。

 学生の受け取り方はさまざまでした。

 「結局才能だ。努力するにも才能がいるし、地頭が良いという才能がある人はさらに登りつめることができる」

 「一般的な教養をある程度身につけてから新聞を読む方が効果的なのではないか。小学生が毎日、新聞記事を読んで感想を書く必要はない。…才能を持つ人は、幼い頃からたくさん興味を持ち、深く掘り下げることもできるかもしれませんが、一般人はそうではないです」

 「『才能の差』は若干ある。若干だ。この授業で求められているものは、先天的に優れた力を与えられた人にしかできないことではない。努力次第でどうにでもなることだ。だから私は自分の成長を実感し、授業を取り続けている」

 

 授業では、こうしたコメントを毎回「みんなの学びから」として紹介しています。もちろん、名前は伏せて。今日(6月25日)の授業で紹介したところ、またしてもたくさんの「才能」が紙上に登場しました。

 「『才能』を盾にする人間は、そもそも努力をしていないから嫌いだ。努力しようともしない人に『才能』を語る資格はない。才能の差は努力で埋められると考えている」

 毎回の授業で自らの課題を設定し、達成状況をリフレクションシートに書き込んでいる学生だからこそのコメントです。

 「『彼は才能があっただけ』という意見に僕は反対だ。小さい能力の差は努力の積み重ねの差だと考えるのに、大きい能力の差を見ると才能という言葉に逃げる人をたくさん見てきた」 

 この学生自身、「あいつは才能があるから」で自分の努力不足を棚にあげたこともあったと素直に書いていました。ところがある日、Class Qで1年以上学び続けている学生とチームを組んだことが大いに刺激となったようです。「彼らが課題に粘り強く取り組む能力は積み重ねの成果。これから積み重ねを続け、いずれは今の彼らを超えていきたい」

 「才能」という言葉をどう受け取るかは、学生の来し方だけでなく行く末ともかかわるかもしれません。(マツミナ)

 

記述式問題の導入は困難

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赤もよし、白もよし、ダリアの競演

 2025年以降の大学入学共通テストでの英語民間検定試験と記述式問題の導入は困難とする有識者会議の提言案を受け、文科省が正式に断念する見通しとなったという新聞報道を見ました。これまで民間検定の採用をめぐっては、試験会場の偏りや経済的負担の大きさなどから公平性が担保されないことなどの問題が指摘されていました。 

 

 大学入試に記述式問題を出題すれば、高校ではそれに対応するために論理的思考力を育成するようになるだろう、それは大学教育でも役に立つという欲張った目論見もあったようですが、採点を委託する民間業者が質の高い採点者を大量に確保できないというお粗末な話から「取らぬ狸の皮算用」に終わったようです。

 

 入試改革は高大接続の在り方を検討する上で最も中心的な、いわば「目玉」になる問題ですが、大学入試を変えれば高校の授業が変わるという考え方は今に始まったことではありません。いつの時代も高校での学びの多くは大学入試を意識した、というより「縛られる」、もっと言えば「従属」したものにならざるをえません。ですから今回も大学入学共通テストで記述式の問題を導入すれば、高校の教育を変えることができると考えたのも当然のことと言えるでしょう。

 

 そもそも大学入学共通テストに記述式問題を導入しようと考えた理由は何だったのでしょうか。ことの始めは「思考力・判断力・表現力」を測ることを期待するところにあったようですが、自己採点と公式採点との不一致率の高さから無理があるという指摘や、中には「記述式にすれば思考力・判断力・表現力を測定できるのか」という根源的な問いかけもあったとも聞いています。 

 

 一方、受験業界では記述式問題の「傾向と対策」が既に練られているという話を耳にしました。大手予備校では自前の解析力を駆使して記述式問題の解答方法を開発し、その手順にそって記述すれば、ほぼ論点を外れることはないというのです。地方局のTV番組で、高校入試対策として50字記述や短文解答の技法を教える学習塾提供の放送を見たことがあります。受験指導のプロに掛かれば記述式問題といえども「手に負えない難問」ではなくなるようです。

 

 受験生の「思考力・判断力・表現力」を問う問題をシステマチックに解析し、「情報を処理する能力」を問う問題に置き換えてしまう受験業界の「能力」には脱帽するしかありません。「恐ろしさ」さえ感じます。A Iを駆使すればもっと高度で複雑な内容の問題も「処理」してしまうかもしれません。でも、そうした処理技術を駆使した技法で書かれた答案は、おそらくどれも似たような標準的な内容・構成になることが予想されます。そうなれば記述式問題を出題する意味がなくなってしまいます。

 

 「記述式にすれば思考力・判断力・表現力を測定できるのか」という指摘がこうしたことまで見通していたのかどうかはわかりませんが、いずれにしても導入を見合わせたことはよかったのではありませんか。その理由が「質の高い採点者を大量に確保できない」というのも皮肉ではありますが。代わりに、有識者会議の提言案にあるように、大学は個別入試で記述式の出題を出題し、自前の大学教員に採点させたらいいのではありませんか。まさか「質の高い採点者を大量に確保できない」とは言わないでしょう。(イデちゃん)

夫婦別姓は合憲…

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陸に上がった親子。頑張れよ(マツミナ)

 夫婦別姓を認めない民法は合憲だと、最高裁判所が認めたそうです。やっぱりね。以前も同様の判断が示されていたので、予想はしていましたが、がっかり。

 NHKニュースによると、違憲と判断した裁判官は4人いました。そのうちの1人、検察官出身の三浦守裁判官は反対意見を次のように述べているそうです。

 

 「夫婦の名字を同じにする現在の制度は、現実的に女性に不利益を与えている。夫婦別姓の選択肢がないことは、婚姻の自由を不合理に制約していて、憲法に違反する」

 

 その通り! この問題で不利益を被っている多くは、女性です。民法ではどちらの姓を名乗れとは要求していませんが、女性の9割以上が自分の名前を変えているそうです。なぜなのでしょうか。こんな状態を生む規定がなぜ合憲なのでしょうか。「質問力を磨く(Class Q)」の学生たちはこの問題をどう考え、切り込むでしょうか。企業人だったら、どんな問いを立てるでしょうか。

 

 昨日、企業人を対象にした上智大学「プロフェッショナル・スタディーズ」の春学期が終わりました。最終回の課題は、イスラエルパレスチナ問題。12年ぶりの政権交代を「東パレスチナに住むユダヤ人」の視点で考えるという内容でした。

 当初、大半の受講生はポカーンとしていました。「あまり関心がなくて…」。問いもそれほどは出てきません。でも、これで終わらせたらもったいないので、宿題にしました。チームでタイトルと三つの質問に仕上げてもらいます。

 

 1週間後の昨日、全チームに成果を見せてもらいました。どのチームも本や新聞、論文などでみっちりと調べ、議論を重ねてきたのがわかる力作でした。1週間前とは次元が違う内容です。リフレクションシートには、どんな学びだったかがつづられていました。

 

 「久しぶりに本を読み漁った。ネット情報も検索し、週末にはチームのメンバーとオンラインで議論した。とても楽しく、知識を増やす喜びを改めて感じた」

 小さいお子さんがいらっしゃる受講生です。必死に本を読み、オンラインで仲間と議論をしている親の姿は、お子さんの目にどう映ったでしょうか。

 

 いつも固い表情だった受講生からは、熱い感謝の言葉をいただきました。

 「とても刺激的なワークだった。今まで宗教的なもの、イデオロギーについて全く考えてこなかった。(ユダヤ人の)宗教を重んじる生き方を学ぶことは、自らの人生を考えることにつながった。『質問力を磨く』に感謝」。

 

 それにしても「夫婦別姓は合憲」…。なんでだろう。(マツミナ)

 

小学校から始めるブクブク練習

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仕事を辞めて2年目になり、世間と少し距離を置いて来し方をゆっくり振り返る時間が増えました。段ボール箱にしまい込んだあれやこれやを整理していると、以前、学校や地域の方からいただいた資料などが出てきます。読み始めると手が止まって作業が捗りません。どうせ、急ぎの仕事ではありませんから、当時のことなどあれこれ思い出しながら眺めていると、あっという間に時間が経ってしまいます。

 

 先日は小学校の子供たちが描いた「夢水路設計図」という資料を発見しました。杉並区立井荻小学校の児童がまとめた善福寺川河川改修プランです。井荻小学校は学校の敷地内を一級河川が流れている全国でも珍しい学校です。その特色を生かし、善福寺川に住む生き物を調べたり、川沿いの清掃活動をしたりするなど、善福寺川を教材とした総合的な学習に取り組んでいました。

 

 善福寺川は1級河川ですが、水源である善福寺池に繋がる最上流部の水路は杉並区の管理下にあります。区はこの部分を改修するにあたり、区民からの提案を募りました。その時、井荻小児童が、ここを「夢水路」として親水施設化する計画を提案した時の図面が出てきたのです。子供たちの提案は区に採用され「遅野井川親水施設」として実現されました。区長に図面を示して一生懸命説明する子供達の姿を昨日のことのように思い出しました。

 

 「ところが実に偶然というのは恐ろしいもので」(さだまさし「雨宿り」)、昨日(6月21日)、ある会議の席で井荻小学校の前任校長からいただいた包みの中身を見て飛び上がりました。「善福寺川ノート」と題する井荻小独自作成の環境学習教材だったのです。もちろん「夢水路」のことも書かれています。最初のページには「私たちが区長さんに手紙を持って行った時はまだ12歳でした。しかし、自分の言動の持つ力を過小評価せず、何かを変えることができるという確信をもっていきました」という当時の6年生の言葉が載せられていました。

 

 添えられた手紙には「学校で学んだことが、明日、そして将来につながるように、子供たちの学びを進化させたい。そんな願いが込められた副教材です。(略)3年生から6年生までの4年間、継続して使います。その時その時に学習した記録を記したり、自分が興味を持ったことを深めたりするための余白を豊富に取ってあります。(略)共同的な学びと探究を図る教材として考えています。また、巻末には4年間の学習のまとめを書き込み、井荻小学校の卒業論文が仕上がることをねらっています」とありました。

 

 「洗面器に水を汲んで顔をつけ、そのままブクブクと息を吐くといった練習」をいつから始めるか悩むところですが、小学校の頃からこうした学習を積み上げて行けば、結構まとまった論文が書けるようになるかもしれませんね。期待しましょう。(イデちゃん)

 

母校でQ

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いつの間にか育っていました(マツミナ)

   今日は会議ばかりの1日でした。オンラインとはいえ三つも続くと、さすがに頭の芯が痺れているような感じがします。その一方で、始まったばかりの「畳水練」のことを考えています。どうやって知の大海に飛び込み、研究するか。ゴールになる論文を書かせるか。

 畳の上でいくら泳ぎの練習をしても、何の役にも立ちません。そもそも水が怖いと尻込みしている人を大海に叩き落としたら、もっと嫌いになってしまうかも。イデちゃんのご助言通り「洗面器に水を汲んで顔をつけ、そのままブクブクと息を吐くといった練習」から始めるのが無難かな、とも思います。

 

    「論文が怖い」と言っているそばから、全く新しいことを始めようとする学生がいます。授業の後、「全くの思いつきなんですが」と1年生が恐る恐る近寄ってきました。

 「『質問力を磨く』を高校でやったらいいと思うんです。僕は、こういう授業にもっと早く出会いたかった」

 先ほどまで、「論文を書いたことがなくて、不安です」と口にしていたよね。「もう、時間がない」と焦ってもいたはず。そんな表情をしていたことすら忘れたのか、ClassQへの思いを語ります。今まで味わったことがない刺激的な教室の空気。それが自分を魅了したのだというのです。

 ほお、それは嬉しい。で、何を思いついたの? 

 「母校でこの授業をやってもらえないか、頼みに行ってもいいですか」 

 面白い。すぐにプロジェクト名を思いつきました。「母校でQ」。

 もちろん、やりなさいよ。そこで授業をするのは、あなただよね。ただ、今年学び始めたばかりの人がこの授業を自分ひとりで展開するのは難しい。先輩たちを巻き込んでやってごらん。でも、高校に頼みに行くのなら、まず企画書ぐらいは持って行かないと、先生方も困るね。そこまで聞くや、もう満面の笑顔で「わかりました」と飛び跳ねるように教室を出て行きました。

 学生は結局、企画書も書かずに母校に飛び込み、先生の快諾を得たそうです。その後、届けられた企画書を見たら、こりゃひどい。企画書とは名ばかりの内容に、「先輩たちの力を借りて、推敲しなさい」とつき返しました。でも、内心では嬉しくて仕方がありません。水が怖いと言っていた学生が、なぜか隣のプールに現れ、飛び込み台から勝手に飛び下りているのですから。

 しばらくは、ツッコミどころ満載の企画書と付き合うことになるでしょう。最終課題も忘れないでいてほしいものです。(マツミナ)

習うより慣れろ

 

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小諸出て見よ 浅間の山に 今朝も煙が三筋立つ(小諸馬子唄)

  久しぶりに近くの中華料理店に食事に行きました昼時は混雑するだろうと思って少し早めに行ったのですが、すでに満席に近い状態で、案内された席は窓際の二人用のテーブルでした。席に着き、見るともなく店内に目をやると、家族と思しきグールプがいました。注文した料理が出来上がるまで、耳に入る声を聞いていると、どうやら今日は「父の日」ということで家族揃って食事に来たようでした。「そうか、今日は父の日か」と独言しながら、改めてさりげなく周りに目をやると、それらしき組み合わせの席がいくつもありました。

 

 そういえば母の日は5月の爽やかな季節にあるのに、どうして父の日は6月の梅雨時にあるのでしょうか。今日は幸い晴れましたが、大抵、いつも雨降りの日のような記憶があります。対面に座る家人に「お母さんはいいね。母の日はいつも晴れた日で」というと「何が言いたいの」と怪訝な顔をされました。

 

 食事が終わって、支払いをするのはどの家族も「お父さん」のようでした。ズーッと昔、某新聞に連載していた「フジ三太郎」(サトウサンペイ作)という漫画がありました。私は大ファンで、毎日切り抜いて取っておきました。その中に、フジ三太郎が父の日にお土産を買って帰り、喜ぶ我が子の顔を見てつぶやく場面があります。「ああ、父は与えるばかり」と。 支払いをする父親(多分)の後ろ姿を見ながら、その場面を思い出していました。そういえば、昨日は悲しい父、太宰治の桜桃忌でしたね。

 

 ミナ先生の悩みは深そうですねえ。「知の大海を、自分の質問力をフルに使って泳ぐワクワク感。でもそれを陸上で伝えきれたか」という実直な反省に水をぶっかけるようで気が引けますが、年寄りの嫌味を一言。それは「畳水練」というやつではありませんか。

  それでも水に入れば「こんなはずではなかった、畳の上ではちゃんとできたのに」と考え直すかもしれませんが、入る前から心配している学生に「大海」で泳いでみろと勧めても尻込みするばかりでしょう。彼らは「井の中」どころか「金魚鉢」からすら出たことがないかもしれません。

 

 水泳の苦手な子供が嫌がることの一つに「顔を水につけること」があります。顔を水につけると息ができません。その恐怖感を取り除いてやらないと先に進めません。よくやる方法は洗面器に水を汲んで顔をつけ、そのままブクブクと息を吐くといった練習です。以前は水の中で目を開けるように教えたこともありましたが、最近はゴーグルを使います。これだけでも顔を水につける恐怖心を大幅に減らすことができます。学生に洗面器とゴーグルを用意させたらいかがですか。

 

 「何!そんなことをしていたら間に合わない。大体、小中学校や高校の段階で、ちゃんとまとまった文章を書く学習をしてこなかったから、大学で苦労することになるのよ」と怒りの声が飛んできそうです。それを承知でいうのですが、洗面器からお風呂、浅い水溜りへと順番に慣らしていくのが近道かもしれませんよ。「習うより慣れよ」っていうじゃありませんか。

 こんな学生に育てた責任を棚にあげて、勝手なこと言ってごめんなさい。(イデちゃん)

大海を泳ぐワクワクを陸上でどう伝えるか

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白身メレンゲ状に泡立てた卵ご飯。はまっています(マツミナ)


 
昨日の「質問力を磨く(Class Q)」は苦い授業でした。自分の力のなさを改めて思い知らされました。伝えたかったのは、研究し、論文を書く楽しさです。知の大海を、自分の質問力をフルに使って泳ぐワクワク感。でもそれを陸上で伝えきれたか、というと…。丸一日たった今も反省しています。

 

 Class Qは最終論文として「職種の研究」を課しています。学年にかかわらず、学生たちは論文を書いた経験がありません。そこで昨日は研究計画書の書き方を話しました。「情報生産者になる」(上野千鶴子ちくま新書)を参考にしました。

 研究テーマ

 研究内容

 仮説

 研究対象

 研究方法

 先行研究・参考文献

 研究費用 

 研究日程

 本研究の意義

 本研究の限界

 

 授業では、学生がリフレクションシートに書いていたぼやきを題材にして、教材用の研究テーマを作って示しました。書かれていたぼやきは「(挑戦しろというけれど)やってもできない」。そこで研究テーマは「やってもできないを解決する」。さらに「やればできる学習法開発」にしました。仮説は「『新聞と毎日遊ぶ』が学習意欲を喚起する」。

 教材用に作ってみたものの、この仮説は大きな塊なので、検証するためにはスライスしなくてはいけません。「なぜ新聞なのか」「なぜ毎日が大切なのか」「時間帯は固定か」「学習意欲喚起をどう検証するか」…。まだまだスライスしきれていません。教材用として作った自分の研究テーマには、このようにたくさんの問題点があることを、学生たちに示しました。いつもよりもたくさんの質問が出てきました。

 「研究していく上で仮説が間違っていることもあるのか」「そもそものテーマと外れていったらどうするのか」「(元の)大きい仮説はどうやって立てたのか」…。

 仮説が間違っていること自体は珍しくない。その時はまた考え直すだけ。テーマと外れていったら、修正する。でも外れたところで面白いものを見つけたら、別の機会に掘り下げる。新聞記者としての取材でも変わりません。

 「大きい仮説はどうやって立てたか」には困りました。はて。その時、頭に浮かんだのは、海を泳ぐ魚です。口から出る気泡がつながり、大きな気泡につながっていく、そんな光景です。小さな気泡は問いです。問い続けながら泳いでいるうちに、大きな仮説が生まれてくることをどうしたらわかってもらえるか。

 丸一日たった今言えることは、とにかく、知の大海に飛び込め。新聞と本をたくさん読み、大きな仮説と出会えるまで、泳げ。溺れそうになったら、SOSを出せ。私も救命具を積んだボートを漕いで付いていくから、ぐらいかな。(マツミナ)

見方を変えると

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散歩中に見つけた跳ね上げ式水門

 この間、テレビの番組で10代が使うLINE、Twitterの略語を紹介していました。

 「り」は「了解」で、これは自分でも使うことがあります。「そま?」は「それってまじ?」という意味らしい。ナウシカ」(今しかない)もそう言われれば、なるほどと思います。「フロリダ」は「風呂に入ってくるから離脱」だそうで、これには参りました。大したものです。

 

 古い話になりますが、1980年代はまだポケベル(ポケットベル)の全盛時代で、数字を組み合わせた暗号のような表現が流行っていました。「0833」(おやすみ)、「0960」(遅れる)、「04510」(お仕事)などの分かりやすいものから、「11014」(会いたいよ)とか「09106」(起きてる?)などといった複雑?なものまでありましたっけ。

 

 最近、ゴルフ仲間との連絡にショートメールを使うことが多いのですが、時節柄「ワクチン済んだ?」が挨拶がわりになっています。高齢者の接種が進んでいますから「済んだよ」とか「今度2回目」とか送られて来ます。若者が「アピる」とか「ドタる」とか、名詞を動詞形で表現するのを真似て「わま?」(ワクチンまだ?)とか「わす」(ワクチン済んだ)、「ワ2」(2回目接種)、「わね」(ワクチン打って熱が出た)なんて打ってみましょうか。でも、人に見られたら「いい歳こいた爺様たちが何やってんだ」と笑い物になるかもしれませんね。

 

 今日はある会議に出席しました。もちろん、東京から県境を超えて出かけることははばかられますので、Zoomでの遠隔参加です。Zoomの嫌なところは照明を当てると「おでこ」が光ることです。色々工夫してみますが何故か大きな「おでこ」が光ります。それにカメラをミラーにし忘れると、いつも鏡で見ている自分の顔が左右反対に映ることです。頭を右に振ったつもりが映像は左に動きます。わかっていても妙な気分になります。

 

 「見方を変える」とか「視点を変える」とか言いますが、見慣れた自分の顔が反対に映るのを見て、世間をひっくり返してみたらどんな風に見るだろうかと思いました。そういえば「またのぞき」の研究でイグ・ノーベル賞を取った研究者がいるそうです(朝日新聞DIGTAL2016.9)。その方(東山篤規・立命館大学教授)によると「前屈みになって股の間の風景を見ると、遠くにある物体が小さく、全体的に遠ざかって見える」のだそうです。なるほど、これこそ「見方を変えれば、見え方が変わる」というやつですね。当たり前に思っていたことがひっくり返るお手本みたいな話です。

 

 筑波山の「がま」は鏡に映る自分の姿を見て脂汗を流したそうです。「ガマの油」はそれを集めて軟膏にしたもので、子供の頃、お祭りの夜店が並ぶ前で「さあさあ、寄ってらっしゃい、見てらっしゃい」などと口上を唱えながら売っていたのを見た覚えがあります。        

反対に写った自分の顔に驚いた爺様は、脂汗ならぬ冷や汗でもかいたでしょうか。それは内緒です。(イデちゃん)

ワクチン接種に行ってきました

 

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ネムの花を見下ろす(イデちゃん)

 昨日、新型コロナウィルス・ワクチンの1回目の接種に行って来ました。集団接種会場の市役所ロビーに着くと、既に何人もの「老人」が待合室の椅子に座っていました。受付で1番の札をもらって空いた椅子に座り、開始にはまだ間があったので多くのスタッフが準備をしている様子を眺めていました。しばらくして消毒、検温、書類確認の窓口が整い、マスクとフェイスガードで防護した係がスタンバイしました。

 

 9時開始の予定でしたが「準備が整いましたので早めに始めます」というアナウンスがあり、私の名前が最初に呼ばれました。すると一人の男性が「私はこの人よりずっと先に来ていたのに、どうして1番ではないのか」と、近くにいたスタッフに尋ねました。スタッフは「予約受付の順番にお呼びしますのでお待ちください」と説明し、その男性の予約票を確かめると10時からのグループだったようです。

「〇〇さんは10時からです。それまでお待ちください」と言われた男性は「折角、早く来て順番待ちしていたのに、先にしてくれないのか」とかなり不満そうな様子でした。

 

 私が会場に到着したのが8時半頃で、その男性はその時すでに座っていましたからもっと早く来たのでしょう。早く行けば先に接種してもらえると思って来たのでしょうか。各地の接種会場での混乱が度々報じられていますが、思い違いや不十分な理解からすれ違いが生まれて、トラブルになることも多いのだろうなと思いました。

 

 最近、病院とか役所では個人名を人前で呼ばなくなりました。番号ではなく名前を呼ばれ「?」と思って手を挙げるとスタッフが近づいてきて「お名前を確認いたします。フルネームをおっしゃってください」と言われました。間違いのないように本人確認を徹底しているようです。持参した運転免許証と住所氏名を照合し、予診表のチェックになりました。

「継続して飲んでいる薬はありますか」

「いいえ」

「血液をサラサラにする薬は飲んでいませんか」

「飲んでいません」

お薬手帳をお持ちですか」

「いいえ」

いやはや徹底した確認です。ここまでしないと危険があるのでしょうか。なるほどこれでは1日にそんなにたくさんの人に接種できません。例の1日何万人もの人を相手にする「大規模接種会場」はここまでやっているのかなと、他人事ながら心配になりました。

 

 受付から始まり医師の問診を終え、接種ブースに案内されるまでにどれだけの関門を通過したでしょうか。「肩を出してください」、「ちょっと痛いかもしれませんよ」と言われた時には終わっていました。全然痛くありませんでした。15分間の事後観察は異常なしで、ワクチン接種が終わりました。

「接種1秒、前後30分」(注意1秒、怪我一生)なんてパロったら罰が当たりそうです。スタッフの皆さんのご苦労に改めて感謝します。今日はなんとなくボーッとしてます。(イデちゃん)

リアルな対話で学生たちは学ぶ

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企業人と語る学生たち(マツミナ)

 今日は、スペシャルイベント「企業人と語ろう」を帝京大学で開きました。「質問力を磨く(ClassQ)」の最終課題「職種の研究」に向けたイベントで、帝京、上智両大学の学生延べ100人が授業の合間をぬって参加しました。

 人と人との関係が希薄になっているこんな時期だからこそ、リアルな対話が学生たちの学びを活性化すると期待してのイベントです。授業に協力してくださるソアーシステム社長の大脇耕司さんが、他社にも呼びかけて実現しました。会場は、換気のいい吹き抜けのラウンジ。IT企業や食品製造業、建設業の計8社がそれぞれブースを設け、学生たちと向き合いました。

 

 環境は整いました。さあ、学生たちはどんな質問を繰り出すか。ワクワクして耳を澄ませます。

 1年生がさっと手を上げて発言を始めました。「御社のホームページで書いていたCSRについて伺います」。ほお、感心感心、事前にホームページを見てきたか。「まちづくりへの貢献について教えてください」。え? ちょっと待て。今日のテーマは「職種の研究」だよ。

 次は2年生です。「御社のパンフレットを読みました」。よしよし、今度こそはテーマに沿って質問するんだよね。「御社がこれから最も力を入れていく事業を教えてください」。まったくもう、何を聞いているんだか。そもそも会社の戦略を外で話せるわけないじゃん。

 

 心の中で舌打ちしていました。こんな質問をしていて、最終課題に取り組むことができるのか。不安が募ってきます。けれども、そんな不安をいつまでも感じていられないほど、学生たちの表情はいきいきとしていました。どのブースをのぞいても、学生の顔は輝いています。さらにみんな、ノートとペンを手にしています。メモをする速さと真剣さといったら。授業中もこうあってほしい、というぐらい必死です。いつも授業ではなかなか質問の手を挙げられない学生が、みんなの前で発言していました。

 それでも、終了後には多くの学生が反省を口にしていました。「自分の質問が通じなかった」「自分が知りたいことをうまく伝えられなかった」。事前に用意した質問の意味を、自分が意図したように受け取ってもらえなかったと言うのです。時間をかけて調べて、ノートにまとめておいたのに通じなかった、と俯きます。

 

 今日は学生たちにとっては、いい時間だったようです。テーマに直結した質問を繰り出せなくても、自分で考えた質問を初対面の企業人にぶつけて、通じなかったという貴重な経験を得ました。

 最終課題がどうなるかは、この先のお楽しみとしましょう。(マツミナ)

「みんなと同じ」は「みんなのため」

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主がいなくなっても今年も忘れずに咲きました(イデちゃん)

 「きらりと光る自分でいたい。でも、みんなの和を乱すようなことはできない」という微妙なバランスの中で、「ちょっとだけみんなと違う」ところをさりげなく表すのはかなり高等なテクが必要です。

清少納言のようなレベルの知性であれば、好きも嫌いも世辞も嫌味もさりげなく表現して、「後は読み手のご自由に」と高みの見物でもしていられるのでしょうが、浮世の凡人たちが真似るには少々荷が勝ちすぎます。だから、何か言いたいことがあっても「それを言ったらオシメーよ」ということにならないように、せいぜい「雰囲気を悪くしない程度の意見」に止めて、自分も相手も嫌な思いをしなくて済むように「心配り」をするしかありません。

 

 「なぜこんなことになっているのでしょうか」と改めて問われると言葉に詰まります。前に書いたように学校は「みんなとうまく付き合っていくことを学ぶ」ところですから当然の帰結というしかありません。もちろん学校は悪意を持ってそんなことをして来たわけではありません。社会に出て困らないように、ちゃんと生きていくことができるように、子供のために良かれと思ってそうして来たのです。

校則の見直しが求められています。議論の中では頭髪の色や長さ、スカートの丈や靴下の色など「こんな決まりは時代錯誤」とか「常識はずれ」とか批判されています。なぜそんな決まりを作ったのかと言えば、それはひとえに「児童・生徒の健全な成長のため」にほかなりません。(影の声「学校の都合と体裁のためでしょ」) 「みんなと同じに」という善意に満ちた価値観を生徒も先生も学校全体で共有することよって、学校はその役割を忠実に果たして来たのです。

 

 少しばかり大袈裟に書きましたが、露悪的にすぎたでしょうか。いずれにしても、その片棒を長く担いで来た自分も同罪で、責任は免れません。反省の気持ちを込めて「考える先生」育成に力を注ぎ、これまで学校が守ってきた「みんなと同じ」にすることが一番大事、という価値観を変えていかなくてはならないと改めて思いました。(イデちゃん)

 

 

学びよりも「わきあいあい」が大事

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ヒナたちの動きがスピードアップしていた(マツミナ)

 学生たちにとって「雰囲気」はどんな価値を持っているのでしょうか。

 授業中のつぶやきやリフレクションシートの記述から考えると、とてつもなく重要なものかもしれません。どんなことを学んだか、どんな力をつけたか、よりも「わきあいあいとやれた」「盛り上がった」に力点が置かれているようなのです。

 

 「質問力を磨く(Class Q)」では、学生たちが発表します。発表準備のために、授業外で何度もチームワークをします。まずチームのメンバーが集まれる日程を調整する、対面かZoomで調べたことを持ち寄り、チーム内で議論を重ね、発表に向けた資料を作る。当日は発表するだけでなく、チームで質疑応答にも臨みます。

 問題は、授業外で起きているようです。まず日程調整でこじれます。毎週のように、「○◯が非協力的で、日程調整ができない」などといった声を耳にします。何とか日程調整ができても「▲△は調べ物もしないでくる」「●◯と△●はおしゃべりばかりしている」…。議論にならず、時間ばかりがかかり、発表資料も「やっつけ仕事」になってしまうようです。当然、リフレクションシートには、満足できる資料を作れなかったことへの反省と悔しさが書かれることになります。

 

 下調べもしてこない学生には「ちゃんと調べてきてよ」と注意すればいい。無駄話ばかりしている人にも「時間がないから協力して」と言えばいい。それだけの話なのですが、学生にそう助言しても「でも…」と言葉を詰まらせます。言えないというのです。「雰囲気が悪くなるから」。

 

 Class Qで目指しているのは、「自分にしか書けないことを誰にでもわかるように」。独創的な内容を、論旨明快に、適切な言葉を使い、誤解なく伝わるように、推敲を重ねて表現する。中でも学生たちが最もリフレクションシートに書いてくるのは、「自分にしか書けない」=独創性です。あこがれているといってもいいでしょう。少なくとも「みんなと同じでいい」とは思っていないようです。

 きらりと光る自分でいたい。でも、みんなの和を乱すようなことはできない。だから、雰囲気を悪くしない程度の意見を言う…。なぜこんなことになっているのでしょうか。学生たちはこうした状況をどう考えているのでしょうか。

 

 明日、明後日の授業で目を凝らしてきます。(マツミナ)

みんなと同じがいい

 

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ねずみもちの花にしがみついて蜜を集めるハナムグリ

 「では、みんなで話し合いましょう」って先生はよく言います。「グループになって話し合ってください」。ほんとに先生は話し合いをさせることが好きですね。子供は話し合うことが苦手です。何を話し合えばいのかわかりません。子供に言わせれば「ヒソヒソ相談することは得意だけど、話し合いって質問したり、意見言ったり、まとめたり、発表したりしなければいけないから面倒」なことで先生が思っているほど必要は感じていないかもしれません。

 

 中央教育審議会で「主体的・対話的で深い学び」について議論されていた頃、中教審は「対話的な学び」について「自分と他者の意見や考え方を比較したり、自分だけでは気付くことが難しい気付きを得たりしながら、考えを広げたり深めたりできるようにする」(中央教育審議会答申 平成2812月)と説明しました。

 

 これは日本の子供(子供だけではないね)が一番不得手とするところです。正解を素早く見つけることを優先し、面倒な議論はしたくない。自分の意見を言うと「押し付けている」と受け止められ、「他に意見はないですか」と聞いてもみんな何も言わない。肝心の問題を解決することより、雰囲気を壊さないように、気まずい感じにならないようにすることに気を遣う。こうした気遣いは「狭い共同体の中で平穏に生きていくための知恵」だとすれば学生が議論を避けるのも当然かもしれません。

 

 学校はみんなと同じにすることが大好きです。「きまりを守りなさい」「みんなと一緒にしなさい」「静かに聞きなさい」「勝手なことをしてはいけません」あげればキリがありません。そもそも学校というところは「みんなとうまく付き合っていくことを学ばせる」ところですから、そうやって育てられた子供たちに「自分の意見を言え」とか「意見をぶつけ合え」と言っても「そんなふうに育てておいて、勝手なこと言わないでよ」と叱られそうです。

 これは「学び方」を変えるだけでなんとかなる問題ではないように思います。これまで学校が守ってきた「みんなと同じ」にすることが一番大事という価値観を変えない限り、「主体的・対話的で深い学び」をいくら主張しても、所詮「学び方」に止まり、「生き方」の改革まで届かないかもしれません。

 

 文科省は校則を見直せと言い出しました。「自分と他者の意見や考え方を比較したり、自分だけでは気付くことが難しい気付きを得たりしながら、考えを広げたり深めたりできるようにする」ことの大切さに気づいたのでしょうか。それとも「校則」の改革レベルの議論なのでしょうか。

 

 今日は亡き母の七七忌の法要でした。(イデちゃん)

チームビルディング

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議論の後の甘味は格別(マツミナ)

 「質問力を磨く(Class Q)」の学生たちが最も頭を痛めているのは、チームビルディングでしょう。教室内でのチームワークでも、微妙な表情をしている学生が目につくことがあります。先日はリフレクションシートにこんな記述がありました。

 「私は苦手な人と作業をするときに顔に出てしまいます。ミナ先生は嫌いな人と仕事をする必要があると考えていますか」

 この記述を授業で紹介したところ、同様の悩みを持っていることを明かすリフレクションシートが集まりました。

 「私も好き嫌いが激しいから、嫌いな人と仕事をしなくていいのならそうしたい。でもできないと知っている。他人事とは思えないコメントだった」

 

 学生たちも頭ではわかっています。卒業してビジネスの仕事に入ったら、好き嫌いなんてわがままは言えないことぐらい。とはいえ、なかなか好き嫌いの感情を制御できない。困った学生たちは、それぞれ私のもとに相談してきます。

 

 「○○は、自分の仮説をやたら押しつけてきて困ります。いつもこうなんです」。仮説を押し付けてくる学生を、私に何とかしてくれと言いたいようです。

 逆に「押し付けている」と名指しされている学生からは

 「『他に意見はないですか』と言っても、みんな何も言わず、結局私の意見のままでまとまってしまうのです。チームワークができない。どうしたらいいですか」と尋ねてきます。

 どちらかが悪いというより、意見をぶつけ合うことができないのかもしれません。「雰囲気を壊したらどうしよう」「気まずい感じになったら…」。

 Class Qは仲良しクラブではありません。質問力を磨くところです。となれば、チームですべきことは、それぞれが徹底的に調べて根拠を持ち寄り議論をするだけです。押し付けてくる、というのなら、その仮説をみんなで検証すればいい。立証できる根拠があるか、反証できる根拠があるか、みんなで探せばいい。立証も反証もできなければ、その仮説には問題があるから、考え直すだけのことです。一方で、みんながシーンとなることに悩む学生は、沈黙のワケを聞けばいい。ついでに自分の仮説を検証し、立証できなければ考え直すことです。議論を尽くさないことには、チームにはなれません。

 

 新聞記者時代の経験をふりかえると、苦手な人と組み、苦しみながら取材して世に送り出した記事の方が印象に残っています。苦手意識が相手へのなれ合いを排除し、まずは目の前のこの人に、確固たる根拠をもとにした論理を示し、納得してもらなわなくてはいけない。そういう気概があったのかもしれません。

 週末の今日もチームで集まって課題に取り組んでいるようです。さあ、そこでどんな議論ができるでしょうか。来週のClass Qが楽しみです。(マツミナ)

遠隔操作で修正します

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我が家のコリドラス。6,7年生きてるかな(イデちゃん)

  最近メールの調子が悪くて参っていました。カスタマーセンターに連絡すると返事が来ました。

 「本メールは、外部の第三者による不正利用が疑われるメールアドレスにご連絡をしております。パスワードリセット後に、セキュリティ強化のため以下を参照の上、パスワードの変更をお願いいたします」。

 そこで、示された手順に従って、パスーワードのリセットに挑んだのですが、どうにもうまくいきません。「最初に登録したメールアドレスを入力してください」次に「I Dコードを入力してください」。ここまでは良かったのですが「登録したメールアドレスに送られたワンタイムパスワードを入力してください」という表示にはたと困りました。ワンタイムパスワードを知らせるメールを受け取れないのです。

「どうなっているのだ、全く」と少々苛立ちながら、もう一度やり直しました。でも、また同じことになりました。

 

「メールの受信ができないから困っているのに、送ったpwを入力してと言われてもできるはずないでしょ、まったく」と憤慨してカスタマーセンターに電話しました。ところが「ただいま電話が大変混み合っています。そのままお待ちいただくか、もう一度おかけ直しください」と相手にしてくれません。「これじゃ仕事にならない。どうしてくれようか」とだんだんムカついてきました。新型コロナワクチン接種申し込みの電話が繋がらなくて困惑した人たちもこんな気持ちになったのでしょうか。いやいや、もっとイライラしたことでしょうね。

「白やぎさんから お手紙ついた 黒やぎさんたら 読まずに食べた しかたがないので お手紙かいた さっきの 手紙の ご用事なあに」(まど・みちお作詞「やぎさんゆうびん」)じゃないけど、しかたがないからお手紙書こうか、「さっきのP W届きません」て。

 

夕方になって「お手紙」の代わりに送ったメールに反応がありました。何と電話の繋がらないカスタマーセンターから電話があったのです。ところが生憎なことに、そういう時に限って車の運転中だったりして、しかたがないので2時間後に電話をくれるように頼みました。2時間後、電話が来ました。あの絶望的な気持ちになる「順番にお繋ぎ致しますので、そのままお待ちください」ではなく、「どのようなトラブルでしょうか」と向こうからアクセスがあったのです。この機を逃したら次はいつになるかわかりません。ここぞとばかり不具合をたたみかけると、電話の相手は冷静に「わかりました。こちらから遠隔操作で修正いたしますので許可願います。これから画面の指示に従って入力してください」と答えました。

 

それからは電話の向こうからの指示に従って入力を繰り返して遠隔操作を可能にすると、何と私のパソコンが勝手?に動き始めたのです。もしかしたらこれってハッキングではないのか、よく話題になる他人のパソコンに侵入してパスワードを盗んだり、重要なデータを抜き取ったりする「あれ」ではないのか。電話の相手に尋ねると「そうですよ。でもこれは許可を得てやっていますから。無断でやれば犯罪ですね」と、平然というではありませんか。自分のパソコンが乗っ取られ、勝手に中身が書き換えられていくのを目にしながら、自分が頼んだ仕事とはいえ、何だか恐ろしくなりました。

 作業開始から90分、全ての修復が終わり問題も解決されました。訳のわからないパソコンの不具合が続き、ストレスが溜まっていましたが、これでスッキリ。いい気分になりました。

ということで今日のブログはこれでおしまい。(イデちゃん)