idematsu-qのブログ

屋根のない学校をつくろう

出席停止の日数を合格判定の資料にするな

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秋の空 鱗煌めく鰯雲 なんてのはどう? 駄作かな。いや季重なりだわ。(イデちゃん)


 
「新型コロナウィルスの感染拡大に伴い公立小中学校で導入が進むオンライン授業で、文部科学省が参加した児童生徒を原則として『出席』と認めないことに対し、保護者から『受験時の内申書に悪影響が出そう』と不安の声も上がる」(9月7日付東京新聞)という記事を読みました。

   多くの自治体が今年の2月の文科省通知に従い、オンライン授業を受けても「出席停止・忌引き等」として整理しているものの、中には出席扱いにしているところもあるようです。隣同士の自治体で扱いに違いがあるために「出席日数が内申点や成績にどう影響するか不安。特に受験生は気掛かりだ」(同紙)と保護者の不安を報じていました。

 コロナ禍での学習の遅れや理解の不十分さを心配し、受験生が公平に競争できるようにしてほしいと要望しているのかと思いきや、心配の中身は勉強の遅れではなく、出席停止の日数のようです。受験生を持つ親の気持ちがわからないではありませんが、なんとも悲しい話ではありませんか。

 「オンラインでも学習成果を確認できれば『出席として認めることも可能』と各校に通知し」「児童生徒の不利益にならにように配慮した」(同紙)教育委員会もあるようですが、その程度のことで当事者の不安が解消するとは思えません。この際、全ての教育委員会や独自の判定基準を設けている学校は「出席停止の日数は合否判定の資料にしない」と対外的に表明することを望みます。それが受験生や保護者を安心させる一番いい方法です。「出席停止の日数など気にしないで、オンラインだろうがオフラインだろうが、しっかり勉強してください」というメッセージを送ることです。

 

 文科省は出席扱いとしない理由として「児童生徒の発達段階を考えると、対面授業が望ましい」(同省担当者)と説明しています。今頃何を言っているのですか。オンライン授業はコロナで対面授業ができないから始めたわけではありません。GIGAスクール構想とやらで学校にどんどんタブレット等を配給し、文科省が主導して進めてきたことでしょう。それを今さら「発達段階を考えると対面授業が望ましい」とか屁理屈つけて「出席」とは認めない、つまり「授業を受けたことにしません」とはどういうことですか。

 

 コロナ後の教育のあり方について議論が進められています。やることなすことトンチンカンな文科省はどう考えているのでしょうか。そもそも考えているのでしょうか。

 いつでも、どこでも、誰でも学ぶことができる「屋根のない学校」には「出席停止」なんてありませんから。(イデちゃん)

 

 

もう1杯!

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もう1個!(マツミナ)

 映画「アナザーラウンド」を観てきました。まだ観ていない方には、ぜひどうぞ、とお薦めします。人生の楽しみ方を考えさせてくれる作品です。

 

 舞台はデンマーク。主人公は高校の歴史教員です。うつろな目で教壇に立つ彼は当然、生徒にバカにされていました。家庭的にもうまくいっていません。そんな日々を変えたのは、同僚でもある友人が教えてくれた一言。ある学者が、血中アルコール濃度が0.05%だと、仕事もプライベートもうまくいくと書いていたそうです。主人公を含め、その場にいた男性4人は、その研究の検証を始めました。みんな鬱屈を抱えていたようです。

 まずは主人公。授業ががらりと変わりました。こんな授業の場面が印象に残りました。

 

 3人の候補者がいる。あなたはどの候補者に投票するだろうか。

 1番目と2番目は、アル中だったり、ヘビースモーカーだったり。3番目の候補者は酒もタバコも嗜まない、女性にも動物にも優しい人だ。

 

 生徒は3番目の候補者を選びます。実は1番目はルーズベルト、2番目はチャーチル、3番目はヒトラーだったのです。意外な切り口から歴史を学ぶことで、生徒たちの好奇心は大いに刺激されたことでしょう。生徒の授業への向き合い方がどんどん変わっていきます。そこでの自信が、家族との関係も変えていきました。主人公と一緒に検証実験に取り組んでいる友人たちの人生も、好転していきます。

 

 「アナザーラウンド」は「もう1杯」という意味。デンマークという国は、もともとお酒に寛容な国のようです。とはいえ、過ぎたるは…。

 

 イデちゃんによると、今年春に着任した先生たちが、授業や生徒・保護者対応で悩んでいるようです。若い先生たちは、現状を変えたい、自信を持ちたいと考えたら、何をするのでしょうか。(マツミナ)

辞めたいと思ったこともあるけれど

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「鶏頭となるも…」(イデちゃん)

 

 先日、4月に新任教員として採用され、晴れて「学校の先生」になった人たちの話を聞く機会がありました。

 

「子供たちの主体的な学びを支えることができるようになりたい」

「生徒とのコミュニケーションをよくして、信頼される先生になりたい」

「授業だけでなく、生徒指導や部活なども頑張りたい」

 

 希望に燃えて先生になったものの、

「課題の提示や発問が適切にできないので授業がうまくいかない」

「生徒の話を聞いてあげたいと思っても忙しくて時間がない」

「授業だけでも大変なのに、慣れない部活指導でクタクタになってしまう」

 

 現実は思った以上に厳しかったようで、

「大学で学んだ知識が役に立たない」

「生徒指導より保護者対応が難しい」

「非常勤講師や塾の講師の経験が通用しない」

といった泣き言も聞こえてきました。

 

 「大丈夫、大丈夫。みんな初めはそんなもんだから。そのうち経験を積んでいろいろなことを覚えていけば大学の勉強も役に立つようになるし、子供のこともわかるようになるから。授業の腕前だって上達するよ。私だって…」と言いかけて言葉を飲み込みました。

 私が駆け出しの教師だったのは50年以上も前のこと。あの頃は大学を出たばかりの未熟な若い先生の失敗を許してくれるゆとりや優しさがあった。それに比べ今は先生に対する期待や要望は無制限に膨らみ、不寛容な社会は少しの失敗も躓きも容赦なく責め立てるではないか。時代が違う――そう思い直したからです。

 

 「思い続けてきた夢がかなったのに、こんなに苦しいのは何故だろう。自分の理想と現実があまりにも離れすぎていて何をどうしたら良いかわからない。毎日、子供の揉め事が続き保護者に連絡したり、忘れ物をしてくる子供や提出物をチェックしたり、事務仕事の多さに押しつぶされそうになる。ブラックと言われる意味がなってみて初めてわかった。でも、そんな時に支えてくれたのは周りの先生方です。子供にも助けられました」「辞めたいと思ったこともあったけれど、支えてもらい助けてもらってどうやら続けることができました」と、1学期を振り返る若い先生に「よかったね」というと、嬉しそうに頷いていました。私は改めて無神経な自慢話をしなくてよかったと反省しました。

 

 コロナ禍のおさまらない中で2学期が始まりました。学校はますます多忙な毎日になることでしょう。また、辞めたくなるような場面に遭遇するかも知れません。若い教師がどのように育っていくのか追いかけてみようと思っています。「考える先生」を育てる手がかりがあるはずです。(イデちゃん)

及び腰では戦えない

 

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花言葉は「野性的な美しさ」(マツミナ)

 

 アフガニスタンの首都カブールで、数十人の女性がデモ行進し、タリバンとの小競り合いまで起きているそうです。NHKニュースの映像を見て驚きました。女性たちが顔を出し、声をあげている!

 「女性の権利を守らない政権に正当性はない」。そう大声で訴えています。

 掲げている紙には、「私たちは恐れない」と書かれてあるそうです。教育を受ける権利や、自立して働く権利を奪うな。周囲には銃を構えるタリバンがいても、女性たちは怖気付く様子もなく、街を闊歩しています。真正面を向き、背筋を伸ばし、凛とした姿勢で。

 

 一方、ある国の与党では、現職トップが不出馬を表明した途端、次々に手が挙がっているようです。言いたいこと、実現したいことがあるのなら右顧左眄していないで名乗りをあげればいいのに。手を挙げた時の姿勢は見ていないけれど、腰をやや曲げた姿勢だったのではないかしら、と想像します。

 

 こうしたおとなの姿を真似しているのでしょうか。プロジェクトにしても、就職活動にしても、今まで体験したことのないことに、どこか及び腰の学生が目につきます。失敗するかもしれない、誰かに目をつけられるかも……口にする理由はさまざまです。

 

 及び腰は「腰をやや曲げて前方に手を伸ばす、不安定な姿勢。自信のなさそうな中途半端な姿勢」(明鏡国語辞典)。よく考えたら、こんな姿勢ではいざとなったら戦えないし、逃げることすらできないでしょう。

 

 及び腰で臨むぐらいならやらない方がいい、というのは極論でしょうか。(マツミナ)

 

悪い冗談

 

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踏切の「グラジオラス」ではなく「カンナ」でした。訂正します(イデちゃん)

 

 先代の投げ出した老舗を引き継いだ生え抜きの大番頭が、わずか1年でお店(おたな)を辞めることになったようです。何があったのでしょうか。例によって噂好き詮索好きな長屋の住人が朝から騒いでいると、横丁の御隠居が通りかかりました。

 「一体どうなっているんですか」と住人に尋ねられ、自称「物知り・訳知り」の御隠居が「知ったかぶり」の講釈を始めました。

 

 「あの店は結構危ない商売をやっていたらしいな。世間にバレたら都合の悪いことは帳簿を書き直させたり証文を始末させたりして、知らぬ存ぜぬでほっかむりしてきたけれど、いよいよ立ち行かなくなり、先代は『腹が痛い』と言って投げ出した。その跡を継いだのは持ち前の強面で行状の悪い旦那の後始末をしてきた子飼いの大番頭だった。

 苦節30余年、何代もの主人に仕えてやっと表に出ることができた大番頭、『さあ、これからは俺が主人だ』と勇んでみたものの、所詮雇われの身。やっぱり気になるのは先代、先々代の御威光と腹の中。他人の悪事の後始末には長けていたけれど、自分でしたいことを考えたことがなかった悲しさで、さて主人になったものの何をしたら良いのかわからない。

 そうこうしているうちに、先代の頃から始まった疫病の大流行で二進も三進も行かなくなり、慌ててあれこれ手を出してみたものの、やることなすこと後手後手の的外れ。

 先代がやるはずだったお祭りを引き受けたものの、手柄は他国の『ぼったくり男爵』とやらに持っていかれ、聞こえてくるのは『疫病の流行る最中になんで祭りなんかやったのか』と怨嗟の声ばかり。得意の強面も疫病相手にはとんと効き目がないと来たもんだ。

 『あんな主人の下では商売できない』と丁稚どもまで騒ぎ出し、こんはずではなかったと慌てふためいて先代に相談に行ったら『俺は知らないよ』とつれなくされて、挙句に『もともと、あんたに継いでもらおうと思っていたわけではなかったんだ』などと言われる始末。梯子を外され万事休した元大番頭は『話が違う、これじゃあやっていられない』とばかり投げ出した」。

 

 「とまあ、こんなところかな。三文芝居の幕が下りたってことだな」と得意げに話す御隠居の鼻の穴が膨らみました。

 「ところで、次は誰になるんですか」

 「二度あることは三度あるかも」

 「御隠居、悪い冗談はやめて下さい」(イデちゃん)

贅沢な学びの場

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贅沢なスイーツ(マツミナ)

 

 「考える先生」プロジェクトの中間報告会を9月2日に開きました。報告会には、ご協力くださっている自治体の教育長、人事部長、小中学校の校長らが参加しました。イデちゃんは正面から眼光鋭く(?)聞いていましたね。

 報告会は、春から3か月間、中学校訪問を続けている学生の発表から始まりました。学生が重視していたのは「生徒を知る」ことだったようです。発表でもそのことを強調していたため、参加者の質問はそこに集中しました。

 

 「知るとはどういうことなの?」「生徒の何を知りたかったの?」

 「知るのゴールはどこなの?」

 

 質疑応答は2時間にわたりました。たくさんの質問に答え、時折悔しそうな表情を見せながらも、学生はこんなことを考えていたそうです。

 

 「自分はすごく贅沢な学びの場にいさせてもらっている」

 

 いいところに気づきました。緊急事態宣言下での新学期、教育現場は超多忙です。にもかかわらず、これだけの人が集まるのはなぜか。そこにいた全員がどうしたら「考える先生」を育てられるか真剣に考えているから。だからこそ自分の学びが注目を集めているのだ。自分とここにいる人たちは同じ方向を向いている。そう理解できたようです。

 終了後、学生はクリーニングしたばかりのスーツとワイシャツが汗でびっしょりになってしまった、と苦笑していました。

 その後に提出してきたリフレクションシートには、熱い決意が書かれていました。

 「今日感じたのは悔しさだけでなく、恥ずかしさもあった。これだけすごい人に支援していただいているにもかかわらず、この結果では次から合わせる顔がない。(略)今日の悔しさと恥ずかしさを自分を変えるきっかけにしよう」

 

 支援を真摯に受け止めたことで、学生の新たな成長がきっと始まります。(マツミナ)

休校期間と学力は関係ないというけれど

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花より団子 お忙しのクマンバチ(イデちゃん)

 

  全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)が行われ、その結果が公表されました。ミナさんが「目的や意図に応じて、理由を明確にしながら、自分の考えが伝わるように書き表し方を工夫することに課題がある」という文科省の解説について、「そもそもこの問題は「自分の考え」を書くように求めていたのでしょうか。設問設計者の意図に沿って、一定の条件付きで書くことが『自分の考え』なのでしょうか」と疑問を提起しています。

 

 小学校学習指導要領国語科によれば「思考力・判断力・表現力等」に関する5・6年生の学年目標を「筋道立てて考える力や豊かに感じたり想像したりする力を養い、日常生活における人との関わりの中で伝え合う力を高め、自分の思いや考えを広げることができるようにする」としています。

 

 今回の調査問題はこのことを踏まえて出題されたと思われますが、出題の意図は「自分の考え」を求めたのではなく、求められる手順に従った「書き表し方」かどうかを調べることにあったとすれば、当然「書き表し方を工夫することに課題がある」という説明になるのでしょうね。採点しようがない「自分の考え」など初めから求めていないということかも知れません。

 

 私が気になったのは「休校期間と成績は全体で見て相関がなかった」という解説です。単純に考えれば「休校中に学校で学習できなかった内容は自宅学習やその後の補習等で補うことができた」と理解できますが、意地悪な見方をすれば「自宅学習や補習で補うことができる程度の学力」を調査したということになりませんか。

 そもそも、学力調査で調べることができる「学力」は「知識・理解」などの数値化が可能な能力(いわゆる認知能力)であって、「意欲」とか「考え方」とか「コミュニケーション力」といった数値化が難しい能力(非認知能力と呼ばれている)を測ることは困難です。コロナ禍による影響はむしろこうした部分に強く現れることを考えれば「影響ない」と片付けないで、より慎重な分析をして欲しいと思います。(イデちゃん)

 

「自分の考え」とは何か

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食べごろは近い?(マツミナ)

 

 「全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)」の結果が公表されました。結果の解説を読みながら、理解しきれないところがたくさん出てきて、頭が痛くなっています。一昨日受けたワクチンのせいばかりではないでしょう。

 

 テストは今年5月、小学6年生と中学3年生の計194万人が受けました。多くの先生や親たちが心配していた、コロナによる休校がどれほど学力に影響したかについては、心配しなくても大丈夫と結論づけていました。「休校期間と成績は全体で見て相関がなかった」(文科省)ようです。とはいえ、やはり気になる傾向があると分析しています。たとえば小学生の「書く力」です。

 「書く力」をみる問題は、二つの文章を題材に使っていました。一つは、「みんなが気持ちよく学校生活を送れるよう、一人一人が責任をもって、自分の使ったものをかたづけよう」と訴える児童Mさんの文章。もう一つは、掃除当番の児童Nさんのコメント。みんなが散らかしっぱなしのものを片付けているために、掃き掃除や拭き掃除に手が回らないと明かしています。

 そこで問題です。Mさんは「片付けは掃除当番がやればいい」という人を説得するために、Nさんのコメントを使って「使った人が片付ける」を強く訴えたいようです。字数は60字以上、100字以内。さあ、どう書きますか。

 正答率は56.7%、無回答は9.5%でした。難しい問題で、元新聞記者でありながら3回も問題文を読み直さなくては理解できない内容でした。それを6割近くの小学生ができたなんて立派じゃんと言ってはいけないのでしょうか。1割近くが答えられなかったことも含めて、「困ったこっちゃ」と眉間に皺を寄せる場面なのでしょうか。

 文科省のサイトに出ていた解説を見たら、別の意味で眉間の皺が深くなりました。

 

 「目的や意図に応じて、理由を明確にしながら、自分の考えが伝わるように書き表し方を工夫することに課題がある」

 

 そもそもこの問題は「自分の考え」を書くように求めていたのでしょうか。設問設計者の意図に沿って、一定の条件付きで書くことが「自分の考え」なのでしょうか。

 疑問が消えないため、指導の助言も響きません。

 「自分の考えが伝わるように書くためには、目的や意図に応じて、詳しく書く必要のある場合や簡単に書いた方が効果的である場合を、自ら判断して書くことができるように指導することが大切である」

 

 「自分の考え」とは何でしょうか。(マツミナ)

選挙の顔

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踏切のグラジオラス(イデちゃん)

  9月の自民党総裁選をめぐり、党内の若手・中堅を中心に「菅首相の下では戦えない」と不安視する声が上がっているようです。幹事長の二階さんが「誰々さんでは選挙は戦えないというのは失礼な話ですよ。自分だったらどうするんだ」と苦言を呈しても収まりそうもありません。それどころか、幹事長交代の話まで出てきました。

 

 内田樹氏が東京新聞の「時代を読む」(8月29日付)というコラムで「自民党の劣化」と題して、池田勇人田中角栄が仕切っていた頃の自民党を引き合いに興味深い指摘をしています。

 「自民党の党人派の政治家たちには、敵味方を截然と分かつよりも、とりあえず縁あって『草鞋を脱いだ』人間は一家に迎えるという仁義を守る者が多くいた(略)、今の自民党にはもうそういう『人脈』を持つ政治家はいないし、『寝技』や『腹芸』を使える者も絶滅危惧種となった。あの手の芸は若い頃から場数を踏まないと身につかないが、今の自民党はほとんどが世襲議員かメディア有名人上がりだから、『修行』を要する『芸』は身に付いていない(略)、乳母日傘で育った世襲政治家たちはそもそも『修羅場』というものを見たことがない」

 

 自民党の議員の中で「3年生議員」「2年生議員」などと呼ばれる人たちの多くは自分の力で当選を勝ち取ったというよりは、時の政権の御威光で当選した者が多いと言われます。彼らにとって「選挙の顔」は自分の当選に直接影響する重大ごとになるというわけです。

 二階さんは自民党の中で修羅場の経験を持つ数少ない「党人派」の一人ですが、「自分だったらどうするんだ」と睨み返した胸の中は「人の褌で相撲を取りたがる奴らばかり増えやがって」という思いでいっぱいだったことでしょう。お察しいたします。

 

 そういえば、以前の首相の中には、文書を改竄させたり、本当のことを言わなかったり、人のせいにしたりして「修羅場」をすり抜けてきた方が何人かいました。どなたも「乳母日傘で育った世襲政治家」でしたね。そういう方を親分に担いで選挙に勝とうって魂胆が気に入りません。「親が親なら子も子」とはよく言ったものです。

 自民党は好きではありませんが、「草鞋を脱いだ」人間を何人も一家に迎えてきた二階さんに同じ世代の一人として同情したくなりました。(イデちゃん)

 

透明な国、ニッポン

 

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存在感バッチリのスイーツ(マツミナ)

 「東京を中心に行われた各競技を見て『復興五輪』を意識した人はどれほどいたのでしょうか」(イデちゃん)

 そうでした。東日本大震災から復興した日本をアピールする、そんな話でしたね。真っ最中にもかかわらず国内ですちっとも聞かないのに、国外では期待薄でしょう。ひょっとしたら、日本の存在感すらもはやない、それかもしれません。

 

 先日、韓国映画白頭山大噴火」を見てきました。一言でまとめると、ご都合主義の娯楽大作。やはりエンターテインメントは、こうでなくっちゃいけません。1900円(当日券)の価値はあります。

 物語は、北朝鮮と中国の国境にそびえる白頭山の噴火から始まります。観測史上最大規模の噴火で、半島壊滅の危険性がある。それを食い止めるために、韓国軍爆弾処理班の大尉にミッションが下されます。北から核を盗み出し、山の地下を巡る坑道に仕掛けて大噴火を食い止めよ。核の場所を知っている北側工作員…。

 何よりも印象に残ったのは、日本の存在感が全くなかったことでした。少しは出ていたのかもしれないけれど、少なくとも記憶には残りませんでした。前面に出てきていた米国や中国とは大違いです。韓国には日本企業や人もたくさんいるはずなのに不思議です。そんなことがあるのでしょうか。対日感情が悪ければ「存在感のない日本」を描くかもしれません。

 ただ、創作の世界のこと、と割り切れないのは、世界が注目しているアフガニスタンミャンマーでも日本の姿が見えないのです。米国やイギリス、ドイツなどの国の政府は出てくるけれど、日本は目に入ってきていません。こうした問題で、何か日本が存在感を発揮していることはあるのでしょうか。

 国際政治の現場だけでなく、学術の世界でもそうです。日本の研究力が凋落の一途をたどっているようです。

 あっちでもこっちでも日本は存在感を示せない。ひょっとしたら「透明な存在」になっているのでしょうか。世界に貢献するために大活躍しているけれど、表には出てこないのかもしれません。日本はケンキョな国ですから。(マツミナ)

おもしろうて やがて寂しき花火かな

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晩夏のセミ(イデちゃん)

 このところ毎夜7時半頃になると、西の方角に花火が上がります。所沢にある遊園地が行っている夏の特別プログラムの一つのようです。我が家の入る建物の8階の廊下から多摩丘陵の上に広がる花火が目の高さに見えます。パッと開いてからしばらくして「ドーン」と音が聞こえてくる遠い花火です。頭の上で音と光が同時に炸裂する近間の花火と違って迫力に欠けますが、光に遅れて音がついてくる間延びした花火もそれなりに風流でいいものです。

 

 「遠花火寂寥水のごとくなり」(風生)なんて句があったな、などと思い出しながら風に吹かれて眺めていると、突然、目の下の道路を救急車が走って行きました。「ピーポーパーポー」の警報音は、近づいてくる時と遠のいて行く時とで聞こえ方が違います。目の下を通り過ぎると甲高い音は途端に音程が下がり、間延びした感じになります。これは進行方向に進む音は波長が短くなり、反対に進行方向と逆方向に進む音は波長が長くなるために起こる現象で「ドップラー効果」というのだと高校で習いました。
 同じ間延びでもこちらは風流なんてものではありません。遠ざかる警報音を聞きながら、「もし、あの救急車で運ばれた人が新型コロナウィルスの感染者だとしたら、搬送先の病院に受け入れてもらえるのだろうか」と心配になりました。

 

 花火が終わり部屋に戻るとテレビで長岡の花火の特集をやっていて、花火の製作者が「中越地震に見舞われ大きな被害を受けた長岡の人々にとって、花火は鎮魂と供養の祈りでもある」と話していました。昨年も今年もコロナ禍で中止になり、8月の初めに観客席を設けずに規模を縮小した花火大会を長岡周辺の各地区で行ったそうです。地震で壊滅的な被害を被り、やっと復興を果たした山古志村の老夫婦が遠くにあがる花火を見ながら「早くコロナが収まって、また以前のようにみんなで長岡の花火大会に行きたいね」と話しているのが印象的でした。来年こそ復興を喜び鎮魂と供養の思いを込めた花火大会ができるといいですね。

 

 ところで東京オリンピック2020のテーマは東日本大震災からの復興を世界に発信することだったはずです。東京を中心に行われた各競技を見て「復興五輪」を意識した人はどれほどいたのでしょうか。「原発はアンダーコントロール」と嘘をつき、「8月の東京は温暖で快適」と偽ってまで招致したものの、終わってしまえば遠ざかる救急車のサイレンのように間延びした記憶が残るだけになってしまったような気がします。

 「おもしろうて やがて寂しき花火かな」 (イデちゃん)

 

灰になるために生まれてきたのではありません

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蓮は咲くときに音がするって本当でしょうか(マツミナ)

 気になっているサイトがあります。

 「ペットのおうち」

 動物の保護活動をしている個人やNPO、保健所などと、飼いたい人たちが情報交換するサイトです。ここに写真が掲載されている犬や猫たちは、新しい家族を求めています。

 

 https://www.pet-home.jp/dogs/tochigi/pn379412/

 

 ここには犬77,000匹、猫200,000匹、そのほか鳥や魚の情報も掲載されています。我が家には東日本大震災後に福島県南相馬市から迎えた雑種がいるせいか、犬のページばかり見てしまいます。サイトに書かれている保護の経緯からは、日本社会の現実が見えてきます。

 

 「多頭飼育崩壊後にレスキュー」

 その犬は60匹以上の中で暮らしていたため、ご飯も水もろくにもらえず、ガリガリに痩せ、全身は傷だらけ。散歩もさせてもらえなかったようで脚の爪も長く伸びていました。

 

 「かわいいおばあちゃん」

 イングリッシュ・セッターの推定12歳。迷子犬として保健所に収容されていましたが、お迎えがなく殺処分対象になっていたそうです。保護活動をしている方がレスキューし、情報を掲載していました。おばあちゃん犬が、飼い主を振り切って脱走するのでしょうか。

 

 「繁殖場からのレスキュー」

 イタリアン・グレーハウンドの推定10歳以上の老犬で、全盲です。目は真っ白です。産ませるだけ産ませて。ペットショップで並んでいるかわいい子犬ちゃんたちの裏側です。

 

 野犬もたくさんいます。保護される場所は、山口県が突出しているようです。その一つ、山口県周南市のサイトを見ると、野犬による被害が多発し、住民に注意を呼びかけていました。山口県は首相を8人も輩出しているだけに、新幹線の駅は六つ、道路網も整備されています。周囲の自治体に比べてアクセスのしやすさが「捨てやすさ」につながってしまったのでしょうか。

 

 保健所に収容されている子たちには「収容期限」が書かれています。そのうちの1匹の写真に、こんな言葉が書かれていました。

 「灰になるために生まれてきたのではありません」  (マツミナ)

 

教育長の「不作為」を問う

 

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「食べられません」と掲示するということは「食べる人」がいるってこと?(イデちゃん)

 東京都教育委員会の臨時会で「学校連携観戦プログラム」の実施をめぐり、4人の教育委員から反対意見が出されたにもかかわらず、「議決を要しない報告事項」なので改めて審議はしなかったという新聞報道について、8月23日に私はこう書きました。

 

 「4人の委員は実施に反対し、報告も了承しないと言ったのでしょうか。それとも、4人の委員から反対意見が出されたものの、報告は了承されたということなのでしょうか。そこのところがちゃんと書かれた記事は見当たりませんでした。現場が知りたいのはそこにある」

 なぜなら、これがこの問題の核心だからです。

 

 教育長の報告は教育委員会で了承されていなかったことが明らかになりました。

26日、都教委の定例会が開かれ、「東京パラリンピックの学校連携観戦プログラムについて、反対していた委員から『なぜ止められなかったのか。反対意見を言うだけでなく、決議事項にしてくださいと言わなければいけなかった』などと自省する声が相次いだ」(27日付 東京新聞)そうです。これに対して、藤田教育長は「了承をいただけていない中、実務上進んでいることは異例で責任を感じている」(同紙)と謝罪しました。

 やはり報告は了承されていませんでした。今頃わかっても後の祭りですが。

 

 ところで、教育長報告の扱いを規定した教育委員会の会議規則はどうなっているのでしょう。会議を司る委員長は報告を了承するのかしないのか、委員会に諮らないまま会議を閉じてもよかったのでしょうか。委員の一人は「『レイマンコントロールの原則を実現できなかった』と反省」(同紙)されていますが、会議規則をよく理解していなかったために重大な報告を看過してしまったのであれば、都民の意見を代表する「レイマン」として本気で反省すべきです。「キレイゴト」では済まされません。

 教育長は「了承をいただけていない中…」と言っているのですから、当然「了承」されないまま会議が閉じられたことを承知していたのです。

 

 教育委員会は、教育長の「不作為」を問わなくていいのでしょうか。(イデちゃん)

なぜ報道しないのか

 

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夏の落とし物(マツミナ)

 「質問力を磨く(Class Q)」の学生たちのチームが、ウイグル自治区の現状について調べています。学生主催のイベント「マラソンQ」で、ウイグル自治区での人権侵害について書かれた記事をテーマにしたことがきっかけでした。

 学生たちは新聞やインターネット上の記事を集め、問題解決の糸口を探っているようです。けれどもいかんせん、情報が足りない。米英の報道に比べて、日本のメディアにウイグル問題に関する記事が少ないのです。なぜだろうと考えていたら、こんな指摘を見つけました。

 

 「理由は簡単で、米国や英国と、日本とでは国力に差があり、中国における記者を含む邦人保護などでもその差が出るからだ」(福島香織著「ウイグル人に何が起きているか」PHP新書

 

 著者は中国での取材歴が長いフリージャーナリスト。ジャーナリストが中国で何らかの迫害を受けた際、国の対応に大きな隔たりがあると書いています。

 たとえば、2019年に9人の日本人がスパイ容疑で逮捕された際、日本は釈放のためにほとんど何の外交交渉も行っていないようです。「せいぜい日本大使館関係者が(略)差し入れをしているぐらい」(同書)。

 中国政府が米国人ジャーナリストのビザ更新を拒否した際には、当時副大統領だったバイデン氏自らが北京を訪れて交渉し、更新を認めさせていたとか。

 報道が民主主義社会を守るためにいかに重要なのか、そのことを政府が分かっている。だから米英の記者たちは何かあったら、必ず自国が報道の自由を守ってくれるはずだと信頼して、リスクの高い最前線で取材できるのだと述べています。

 

 「自国を信頼する」かあ。どんな場面であっても、そう言えることに羨ましさを感じます。今の私は言えるだろうか。コロナの感染拡大を報じるニュースを見ながら、ため息をついていました。(マツミナ)

沈黙の春

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夏の終わり、ゲレンデは牛たちに占領され(イデちゃん)

  夏休みが終わりに近づくとよく見られる光景。

「工作に、読書感想文に、自由研究に…。まだ終わってない」

「だいたいねえ、あなたが計画通りちゃんとやらないからいけないのよ」

「ああ、どうしよう」

「遊んでばかりいるからよ。頑張らないと終わらないよ」

「夏休みがあと一週間残っていればなあ」

「馬鹿なこと言ってないで、早くやりなさい」

 まだ終わってない課題を前にして、今までサボっていたことを棚に上げて「あーあ、夏休みがあと1週間残っていればなあ」とぼやいても後の祭りです。

 

  学校から「夏休みを延期します」って通知が来ました。なんと2週間も延期してくれるっていうのです。宿題が終わっていなくて青息吐息だった怠け者の願いが天に通じたのでしょうか。もちろん冗談です。そんなはずはありません。

 新型コロナウィルスはどんどん変異して、これまで比較的感染し難いと言われていた若年層にも感染し、重篤な症状も出るようになりました。そのために二学期の始まりを遅らせることになったのです。宿題をサボった君を救済するためではありません。事態はもっと深刻です。

 

 長い夏休みの間にコロナが収まり、安心して学校に行くことができるようになることを願っていました。宿題に追われ、お母さんに小言を言われても、学校が始まりクラスの友達や先生と会える楽しさを思えば、一時の我慢です。やっぱり学校はいいところですから。

ところが、テレビの画面に「夏休み中、子供たちがどんな生活をしてきたかわからない。学校で感染し、家庭に持ち帰って家族が感染することになったら大変だから、うちの子を登校させたくない」と語る母親が映ってるではありませんか。「学校にやるのが心配だから、行かせたくない」というのですから事態は重大です。パラリンピックを見に行くとか行かないとか言ってる場合ではありません。

 

 春になっても鳥たちが鳴かなくなったこと通して、大量に使われる農薬や工場から排出される化学物質の影響を告発した「沈黙の春」(レイチェル・カーソン)を思い出しました。 子供の声が聞こえない学校なんて御免です。(イデちゃん)